破れない網 デイビッド・コレンダ 2018年12月17日
破れない網
デイビッド・コレンダ(Christ for All Nations)
次の二つの話は多くの点で非常に似ていますが、同じ出来事を記したものではなく、一つはイエスの地上でのミニストリーの始めに弟子を召されたときのことであり、もう一つはイエスが復活された後に起こったことです。
ルカ5:4−7
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとりませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやってきて、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
ヨハネ21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、他の弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
両方の話には漁師が出てきます。彼らはプロの漁師でしたが、一晩中一匹も魚がとれませんでした。その時一人の人があらわれて、魚の取り方を教えたのです。彼らはそれに従いおびただしい魚が取れました。しかし、違いがあるのに目をとめてください。一つ目の話では「網が破れた」(訳者注:新改訳では「網が破れそうになった」とありますが、原語では「網が破れた」です)とありますが、2つ目の話では魚が大きな魚でいっぱいであったにもかかわらず「網は破れなかった」とあります。
今私たちは最大の収穫の時を迎えていると信じますが、私が一つ懸念していることがあります。大漁で網が一杯になることと、その魚をちゃんと捕まえることとは違うのです。多くの魂が救われても、実を成らせるものはどれほど残るでしょうか。私が神学校にいた時、教師から「あなたのミニストリーが失敗したときには、どうしますか?」と問われました。その教師は「すべての者は必ず失敗する」と想定していたようです。でも私は教師とは違う想定をしたいと思います。あなたは漁に行き、多くの魂を救い、あなたの網は一杯になるのです。しかし、その時、ある危機があなたを襲います。失敗した時ではなく、成功した時にこそ危機が来るのです。皆さんは今ミニストリーで苦労しているかもしれませんが、成功したならば、もっと大変なのです。あなたのミニストリーが人々に知られメディアから注目されるようになった時、又経済面でも多くの収入が得られるようになった時、危険がやってくるのです。私のミニストリーもその成功の重みに耐えられなくなってつぶれるのを私は経験しました。けれどもその経験によって多くのことを学ぶことができました。今の世代を神が回復し、収穫をもたらされるとき、私たちがつぶされない為にはどうすればよいかを私は学んだのです。
この二つの話には、3つの非常に重要な違いがあります。その違いこそ、一つ目の話では網が破れ、二つ目では破れなかった理由です。
1.舟の数
ルカ5:7には 「別の舟にいた仲間」とありますが、ヨハネ21:3ではペテロの「私は漁に行く。」という言葉を聞いて他の弟子たちは「私たちもいっしょに行きましょう。」と言い、一つの小舟に乗り込みました。一つ目の話では弟子たちは違う舟に別れて乗っていましたが、2つ目の話では、彼らは一つの舟に一緒に乗っていました。彼らにはユニティーがありました。ルカの「(網が)破れた」という言葉はギリシャ語ではスキゾーと言いますが、英語のスキズム(分裂)と同じ語源です。教会の分裂、家族の分裂、社会の分裂などはサタンの常とう手段です。分裂によってどんなよいものも壊されていくのです。神があなたを祝福し始めると、サタンはあなたの結婚、家族、親しい関係、教会やミニストリーの仲間に分裂をもたらすのです。嫉妬や内争、苦々しさほどミニストリーを壊すものはありません。そしてそれはまさに神がミニストリーを祝福し始めるときに起こるのです。
イエスはご自分の業を受け継ぐ人を求めておられました。それは一人で受け継ぐことは不可能です。主はそれを5つに分けられました。エペソ4:11には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。ですから一人でキリストの業を受け継ぐことは不可能であり、それぞれ五分の一、即ち20%を受けた者たちが集まって一致して働くことが絶対に必要なのです。これは主が立てられた素晴らしいプランです。それは「あなたは他の人々と一緒に働くべきだ。」というのではなく、あなたの賜物の召しを十分に達成するためには、あなたはどうしても他の人々を必要とするのです。
ご存知でしょうか。「牧師」と「伝道者」の間には、往々にして諍いが起こります。牧師は「伝道者は人が大勢集まればいいと言う。そしてベイビークリスチャンを沢山作って満足し、あとの面倒は全部牧師にさせる。」と言います。伝道者は「牧師は自分の小さな群れのことばかりに気を配り、教会の壁の中に閉じ籠っている。外の世界では多くの者が失われ地獄へと向かっているのに。」と言います。サタンは両者をこのようにして分裂させます。それは両者が一致して働くならば、サタンは自分がやられてしまうことを知っているからです。私たちが共に働き、各々の欠けているところを補い合うならば、素晴らしい神の業が表れるのです。
ここには(モーニングスター・ミニストリー)には預言的な人が多くおられますが、はっきり言って、彼らはちょっと変な人達です。(笑)彼らの口から出てくる言葉の半分も私には理解できません。私は全く違います。私は実践的で、現実的な人間です。ですからややもすると預言の賜物を軽蔑してしまいそうになります。でも私は預言者の預言が必要ですし、預言者も私のような者が必要なのです。又、預言者だけで教師がいないならば、大きな問題が起こります。エペソ4:7に「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とありますが、これは非常に大切な言葉です。ここにある「恵み」という言葉は「超自然的な力」という意味です。各自に与えられている賜物を機能させる電池が恵みです。恵みがなければ賜物があっても 、それを働かせることはできません。
あなたが持っているのが20%だとすれば、どうすればよいのでしょうか。ピリピ1:7でパウロは「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明して立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。」と言っています。ピリピの人々はパウロの恵みを共に受け取っていたのです。即ち、私たちはお互いの人生の恵みをお互いに分かち合い、お互いにあずかることが出来るというのです。20%受けた者たちが集り一致して働くとき、100%の業が出来るのです!そして「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する(エペソ4:13)」のです。お互いに「私はあなたが必要です!」と言いましょう。
ある時私はペットショップに水槽を見に行きました。タツノオトシゴやクラゲ等がおりましたが、一つの水槽には蟹が沢山入っていました。それには蓋がついていなかったので、私は店の人に「蓋がないと蟹が逃げるのではありませんか?」と訊くと、彼は「大丈夫ですよ。一匹の蟹が上に上ろうとすると、他の蟹が必ずそれを引きずり下ろしますから。」と言いました。私は「蟹はなんと私の知っているクリスチャンに似ているのだろう。」と思いました。(笑)
私たちは自分よりもっと祝福されている人がいるのが好きではありません。自分より繁栄している人がいるのが嫌です。自分の教会より大きくなっている教会があるのを好みません。ですから神が水槽の底から誰かを引き上げると、「キリストのからだ」はその人を引きずり下ろすのが使命だと感じるのです。
エペソ5:14−17に書かれている神の武具はすべて前方の敵に対するものです。ですから敵が後ろから攻撃したら、防げないのです。私は主にそのことを訊ねると、主は次の18節を示してくださいました。「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とあります。つまり私たちはお互いの後ろを守る武具となるのです。あなたは兄弟姉妹の後ろの武具なのです。神はキリストのからだがそのように機能するようにデザインされたのであり、各自が一人で戦うようには意図されてはないのです。一人で戦うならばやられてしまいます。けれども残念なことに兄弟姉妹同士が背中を突き刺すことが何と多いことでしょう。
ヨハネの福音者を書いた使徒ヨハネは21章でペテロの名は20回ほど書いていますが、自分のことは「主に愛された弟子」と言っています。ヨハネにとって「主に愛されている」ことを知っていれば、自分が何者であるかを人に宣伝する必要もなく、他に何もいらなかったのです。教会が必要としているのはイエスの愛の啓示です。イエスがあなたをどれほど愛しておられるかを知るならば、私たちはパーフォーマンスをする必要もなく、他と較べたり競い合うこともないのです。
2.絶対服従かどうか
ルカ5:4「深みに漕ぎ出して、網(原語は複数 nets)をおろして魚をとりなさい。」
ヨハネ21:6「舟の右側に網(原語は単数 net)をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
一方はnetsと複数であり、もう一方はnetと単数になっています。ルカ伝でイエスは複数の網をおろせと言われましたが、彼らは一つの網しかおろしませんでした。彼らはイエスのお言葉に半分しか従わなかったのです。
私はある時 ロンドンで「伝道者としてあなたがボンケ師から習った一番大切なことは何ですか。」と訊かれました。
私の答えは「ボンケ師は神の言葉に100%服従した。」ということです。徹底的服従です。ボンケ師はこう言いました。「神が私に何かを命じられならば、私は跳び上がって即座に従います。私が従うかどうかを神はじっと見ておられるのを私は感じるからです。」
イエスが何かを命令されるときは、細部に至るまで理由があるのです。人々は不信仰の故に従いません。弟子たちはプロの漁師でしたが、イエスの言葉に従いました。一方は「深みに漕ぎ出して複数の網をおろせ」であり、もう一方は「舟の右側に一つの網をおろせ」というものでした。ルカ伝では、多分弟子たちは「一晩中一匹もとれなかったのだから、複数の網を下ろす必要はないだろう。一つで十分のはずだ。」と思ったのです。そして彼らにとって理に適ったやり方で(即ち一つだけ網をおろして)イエスに従ったのです。これから起きることが彼らの今までの経験、理解を越えたものになることを知らなかったからです。神のなさる事は超自然的です!奇蹟が起ころうとしていたのです!
3.魚の入った網を舟の中に入れるかどうか
ルカ伝では弟子たちが魚が一杯になった網を舟の中に入れようと持ち上げた時に、網が破れました。一方ヨハネ伝では弟子たちは魚で一杯になった網を引いて小舟で海辺までやってきました。ペテロはその網を陸地に引き上げたのです。(訳者注:新改訳には「シモン・ペテロは舟に上がって」とありますが、原語にはありません。口語訳は先に陸に着いていた「シモン・ペテロが行って、網を陸へひきあげると」となっています)ペテロは魚の入った網を舟に入れるのではなくイエスのもとに持って行ったのです。
魚をあなたの舟に入れようとするとき、網は必ず破れます。 収穫が「自分の成果、自分の栄誉、自分のミニストリー、自分のエゴ、自分の願望、自分の夢」になるならば、それは破滅への下地を作っているのです。多くの人は魚を自分の舟に取り込もうとしますが、それは自滅へと導きます。私たちはあくまでもキリスト中心であるべきです。私たちがイエスの十字架と血潮、御臨在の確かさに焦点を当てるなら、そして私たちのすべての業が自分にではなくイエス・キリストに焦点を当てるものであるならば、収穫があるばかりか、それは残り実を実らせるのです。
ヨハネ伝にはこの後に、イエスとペテロの会話が描かれています。イエスは「ペテロよ、あなたは羊を愛しますか?
それなら羊を養いなさい。」とは言われませんでした。主は「ペテロ、あなたは私を愛しますか?」と問われました。羊を飼うペテロの動機は、羊への愛ではなく、イエスへの愛であるべきだからです。人々はよく、「どれほどある国を、又ある人々を私は愛しているか」と言いますが、そのような愛があなたの動機ならば、もし彼らがあなたの背中を突き刺したとき、あなたは彼らを養う気持をたちまち失ってしまうことでしょう。
私は羊を愛していますが、それが理由で羊のところに行くのではありません。私の第一の動機は私が主を愛しているからです。私は主を愛し、主は羊を愛されるのです。私はそのために命を捧げています。あなたのキリストへの愛が再びすべてを越えるものでありますように。私たちの人生に主が再び第一のものとなり輝きでますように。
15節で主が「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。 Do you love me more than these?(訳者注:原語の意も『these これら』であって、『この人たち』とは言っていない)」と訊かれたのは、「あなたはこの沢山の魚以上にわたしを愛しますか?」という意味だと私は思います。魚を獲ることはペテロの職業であり、大漁は彼の成功を意味します。ペテロにとっての成功、人生の目的がそこにありました。イエスは「それより以上にわたしを愛しますか?」と訊かれたのです。
主は私たちにも訊いておられます。「あなたは自分のミニストリー以上にわたしを愛しますか? 収穫よりもわたしを愛しますか?
成果よりもわたしを愛しますか? 成功よりもわたしを愛しますか? 癒しや奇蹟よりもわたしを愛しますか?」と。
魂の収穫はすばらしいものです。私たちはそれを求めます。しかしそれよりも私たちの主への愛がはるかにまさっていなければならないのです。なぜならば主への愛が一番になっているならば、他のすべてのものは正しい位置に置かれるからです。しかし、私たちがそのフォーカスを失うならば、網はやがて必ず破れるのです。
ある有名なミニストリーが崩壊したとき、友人がそのリーダーに崩壊の理由を訊ねました。彼の答えは次のようなものでした。「私たちは神が養うのではないモンスターを造ってしまいました。ですから自分たちでそのモンスターを養う方法を考えねばなりませんでした。」
また、私の友人の若い伝道者がある聖書大学でメッセージをしたとき、キリストの愛に迫られて泣いてしまいました。彼が話し終えたとき、 学長が「私もかつてはこの人のようにキリストへ愛に燃えていた。しかし今や私は学校運営のビジネスマンになってしまった。」と皆の前で泣きながら告白したそうです。
私はこれらの話を聞いて、「主よ、どうかこのような事が私に、そして今の世代に起こりませんように。どうか私たちが初心に留まれますように。自分のエゴを満足させるためにモンスターを造ることがありませんように。どうかお金を儲けるビジネスマンになりませんように。私は有名になったり、お金を得るためにミニストリーを始めたのではありません!あなたを愛する故に伝道者になったのです。あなたが召してくださったので、命をささげたのです。」
私はイエスが今、私たちを初めの愛に呼びもどしておられるのを感じます。それが出発点でしたし、私たちはそこに常に留まらねばならないからです。もし焦点が出発した時よりもずれてしまっていると感じる方、又動機がいろいろなもので汚されていると感じる方は、どうか心の中で主に祈ってください。「どうかもう一度正しい位置にもどしてください。あなたとアラインしますように。
他のことに心が動かされて間違った動機になってしまったことをお赦しください。 主が再び中心となりますように。成功とか、人々とか、お金とかではなく、屠られた小羊を高く上げることだけが動機となりますように。それだけが私たちの焦点となりますように。」と。 (終り)