WWGM

Walk With God Ministries

10 9月

希望の喜び ビル・ジョンソン(ベテル教会)         2018年9月10日


希望の喜び

 

ビル・ジョンソン(ベテル教会)

 

(訳者注:ベテル教会のあるカリフォルニア州レディングの周辺(Shasta とTrinityという二つの群)は、2018年7月23日に始まった山火事により、大きな被害を受けました。8月30日にようやくコントロールされるまでに23万エイカーが燃焼し、1000戸以上の住宅を含む1600の建造物と8名の命が失われました。ベテル教会は被害を免れ、救援物資の供給所として用いられました。この山火事はCarr Fireと名付けられましたが、 カリフォルニア州で史上6番目に大きなものでした。以下のジョンション師のメッセージは9月2日に語られたものです。)

 

 

イザヤ35章に私は長く親しんできましたが、今朝新たに気がついたことがあります。それは「喜び」が「希望」と非常に密接に関係しているということです。希望がないところには、喜びはありません。大いなる希望があるところには、大いなる喜びがあります。人がどれほど希望を持っているかは、その人がどれほど喜んでいるかによって測ることができると思います。希望(hope)という言ばは、現在は「願い」という意味で使われています。「I hope ~」と言えば、「~だといいんだけど...」という意味で使われています。

けれども聖書が語る「希望、hope」は、それとは全く違い、「良い事が起こることを信じる喜ばしい期待 joyful anticipation of good」なのです。即ち「祈っていることを得る前にすでに感じる喜び」であり、答えを得たときに感じる喜びに匹敵する喜びです。真の「希望」は、雲を掴むような根拠のない期待ではなく、神のご性質に土台を置いているものです。あなたの人生への神の御ことばに土台を置いていて、神の御こころや思い、神の御性質、神の深い慈愛に土台を置いている希望です。ですから何が起こっているのか理解できない時でも、私は常に希望をもって生きることができるのです。

 

私が今直面している多くのことは、私を突然襲い、私を驚かせました。でもその中で神が何も知らなかった、驚いたということは一つもありません。ですから、私はどんな時でも、いつでも、確信の場所に戻ることができます。私はそんなことが起こるとは知らなかったけれど、私の神との関係は「希望hope」という場所に私を立ち続けさせ、私を「希望を持つ人」にしてくれるのです。そして答えが来る前に、そしてそれがどのような答えか知らなくでも、その答えを喜び称えることができるのです。これこそが真のクリスチャンのライフスタイルです。

 

私たちの責任は、周りの人にも伝染していくような影響力のある希望の人生を送ることです。悪いことや現実を見ないようにして楽観的に生きる「うその信仰」というものがあります。しかし本物の信仰は問題があることを否定はしません。ですから、人間関係に問題があることや、医者の診断、請求書の額などが現実であることを受け取ります。そして自分が直面しているそれらの問題に対する答えは知りませんが、「私の天の父は答えを知っておられる。」ことを知っています。イエスは十字架につかれた時、「私が全生涯に直面するすべての問題」を100%考慮に入れておられました。イエスは私の代わりに私のすべての罪を負われました。主は愛を極限まで実践されました。私のすべての罪は覆われたのです。

 

イザヤ35は希望の言葉で始まります。随分昔のことですが、私は聖書の中で「水」に関連する箇所を全部調べました。「川」や「流れ」「泉」「雨」とかいう言葉を調べ、それが何を語っているかを調べたのです。「主は流れを砂漠にもたらす」とか、「山々に川が流れる」というような表現が聖書のいたるところに出てきます。それは自然界そのものへの言葉であると共に、究極的には渇いた荒れ地のような人間のこころを神はさしておられ、それに対する解決を示しておられます。

私は水に関する箇所を全部書き出しました。その結果分かったのは、イスラエルが直面している問題が何であっても(例えば、敵の軍隊、自分たちの罪、何代にも渡る背信、疫病等)神の答えは「水」です。

「イスラエルが敵の軍隊に取り囲まれている」ならば、神は「わたしは荒野に川をつくる」と言われるのです。民は「神よ、私たちを救うのは『川』ではないと思います。敵をやっつけてください。」と思ったことでしょう。

 

しかし、私たちは神が用いられる言葉の奥義をしっかりと把握する必要があります。100%と言ってよいほどほとんどの場合、聖書で「水」は聖霊を表しています。ですから問題が何であれ、神は「わたしは聖霊を送ります」と言われるのです。「わたしは大雨を降らせます」とか「荒野に川を流します」というように、旧約聖書を通して水は聖霊をさしているのです。それは、神が聖霊を送られて神の臨在と力を現してくださるという預言、すなわち、すべての問題は聖霊によって解決されるのです。

イザヤ35:1、2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」

「不毛の地に主が訪れ、豊かに花が咲き、主の栄光、威光が現れる」と言っています。「民が神と親密な関係を結び、自分達への神の計画、人生の目的に確信を持つ故に希望に満たされ、彼らの心からは喜びの泉が沸き溢れ、歌となり、かつては死の地だったところが大いに栄える」ということです。

 

1、2節では神が来てくださったという背景が描かれていますが、3、4節ではその時に私たちがしなければならないことが書かれています。3、4節「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたを救われる。』」

 

これは非常に興味があるところです。神によって希望に浸され希望に満たされた私たちは、希望のない人、弱っている人のところに行きます。もしあなたに希望がないというのならば、それは偽りを信じてしまっているからです。神の御ことばを心から信じる者が、希望がないということはあり得ません。あなたの身に起こったことで、神が知らなかったとか、イエスの十字架で処理されていないことはないからです。聖書にはイエスが「世の初めからほふられた小羊the Lamb who was slain from the creation of the world(NIV)(黙示録13:8)」と書かれています。即ち人間が造られ、罪を犯す以前に、そのために解決がなされていたという驚くべきことです。ですから私たちにとって初めてのことでも、神にとっては初めてではなく、問題の前にすでに解決があるのです。

 

3節に「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。」とあります。以前軍隊に入っていた友人が話してくれたことを思い出します。兵士たちは長距離を走らねばならない時がありますが、ある者は力つきて倒れてしまします。すると他の兵士たちは彼を助けに行きます。一人は彼のリュックを取って自分のリュックの上に担ぎます。二人が彼の両横に行き、彼の腕を取って立たせて引っ張るようにして最後まで一緒に走ります。一人では完走できなかった者を、力のある者たちが助け一緒にゴールインするのです。この箇所はそのようなことを言っているのではないでしょうか。チームが力を合わせて助け合い、神の召しを全うする姿です。

しかし、それで終りではありません。弱っている者に預言をするのです。それはあなたが預言者から何を言えばいいかを聞き、弱っている者にそれを伝えるのではありません。神のご性質や神の約束を知っている者として、私たちは自然に語ることができるのです。私たちは「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」と預言し、宣言できるのです。

どうしてそれが重要なのでしょうか?

それはただ空虚な口だけの励ましではありません。「どうにかして励ましたとい」と自分の頭で一生懸命考えて口から出す言葉ではありません。これは神の恵みをあなたの口を通して解き放つことなのです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とありますが、まさにこのことを言っているのだと思います。私があなたのところに行き、あなたに役立つ徳を養う言葉を話すとき、恵みを与えることができるのです。この恵みはどこから来るのでしょうか?それは神からです。恵みとは神からの特別な愛顧、フェイバーです。

私が弱っている者のところに行き、「恐れてはいけません。神が復讐し、失ったものをすべて取り返してくださいます。私もあなたと一緒にいますから。」と言うのを見て、神は「わたしはあの者に恵みを与えよう。わたしの息子がすでにフェイバー示したところに、今わたしのフェイバーを与えよう。」と言われるのです。

 

これは私たちが「神を操って恵みを与えるようにさせる」というのではありません。すべてのクリスチャンは「慰めのミニストリー」をする権威を与えられているのです。神のご性質を知っている者として、私たちは神がその人に必ずそうしてくださると確信をもって慰めることが出来るのです。

 

2コリント1:3−5「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」

もし私たちが弱っている者のところに行かなかったら、神は「しょうがないなあ、仕方がないからわたしが行くとしよう」とか「天使を送ることにしよう」とか言われるのでしょうか?違いますね。神が私たちに指令を出されるときは、その任務を遂行するための力と責任を私たちに与えられるのです。もしここに弱って倒れそうな人がいるとします。 あなたは「神は来て、失われたものを回復し、あなたを救われます!」と 預言をせねばなりません。

 

5節は「そのとき then」という言葉から始まります。私たちが4節の預言をした「そのとき」に、すべての者は癒され、すべてが回復するのです。

イザヤ35:5−6「そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわきだし、荒地に川が流れるからだ。」

その人の内に聖霊が豊かに沸き流れ出すので、その人は癒され、回復するのです!

数年前、ラスベガスの集会で、ワーシップをしていたとき、建物の中に雨が降り始めました。牧師が屋根を調べるように言いましたが、屋根に穴はあいていませんでしたし、雨も降っていませんでした。雨は3時間屋内で降り続けました。神は時々、私たちのこころを柔らかくするために面白いことをなさいます。渇いたところに川をもたらし、それによって奇蹟が起こるのです。

 

今私たちのレディングの町には、 心に痛みをもって眠りにつく人が沢山います。それは「希望」を持っている人が周りにいないからです。もし彼らが「岩のように堅い希望を持っている人」「神を堅く信頼している人」を一人でも知っているならば、彼らの明日は変ることでしょう。私たちは真の希望を持つ者、そしてそれをもたらす者になろうではありませんか。(終り)


Post a Comment