黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光 マイク・ビクル(IHOPカンサス) 2018年9月25日
黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光
マイク・ビクル(IHOPカンサス)
終末の時がついに満ちて、 天にあるもの、地にあるもの、いっさいがキリストの御国として一つに集められることが、神が御子(の再臨)においてあらかじめお立てになった御心の奥義としてのご計画です。(エペソ一1:9−10)
そして「御子は、見えない神のかたちであり、造られた全てのものより先に生まれた方です。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られ、万物はその御子のために造られ、万物は御子にあって成り立っています。・・・」(コロサイ1:15ー17)
父なる神は、イエスを2回にわたって王座に着かせます。一回目は復活後にイエスが天に上り御父の右座に着かれた時です。
二回目は次に主が地上に再臨されるときであり、すべての国々はユダヤ人であるイエスが、天ではなくこの地上の全地を治める王になるのを見るのです。
エレミヤ3:17に「そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。」とあるように、イエスが再臨される時は「人として」地上のすべての国々から「王」として認められます。
ゼカリア14章にはそれが書かれています。ユダヤ人の王が地のすべての国を治めるという預言は、他の諸国にとっては受け入れ難いことであり、彼らは「ユダヤ人が世界を永遠に支配するとはとんでもない」と言い憤るのです。しかしイエスの誕生の500年前に父なる神はゼカリアを通して「すべての国はユダヤ人として生まれたイエスを王として受け入れる」と宣言されているのです。
また、黙示録19:16に「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とあり、これは黙示録全体のテーマです。ただ単にイエスがこの世に戻ってこられ、私たちが携挙されるだけではなく、人としてのイエスが王として来られ、他の王たちの上に立たれるーこれは非常に劇的なことです。黙示録20章には第一の復活に与る者たちが神とキリストとの祭司となり、千年の間キリストと共に王となることが書かれています。
この千年王国でのキリストの統治はやがてすべての領域、分野において完成されて行きます。主は人として、万民の前で見える形で働かれます。現在は多くの邪悪な王たちが地を治めていますが、やがてこの傑出した全地を治める王の王が来られ、その力はあまりにも明白で、これに逆らう者はないのです。
この王があなたを「わたしの愛する者」と呼ばれ、あなたが王のためにしたどんな小さなことをも忘れずに報いてくださいます。あなたを花嫁と呼び、喜んでくださり、すべてのことをあなたと共にしてくださるのです。ですからこれは「王として主がなさること」というだけではなく、「あなたが主と共にすること」であり、つまるところ、あなたの物語であるのです。
黙示録5章は王なるイエスの荘厳さと栄光を最も顕著に表していますが、それを理解するためにバックグラウンドをお話したいと思います。
約6千年前に神がアダムとイブを造られたとき、神は地を治める権威(権利と責任)をアダムに与えられました。それはアダムの子孫としての私たちにも与えられたものであり、人類がこの地を統治する権威を与えられたのです。しかしアダムはサタンの誘惑に陥り、その権利をサタンに譲渡してしまいました。
ルカ4:5−7で、サタンはイエスに「私を礼拝するなら、すべての国々のいっさいの権力と栄光とを差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言って誘惑します。神がアダムに地を治める権威を与えたにもかかわらず、アダムはサタンにその権威を渡してしまったからです。しかしイエスはサタンから権力と栄光を受けるのではなく、人として罪のない生涯をおくることによって完全な生け贄となられ、十字架の贖いによりアダムの罪を帳消しにし、人類に救いの道を備えられ、それと同時にこの地を治める権利、権威をとりもどされたのです。
黙示録5章はイエスの栄光に満ちております。神は人間ヨハネに天上のすばらしい光景を 見せてくださいました。1節に「また、私は御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」と書かれているように、この巻き物は全地の所有権の契約証書であり、神の御心によって地を裁き、清め、 治めるものです。
2節で御使いが「巻き物を開いて、封印を解くにふさわしい者はだれか。」と言っています。地を治める権利はもともと人間に与えられていますから、それを解くのは御使いではなく人間でなければなりません。「封印を解く」とは地を所有し治めるプロセスを始めるということです。即ち、「地を治める権利を取り戻して、実際にその仕事を始めるのにふさわしい人間は誰なのか?」と御使いは言っているのです。この契約証書には7つの封印がありました。6章からはこれらの封印が一つずつ解かれていきますが、それは即ち闇の王国に対する神の裁きです。しかし誰が御父のもとに行き、その巻き物を受け取ることができるでしょうか。第一に御父の栄光の前に出られる人間はいませんが、もし出られたとしてもその巻き物を受け取って封印をとき、暗闇の権威を蹴散らし、すべての国を従わせる権威のある者がいるでしょうか?旧約の預言者や使徒たちにもそれは出来ません。
5節で長老の一人が言います。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
それはユダ族から出た人間イエスです。イエスは永遠に神であられます。しかしここでは女から生まれた一人のユダヤ人の人間でなければならなかったのです。しかも彼は「しし」であり、すべての闇を打ち負かす力を持っていました。イエスはほふられた「小羊」であり、また同時に「しし」でもあられます。イエスは33年間、人間を襲うすべての誘惑に打勝ち、完全に御父に従われました。イエスは神としてではなく、人間としてただ聖霊から力を受けて、サタンのすべての誘惑に打ち勝ちました。人類の罪の代価として死ぬためには、イエスは人間でなければなりませんでした。イエスはこの世に来られたとき、神としての能力を用いて事を行ったのではありません。主はすべてのことを聖霊の力に拠り頼まねばならない人間として生きられたのです。イエスが神でなかった時はありません。しかし、人間のための完全な生け贄となるためには、主も人間として罪のない人生を送る必要があり、そのための力は100%聖霊から受けたのです。
ご自分が持つ神としての力を用いて奇蹟を行ったならば、イエスは人間のための「生け贄にされる人間」としての資格を失います。イエスは断食や祈りを通して聖霊の力を受ける必要があったのです。
そしてイエスは十字架を目前にして「父よ、御こころならばこの杯をわたしから取り除いてください。」と血の汗を流して祈られましたが、御父はその祈りに答えられませんでした。神は義なる方であり、罪をそのままに放置することも、ただ赦すこともされません。罪の代価は誰かが支払わねばならないのです。アダムの罪をすべての子孫が継承したように、イエスの贖いによりすべての神の子たちはその赦しを得るのです。
歴史上、人類にはアダムとイエスという二人の代表者がいます。
イエスはそのようにこの地での生涯と十字架の御業によって「勝利を得た」だけではなく、死からよみがえり天の御座に着かれました。ただ生き返っただけではなく、「初穂」として力を帯びたからだによみがえられました。そして御父の右座に「人間として」着座されたのです。イエスは「わたしが人間としてここに来たように、あなたもここに来ることができるのだ。あなたも御父のそばに来れるのだよ。」と言っておられます。(人間は神の子供、神の家族の一員になるように造られたのです。)
ヨハネはここで「ほふられたと見える小羊」と言っています。これはイエスには十字架の傷あとが残っているということであり、主だけが人間としての復活の身体に傷あとをそのまま持っておられ、それは人間に対する愛のしるしです。主の傷あとを見るとき、私たちはいつも私たちへの主の愛の大きさに感動するのです。
7節に「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」とあります。人間イエスは御父に「わたしの持つ知恵と力で地を導き、清め、回復し、創世記1章のように再び人間が地を支配するようにできます。」という確信をもって巻き物を受け取ることが出来たのです。それを見て高位の御使いたちと長老たちは、ひれ伏して新しい歌を歌いました。
9−10節「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王(国)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
イエスは人間になられる前、すべての力、栄光、権威を持つ神でしたが、それをすべて放棄し、人間として地に来られ、神の怒りを人間に代わって受けられました。しかも栄光を受けられた時には、その栄光を人類に分け与えると言われたのです。
ヨハネ17:24でイエスは「父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と言われました。主は私たちを赦してくださったばかりか、ご自分が受ける栄光を私たちと共有したいと言ってくださるのです。このように素晴らしいリーダーを信頼し、従うことは難しくないのではないでしょうか。
父なる神は人間イエスに、天上だけではなく地においてもすべての人が認めるようなフェイバーを与えるのです。そのことは、上記の黙示録5章の12節であまたの御使いたちは「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、讃美を受けるにふさわしい方です。」と大声で言います。それは千年王国の間、すべての人々(9−10節)はこれら7つすべてをイエスに捧げるということです。
私たちは王なる主に、今すでに地上において従うことができます。日々主の麗しさを見て、すべてを主に捧げて生きることができるのです!(終り)