キリストの型 フランシス・フランジペイン 2018年10月1日
キリストの型
フランシス・フランジペイン
訳者注:
今は終末の時、しかも終わりが迫って来ている緊急のときです。終わりの時とは、肉から生まれ変わったクリスチャンを、みな霊的に実った「真のキリストの弟子」に育てる、あるいは、各自がそうならなければならないときと私は思います。それがマタイ28章の終わりに出てくる大宣教命令の意味です。
フランジペン師は、アメリカで長年この霊的な弟子訓練を手がけ、そのための専門学校(英語ですが、ネット上でもその学びが習得できます。)を通して、真の「キリストに似た」クリスチャンを大勢生み出して来られた、私たちが最も尊敬する指導者の一人です。
私はここで師が「教会の牧師」を対象としてこのメッセージを語っていますが、それは牧師の資格を持つ教会の長としての牧師だけに限らず、教会あるいは、どんな小さなクリスチャンの会合でも、そのリーダーとなる人を総称して牧師と言っておられると解釈していただきたいと思います。それには勿論スモール・グループのリーダーから、職場・家庭礼拝をリードする方でもその指導者に立つ人であれば、この「牧師」に当てはめられます。
「私たちは皆、顔のおおい取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)
「どのような教会であれ、何ヶ月、あるいは何年かの間に、信徒の内にキリストの似姿が現れ出ているかどうかが、その教会の究極的なテストである」と私たちは度々教えられてきました。確かにそれが神の目標であり、又教会の目標でなければなりません。
では実際に、信徒達はどのようにして変えられて行くのでしょうか? 単に外面的に宗教的であることから、内側が真にキリストに似る者になるようにと、教会を刺激し鼓舞するのは何なのでしょうか?
多くの場合、 「宗教」から「キリストに似る者」への脱出は、 その教会の牧師(指導者)の心が「キリストに似る者になる」というヴィジョンに強く捉えられた時に始まります。
説明させてください。現在の競争過多の世界においては、牧師は多くの面で卓越することを要求されます。牧師は雄弁であり、立派な学歴を持ち、しかも失われた魂の必要に敏感でなければなりません。ヴィジョンを掲げ、しかも現実的で実践的でなければなりません。
教会員のために自分と家族との時間を犠牲にすることを度々求められます。厳しい労働条件や決して多くはない報酬に対して不平を言うことは許されません。
勿論、このような牧師の仕事の大部分は、神ご自身が課したものではなく、人々の勝手な期待から生まれました。教会員が牧師に求める多種多様な希望や期待を満足させられる人など本当は一人もいないのです。実際のところ、教会員を満足させて教会を大きくしようとがんばる牧師は、すぐに自分のエネルギーを使い果たしてしまうことでしょう。
私の経験では、教会成長プランを進める牧師が一人に対して、霊的に瀕死の状態に陥った牧師が何十人もいます。
問題を一層深刻するのは、 牧師に対する信徒の不平不満が度重なると、牧師の士気がますますくじかれることです。落胆はヴィジョンを失わさせます。彼はかつて自分のデスティニー(即ち指導者になること)は「高い召し」であると感じていたのに、いつのまにかそれは「ほとんど喜びのない仕事場への通勤」に格下げされてしまうのです。
個人のリバイバル
忘れないでください。「牧師の成功」に対する神の尺度は「教会の信徒たちの人生にどれだけキリストが真に表されているか」です。これこそがキリストが示された牧師として仕える者に対する目標なのです。すべてのリーダーは、自分が大宣教命令をどのように遂行したかを神に報告する日を迎えねばなりません。
ですから牧師の皆さん、主への恐れをもって歩もうではありませんか。そして又、知恵をもって歩みましょう。もし私たちの追い求めるものが、会衆をキリストに似た者へと導くのであるならば、まず自分から始めようではありませんか。柔和に、しかし人を恐れるという誘惑に陥らないように歩みましょう。
なぜならば、人を恐れる思いは働きの上を覆う呪いのように明白に表れるからです。真の祝福への道はただ一つであり、それは自分の心をただ「キリストに似た者になること」に集中させることです。
牧師が「私はキリストを捉える」と強く決意するならば、それに反対する者が起こることは間違いありません。なぜならば、主がその人の人格、品性の真実性を試すことなしに、その人がキリストに似た者になることなどありえないからです。
しかし、牧師が(特に、自分が主とより深い関係になることを祈る)祈りの人となり、神への愛が純粋になり、へりくだりが平安へと深まって行く時、イエスを愛する信徒たちは、牧師のうちに主なるイエスを見るようになるのです。
戦いは、たとえ非常に激しかったとしても、それはキリストの栄光が牧師の中に生まれるための舞台装置に過ぎなかったのです。いにしえの昔から人々は「イエスを見ること(ヨハネ12:21)」を願いました。信徒たちが牧師の品性の中に主イエスを見るとき、彼らは自分たちの教会に対する神のヴィジョンを見ることになるのです。
キリストに似た教会
私は、「あなたの教会の牧師が完全にキリストに似た者になっていなければ、信徒がキリストに似た者になることを追い求めることはできない」と言っているのではありません。違います。キリストに似た者になる道は、いつでも、どの教会においても、歩き始めることができるのです。
しかし、信徒たちが最高のデスティニーに向かって真に上っていくためには、ある時点で牧師は羊たちが後についていけるようなキリストの型にならねばなりません。
もしあなたがとりなし手ならば、あなたの牧師のために祈ってください。教会のリーダー達を尊敬し、キリストに似た者のヴィジョンが彼らを突き動かす炎となるように祈ってください。
裁きではなく恵みをもって祈ってください。恐れではなく憐れみに立ってください。ヴィジョンを常に持ちつつも、辛抱強くあってください。神はあなたの祈りに答えられます。
実際牧師とは、イエスのような者になり、羊たちが後をついて行けるお手本になるという召しを受けた者であるのです。この追求がなくては、牧会はいつも欲求不満を抱える牢獄となり、いのちの欠落した仕事になってしまします。
しかし、たとえ試煉の中を通っても私たちがキリストに似た者となることを追い求め続けるならば、神の御子の臨在が私たちのいのちの中にますます顕れ出るときがやってきます。牧師が追い求めるものは、人々が後ろからついていくキリストの型になることなのです。(終り)