2018年秋の日本訪問を終えて(2) 坂 達 也 2018年11月18日
2018年秋の日本訪問を終えて(2)
坂 達 也
私たちの真の身分証明書
初めて会う人同士は先ず「あなたはどこの生まれで、今は何をしていて、どこに住んでいるのか」をお互いに紹介し合います。その場合、クリスチャンの私たちはこう答えるべきではないでしょうか。
「私はこの宇宙が造られるずっと以前に、天の父の中から生まれました。そして今はこの地球に送られて来て、キリストの弟子になる猛訓練を受けている最中で、いずれ天に帰ります。私の国籍と現住所は天の父の右座のキリストと同じところに神の家族として住んでいます。」(参考:エペソ1:3−5、ピリピ3:20、エペソ2:19)
つまり私たちは元々「永遠の命を持つ霊と魂を持つ霊の人間」であり、真の「キリストに似た者」になるための「霊的訓練」を受けるために、父がその目的で造った地球という仮の世界に、肉を着せられた人間として送られ、目下猛訓練を受けている最中なのです。肉の世界は、そのための仮の道場に過ぎず、いずれ元の住処の霊の世界に帰って行きます。罪にまみれた肉という稽古着はイエスと共に完全に死んで脱ぎ捨て、イエスと共に天によみがえり、永遠にイエスと共に生きるためにあるもの。天に戻ればそのしるしとして霊の身体が与えられます。ーこれが私たちの真の身分証明ではないでしょうか。
ですから、クリスチャンがいつまでたっても頭(肉)のクリスチャンのままで霊の目覚め、飢え渇きを覚えないなら、主は「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。・・・このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)と言われます。このようなクリスチャンにだけはなりたくないと思いませんか。神はこのようなクリスチャンで終わる人を最も嫌われます。皆さんはこの意識をしっかりとお持ちでしょうか。もし、お持ちでないなら、今こそ抜本的な意識改革が必要です。
エノクは最初に神と共に歩んだ人
エノクについては創世記5:21ー24に「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神と共に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。そしてヘブル書11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれ、彼の信仰が神に喜ばれていたことがわかります。 エノクはノアと共に「キリストと共に歩んだ人間」であることが聖書に書かれておりますが、この「神と共に歩むようになる」ことが私たちクリスチャンの最終目標であり、地上における霊的訓練終了の卒業証書であることをエノクが実証しています。そのような人間エノクは今天でどのような人になっているでしょうか。
私はエノクと聞けば、しばしば天に行かれるリック・ジョイナー師がそのエノクに天で会った時のお話を思い出します。生きたまま天に挙げられた人は他に預言者のエリヤがいますが、ジョイナー師は天で先ずそのエリヤに会いました。以下は私たちがWWGMで2014年5月1日のブログでご紹介した時の記事です。
エリヤとエノク
私(ジョイナー師)はこのところエリヤによく会います。預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐこの世に来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。
しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは又、「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。私も会いたいと思っていました。・・・なぜならエノクはこの終末の時代に現れる力ある者たちについて預言しているからです。そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならないくらい最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。
エノクと会ったすぐ後で私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は、私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。
エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じる者はいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのですよ。
エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」エノクは主の臨在の喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。
勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー喜びです。ですからあなたの試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。ーー以上でジョイナー師の話は終わります。
ところで預言者といえばエノクこそが聖書に現れた最初の預言者でした。(参照:ユダの手紙14−15)
エノク書から学ぶもの
私は最近になって初めて聖書の外典と言われるエノク書なるものを読みましたが、私が読んだ解説付きエノク書とは、リック・ジョイナー師のミニストリーに携わるマイケル・フィッケス Michael Fickess 師の著作「Enoch’s Blessing- A Modern English Paraphrase of Enoch’s Ancient Writings 」です。彼はエノク書の研究の権威者の1人であり、エチオピア・オーソドックス教会系の原本写本を100年ほど前に英訳したR.H.Charlesの本の中で、エノク以外の人が書いた部分の混入、あるいは内容的に嫌疑のある部分を除去し厳選したものを、現代の人が理解できるように、より分かりやすく書き直して、2014年にモーニングスター・パブリケーションから出版されたものです。前書きでジョイナー師も彼の考え方に同意しています。
それには終末に起こる黙示録とか大患難時代への預言だけでなく、驚くべきことに、創世記とか申命記というモーセの時代から旧約のイザヤ、エゼキエル、ダニエルと言った預言者たちの預言書に書かれていることと一致すると言われ、加えて1世紀の使徒たちと、その当時のクリスチャンも、このエノク書を他の旧約聖書と共に読んでいたことがはっきり伺われる程彼らに影響を与えていて、新訳聖書のユダ書、ヘブル書、ルカ伝等にその名が書かれています。
また特に名前は出ていませんが使徒の1人であるヤコブの手紙1:2−4に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書かれているのは、私は暗にエノクを見本として話しているように思えてなりません。
また私の見たエノクの書5:6に「その(終わりの)日にはキリストを拒否し神を無視した人たちは罪とその呪いにとどまるが、全ての義 righteousness を持つ人は喜びに満ちるであろう。」とあり、又それに続くエノク書5:9には「このような義の人たちは二度と主に不従順の罪を犯すことがない。もはや彼らの一生は神の怒りから来る死の体験をすることなく、彼らは神から与えられた日々を全うし、平安が日毎に増す。彼らの喜びに満ちた日々は幾倍にも増され、遂には永遠に続く感謝と平安に到達する」という意味の言葉が注釈付きで書かれています。
これは使徒パウロがロマ書14:17に書いた「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 に通じますし、同じパウロが書いたピリピ書の「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」、そして1テサロニケ5;16の「いつも喜んでいなさい。」には、エノクの書からの影響が強く伺われます。またヨハネ16:24では「・・・求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と書かれています。
これは何を示しているのでしょうか?それは、エノクの書が使徒たちに大きな影響を与えていて、エノクこそが「主と共に歩む人生を極めた人」であり、そのような人は「いつも最高の喜びに満ちているキリスト者」であること、またそうなったエノクに対する主の喜びは極まり、主が彼を天に取られたのであると私は思いますがいかがでしょうか。
エノクが神と共に歩むことができたのは、彼が天の霊の領域におられる主イエスに出会い、イエスに対して毎日全き従順な生活を送り始めたことを意味していると私は信じます。これは大変な信仰を持たねばできないことであり、またそれだけの信仰を持つようになったエノクは神に大変喜ばれたことでしょう。そのようなエノクであったからこそ神は彼を天に繁くビジョンとか夢で呼んでは、広く天の領域での活動を見分させ(御使いの働き、地獄の状態に至るまで)、そして世の終わりに起こる神のご計画を知らされたとしても全く不思議はありません。
神と共に歩く人は当然ながら「預言的なライフスタイル」で生きる人です。それも時々の経験で満足するのではなく、継続的に毎日、主と真に親しいコイノニアの関係に入る人であるのです。
私は今回の旅行で、いわゆる聖霊派の教会からカトリックの修道院まで様々なクリスチャンのグループをお訪ねしました。そしてどのようなグループであれ、最も重要なのは霊的な飢え渇きをもって主イエスを愛し求め、真に主とのリレーションシップを熱烈に追求することであるとわかりました。預言とか癒し、奇跡等はその結果として起こるのであり、本末転倒にならないように気をつけねばなりません。皆が聖霊派である必要は全くなく、それは教派の問題ではないという思いを強く持ちました。(続く)