24 12月
Merry Christmas イエスさまのお誕生日を心よりお祝い申し上げます WWGM 坂 達也 柚実子
Merry Christmas
イエスさまのお誕生日を心よりお祝い申し上げます
WWGM 坂 達也 柚実子
クリスマスといえば「光の祭典」と言えないでしょうか。特にアメリカでは、都会でも田舎でも、飾り付けたクリスマス・ツリーをはじめとして、家の前庭とか屋根・窓の輪郭を電球と種々の飾り物で美しく飾り、夜でもその飾り付けで辺り一面がこうこうと光り輝いている今は、一年を通して街が最も美しく輝いているシーズンです。
イエスさまがお生まれになったときは、色々な超自然の奇跡が起きましたね。イエスご誕生のストーリーを聖書で何度読んでも、その奇跡の情景に圧倒されます。中でも預言者イザヤは「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。 」(イザヤ9:2)と言い、イエスを「大きな光」と称しました。イエスはご自身が創造者として、被造物を肉の光を必要とするものとして造られただけでなく、霊的な光をも必要とするように造られたと信じます。特に創造主として主イエスは、この目に見える全宇宙とその中に住む生き物を人間のために造られたのですが、その人間こそ最も霊の光を必要とします。また、イエスご自身も「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 (ヨハネ 8:12)と言われましたが、まさにイエス・キリストとは「すべての人を照らすそのまことの光」 (ヨハネ 1:9)としてお生まれになったのです。すなわち、神は真の霊の光が輝く光そのものです。ですから聖書には「神の栄光 glory of God」と言う言葉が数多く出て来ます。それと同時に、その神の輝く光を「見よ behold、 see 」という意味の言葉が旧・新約聖書を通じて、それこそ数えられない程、何千という回数使われています。これを知っただけでも、人間が光を見上げること、しかも「心の目がはっきり見えるようになる」(エペソ1:18)ことがいかに大切であるかがわかります。
その良い例の一つが2コリント3:18です。そこには「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように 見つつ (beholding) 栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは(聖)霊なる主の働きによるのである。」 【口語訳】と書かれています。ここで書かれている「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく 」の「変えられる」とは英語のトランスフォーム「変革される」という意味です。そして後に続く2コリント4:6では「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの (暗い)心を照らし、 キリストの御顔にある(輝く)神の栄光を知る知識を輝かせて (与えて)くださったのです。」とあります。
ここで私は、ルカ9:28で「・・イエスはペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」 と書かれているのを思い出します。いわゆる山上の変貌と言われるところです。イエスが祈られるとイエスの御顔が変わり、ものすごく輝き出しました。ここでの「変わる」という言葉は英語ではトランスフィギュアですが、原語では3:18のトランスフォームと同じmetamorphoo ですから同じ意味です。これは何を意味しているのでしょうか。
そこでもう一つ思い出していただきたいことがあります。それは罪を犯す前のアダムとエバは裸であったにも関わらず、その身体は光り輝く光の衣を着ていたのが、罪を犯すと同時に彼らが裸であることに気が付いて神から隠れたことが創世記3:7−11に書かれています。ということは、山上で祈った時にイエスの御衣が光り輝き出したことと、罪を犯す前の裸のアダムとエバが着ていた「輝く光りの衣」と同じ状態であったことを、神は山上で祈るイエスの変貌(トランスフィギュア)を通して私たちに見せてくれたのであると思います。
イエスは神でありながら、私たち人間と同じ人間としてこの世に生まれて来られ、人間として生きられ、しかも罪を犯さなかった。そして、私たちの罪を背負って十字架に付いて死なれ、甦って、永遠の命を持つ霊の身体に変わられるという模範を示されただけでなく、私たちがキリストを信じ、キリストと共に十字架につき、キリストと共に死に、キリスト共に蘇り、キリストと共に永遠の命で生きる、いや、キリストが私たちの中に生きていて、私たちは神の神殿であり、同時に私たちも天の神の右座にキリストと共に座して生きることを願っておられるのです。私たちはキリストのからだであり、一心同体となる花嫁です。
ですから私たちが天を見上げて祈る時、キリストを心の目で見上げつつ、じっとキリストを見つめて時を過ごす時に、私たちはキリストの栄光から栄光へと変革され、私たちの内面がキリストに似た者へと変えられて行くのであると信じます。それはキリストが多くの時を父なる神を見上げ、見つめて時を過ごされたからであり、弟子たちは主にそのような父との親密な祈り方をどのようにすればよいのかを教えてもらいたいと願ったのです。
ここで私は、私の著作「主を見つめて待つー霊に目覚め・神の声を聞く方法ー」で触れた「コンテンプレイテイブな祈り」の重要性 を改めて強調したいと思います。私は最近改めてこの祈りの必要なことを感じ、毎日実行していますが、この祈りによって私たちのうちにおられる聖霊の臨在をより身近に感じ、主と共に歩む助けとなっています。それと同時にこの祈りによって私たちの心・魂が栄光から栄光へと変えられ、私たちの内面が真にキリストに似た者に変えられることと共に、私たちが主からいただいたデステニーを正しく歩むための導きと力をいただけることへの確信を覚える次第です。
最後に量子論と量子力学が、その基盤において、人間の見ることによって(科学者は観測と言いますが)、元来波長として流れる光子とか電子、その他の量子自体が個々に持つ「意識」に作用し、その量子の流れを見つめる人の心・思いに沿ってこの世のものに具体的に具象化、あるいは組み立てられ、造られて行くことが実験的に証明されていることは新年に改めてご紹介しさせていただきたいと思っておりますので、お祈りくだされば幸いです。
それでは、どうぞ皆さま、新しい年に向かって主と、皆様方のグループ・ご家族と一層の親しいコイノニアの関係に入れますように、心からお祈りしております。(終り)