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Walk With God Ministries

03 12月

「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日


「ただ一度のまなざしで」

 

フランシス・フランジペイン

 

 

雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」

人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。

自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。

 

マタイ7:22−23

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、

主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。

主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。

 

神は愛です

 

私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。

しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。

 

神の御こころ

 

今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。

主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。

あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。

イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!

黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 

お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。

主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。

 

(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)


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