コイノニアの重要さ(1) リック・ジョイナー
コイノニアの重要さ(1)
リック・ジョイナー
第一ヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わり(コイノニア)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)です。」
神とのコイノニア
私たちが互いに真のクリスチャンの交わりを持つには、まず各々が主との親密な交わりを持つことが必要です。ある人が主と親密になることほど、人に伝染しやしいものはありません。すべての人の心の奥底には神のための用意されているスペースがあり、人は霊なる神を礼拝するように造られているのです。すべての人の中に神だけが満たすことのできる渇望があるのです。私たちが主に近づくならば、まわりの人々を引き寄せます。そしてそれが人びとを主に引き寄せる唯一の方法であるべきなのです。
「火事が起こったときにそれを宣伝する必要はない」のです。もしあなたが主に燃えているならば、人々はあなたが燃えるのを見にくるのです。
祭壇の火は主が下してくださいますが(レビ記9:24、第二歴代誌7:1参照)、その火を燃え続けさせるのは私たちの責任です。(レビ記6:13
火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。)本物のリバイバルを人が起こすことは絶対できません。しかし人がそれを燃やし続けることを怠って消してしまうことは起ります。私たちはレビ人として祭壇の火を燃やしつづけるという任務を与えられているのです。
人々とのコイノニアの交わり
私たちはまず2、3人のグループから始めるべきです。2、3人であるならば、真に親密になり堅い絆で結ばれることができます。それを土台にして成長していけます。主イエスは多くの弟子の中から12人を選び、彼らと親しく交わり深い教えを与えました。12人というのは、家庭集会にとってよい人数です。「もっと大きくしなければならない」というプレッシャーを感じる必要はありません。私の経験では25人以上になると、何かが失われてきて本当の親密さを保つのは難しくなります。ですからその時はグループを二つに分けたりして、新しいグループを作らねばなりません。
大切なのは、すべてが組織的、形式的、律法的になされるのではなくて、自然発生的に(オーガニックに)なされるべきことです。勿論、計画や方法はよいことですし、教会の組織も必要になってきます。しかし、まず人と人との親しい交わりであるコイノニアが生まれていなければ、それは空虚なものです。私たちは「組織」としてではなく、「家族」として召されているのです。もし「家族」となるのを無視して「組織」を作ろうとするならば、私たちは基本的な召しを忘れているのであって、それを回復するのは非常に難しくなります。
使徒たちが各地で福音を伝え始めて人々が救われたとき、彼らは新しいクリスチャンをそのままにしてその地を去りました。長老や執事を選んで教会組織をつくることなどしませんでした。それから数ヶ月、或いは数年経ってからその地を訪れたときに、リーダーが必要ならば選んで任命しました。「幾つかの職に人が付かねば教会ではない」というような考えは全くありませんでした。一番重要なのは、そこに集まる人々が、皆主と親しくなり、家族の交わりで親しく愛しあっている、即ちコイノニアの交わりをしていることでした。
そして人数が増えていくならば、コイノニアを土台としたエクレシアの組織として成長していけばよいのです。
もう一つ現在の教会には大きな問題があります。それはメンバーをいつ働き人にするかということです。タイミングが「早すぎる」のと「遅すぎる」という両方の問題です。ルカ10章で、イエスは弟子たちを2人ずつ遣わされました。2人ずつで十分だったのです。指示をして彼らを送りだし、彼らはその任務を十二分に果たすことができ、喜んで帰ってきました。しかし次の11章に行くと、弟子たちがイエスに「祈り方を教えてください」と頼んでいます。彼らは祈り方も知らない前に、病人を直し悪霊を追い出したのです。勿論、いろんな失敗もしでかしたでしょう。でも失敗せずに成長する人はいないのです。まことに教会というのは、きれいごとではないのです。
私はモーターバイクに乗るのが大好きで、その時に一番主を近く感じます。バイクに乗りながら祈りや執りなしをしますが、ある時、主が「最も完全に一致している教会を見せてあげましょう。」と言われ、バイクに乗った私を山道に導かれました。そこに小さなバステスト教会がありました。私が「主よ、バプテスト教会ですか?」と訊くと、主は「そこではない、その隣です。」と言われました。なんとそこは墓地だったのです。死んだクリスチャンたちは完全に一致していました!主は「あなたが完全に一致している教会を望むならば、それは墓地と同じように死んだ教会です。」と言われました。
使徒たちのことを考えてみてください。主がドナルド・トランプ大統領のような人を12人選んだみたいです。彼らは主と3年半一緒に暮らしましたが、最後の夜に誰が一番偉いかと争いました。でも主は彼らを叱るのではなく、一番偉くなるための道はしもべになることであると教えられたのです。主は彼らの中の「一番偉くなりたい」という情熱を好まれたのだと思います。
「大志 大望 ambition」は決して悪いものではありません。「自己的な大志、野望 selfish ambition」が悪なのです。神は私たちの内に大望を入れられました。神はアダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。人は増し加わることを願うように造られているのです。
大志を持つときに、人々はそれを嘲笑するかもしれません。「自分を何様だと思っているのだ。エリヤとでも思っているのか?」と言うかもしれません。その時、あなたは「違いますよ。私が目指すのはもっと高いところです。」と言うべきなのです。私たちは旧約よりも優れた契約をもっているのですから、旧約の彼らが到達した地点は、私たちの出発点なのです。しかし、大切なのは私たちが高い志を持つ理由です。私たちの大志は、人々の中にキリストが成長することです。
しかし私たちの動機が100%純粋ということは不可能です。もしそうならばエノクのようにすでに天に挙げられていることでしょう。でももし自分の動機が100%純粋になるまで待っていたら、あなたはいつまでも何もできないでしょう。
スモールグループの中では、すべての人が何かを与えることができます。歌、教え、預言等です。でも教えというのは「説教」である必要はありません。5分か10分くらいでいいのです。スモールグループは、喩えれば持ち寄りの食事のようなものです。新約聖書には沢山人々が共に食事をすることがでてきます。それと同じように、霊的食事をみんなが持ち寄るのです。多くの場合持ち寄りの食事はとてもすばらしいです。皆が一番得意な料理を心をこめて作ってくるからです。自分が持ってきた料理を人々が食べるのを見て喜び「いかがですか?」と訊ねるのです。それと同じように霊の食事を持ち寄って神の子どもたち(神のプリンスやプリンセス)をお互いに養うのですから、勿論一番良いものを持ってくるのです。
もしあなたが教師として召されているのならば、「最高にすばらしい5分の教え」をしてください。そしてみんなに「もっとほしい!!」と言わせるのです。「短い説教に悪いものはない」とマーク・トウェインは言いました。神の教えはとても短いですね。勿論大きな集会ではもっと詳しく長く話していいのですが、家庭集会やスモールグループでは、全員に自分の持ってきた霊的食物を皆に食べさせるチャンスを与えるべきです。皆さんも自分が分かち合うときに恵まれることをご存知ですね。ですからそのような機会を皆に与えてください。持ち寄りの食事は何を持ってくるように打ち合わせをしなくても不思議にバランスがいいですね。霊的食物の持ち寄りも、聖霊にお委ねするのです。(続く)