天国に住む リック・ジョイナー 2018年9月18日
天国に住む
リック・ジョイナー
私は自分が今まで経験してきた天国の様子をお話しておりますが、決して私の経験だけが天国のすべてを説明していると言っているわけではありません。
現に、私の見て来た天国とは異なる話も沢山読んだり聞いたりしてきました。しかし、天国は非常に膨大であり、又多様な面があるので、そのような私と違う経験をされたことを私は信じることに全く問題はありません。私たちすべての天国の経験を全部集めたとしても、天国の1%すら表現できないと思います。
主は宇宙を常に広がり続けるものとして造られましたが、それと同じく主は天の霊的領域も拡大し続けるように造られたのだと私は思います。
私たちの神は、私たちが一生かかっても到底理解できない非常に大きなお方であり、神の創造も(物質的創造、霊的創造のいずれも)非常に大きいのです。それはただ大きいというだけではなく、イザヤ9:7に「その主権は増し加わり・・」と書かれているように、神の主権は永遠に増し加わり続けることを、私たちは信じてよいのです。「永遠」は決して退屈な時間ではなく、常に魅力的で畏敬に満ちています。
主が私を連れていかれた霊的領域では、一カ所を除いて、天国にあるすべてのものは生きていて、石や水、そして他のすべての物が生きていました。それらは皆、自分がその物として造られたことや、自分と異なる他の物との交わりがうれしくてたまらないという様子でした。奇妙に聞こえるかもしれませんが、天国ではそれがとても自然で当然のことのように思えました。そこには死がないばかりか、すべてのものに命がありました。
私は天国でも引力があるかのように地上と同じように普通に歩いたこともよくありましたが、又引力がないかのように宙に浮かぶこともできました。遠くに行きたいときは、そこまで飛んで行くこともできましたし、又そこに行きたいと強く願うだけで瞬時にそこに行くこともできました。
天国で感じる感情は、今まで経験したものよりずっと深く広く強いものでした。そして何かのことや誰かのことをじっと考えていると、それに対する感情はどんどん増していきました。
地上で私が感じた最もすばらしい平安も、天国で感じた平安に比べれば、ほんの小さなものでした。それは喜びの感情でも同じでした。
私たちが五感で感じる能力が地上では抑制され制限されているのと同じように、私たちの感情も地上では抑制されているのだと思います。しかし天国では五感も感情も全く制限されていないようです。
一度の例外を除いて、霊の領域や天の領域に私がいるときは、御使いかイエスがいつも一緒についていてくれました。一度の例外というのは、それまで私が天国で一番素晴らしいと思っていた場所に、主が私を一人で行くのを許可してくださった時のことです。
しかし行ってみると、そこが最早楽しい場所ではなかったばかりか、私はもう決して一人の経験はしたくないと思いました。この経験は、どれほど深い交わり(コイノニア)こそが「天国で生きるための酸素」であり、 コイノニアの交わりに成長するならば、私たちがどれほど天を地にもたらすことが出来るかを教えるために、主が私にさせてくださったのでした。
それはまさに、人と関係を結ぶこと、人と交わりを持つことがどれほど重要であるかなのです。神が天地万物を創造されたとき、最初に「良くない」と言われたのはアダムが一人でいるのを見られたときだったのは、まさにこの理由です。真の愛は、一人で淋しい人を見つけ出し助けます。その時私たちは彼らの内に、彼らのまことに家、即ち天国、を慕う思いの種を蒔き始めるのです。
私は「天国にはゴルフや野球、サッカー等のスポーツはあるのですか?」と人々からよく聞かれます。私はそれを見たことがありませんが、前述のように私の天国のすべての経験を合わせても天国のほんの少しの部分を見たに過ぎません。
天国でスポーツの試合を見たと言う人たちもいますから、多分あるのでしょう。
個人的には私はスポーツの試合や競争は大好きですが、天国では「誰かに勝ちたい、誰かを負かしたい」という気持を持つことは考えられません。
しかし、聖化され高められた形のスポーツが天国にあると信じることはできます。地上にある「良きもの」はすべて天国にそれに相応するものがあるからです。
神学に「最初の言及 」に関する原則があります。「ある事柄が聖書で最初に言及された箇所は、普通、その事柄の究極的な目的を示す最も重要な啓示である」というものです。
聖書が「神の家」に 最初に言及したのは、ヤコブが天に届くはしごと神の使いたちがそのはしごを上り下りしている夢を見たときのことでした。(創世記28:11−19参照)
これは地上の神の家である「教会」の主たる目的の啓示であり、それは即ち「天に届く通路になる」ことです。まことの神の使いたちは絶えず天の領域に上り、そして天のリアリティーと主権の証拠となるものを地のすべての問題や状況の上に持ち帰るのです。
ヨハネ1:51にあるように、イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」です。私たちは主がどのようなお方であるかという啓示を一つひとつ受けて上っていくのです。私たちの目的は「イエスと共に天の所にすわること」です。(エペソ2:6参照)
この教義は「ただ信じればよい」という以上のものです。すべての教義は頭で信じるものではなく、私たちが生きるべきものです。ですから、クリスチャンなら誰でもキリストと共に天の所に上ることができるのです。実際すべてのクリスチャンはいつでも常にそうしているべきであるのです。
このようなことを経験するのを恐れている人に申し上げますが、もし一回でもその経験をするならば、今度は地上に戻ってくることの方をもっと恐れるようになるでしょう。
主の統治される天の領域で主と共にあって経験する以上の平安と喜びはありません。 天の領域のものは非常に素晴らしく、地上の最上のものであってもその影にすぎませんし、天には悪は一つもないのです。
天国は今すでに私たちの住まいであるはずなのです。それはあるいにしえの人が「新しく造られた者(クリスチャン)」について次のように言っている通りです。「私たちは、たまに霊的経験をする人間として召されているのではなく、たまに人間的経験をする霊的な生き物として召されているのです。」
すべてのクリスチャンは、目に見える世界よりも霊的領域にいるほうがもっと自然でリラックスできるはずです。
天の御国が全地に宣べ伝えられるのは、実にこのような「天国に住み天国を具現する人々」によるのです。(終り)