神からの教えを受け入れる大切さ スチィーブ・ポーター 2018年8月7日
神からの教えを受け入れる大切さ
スチィーブ・ポーター
「誠実さは、人生がばらばらにならないようにまとめる接着剤です。私たちは常に誠実さを堅く保つように努力せねばなりません。富を失っても、あなたは何も失いません。健康を失うと、何かが失われます。しかし人格を失うと、あなたはすべてを失います。ビリー・グラハム」
心の奥底で私たちの霊は、 「もっと真摯で深いクリスチャン生活を送りたい」と願っています。このような願いを持つ霊は、大いなる富や珍しい宝石、
或いは素晴らしく偉大な能力よりもっと尊く価値があるのです。それは「教えを受け入れる霊 teachable spirit」です。
指示や教訓を尊ぶ
常に更なる深みを目指したいと願う勇士は、教えを喜んで受け入れます。アブラハムの人生を学ぶならば、彼がなぜあれほどまで祝福されたかが明白です。彼は何よりも教えを尊び、神の戒めを喜んで守りました。それはただ「喜んで聞く」だけではありません。「知恵を得たい願望」が「安楽への願望」より大きくなったとき、私たちは「教えを受け入れる」心を持つことができます。
私たちは教えを喜んで受けいれる心を持っているでしょうか? 主から、また人々から知恵を受け取る謙虚さがあるでしょうか?
時として私たちは教えを受け取る心を失い、健全なアドバイスを拒否してしまいます。
このような時私たちは、ルールに従うよりルールを曲げることを望んでいるのです。しかし、それは決して私たちを祝福の場所へとは導かず、むしろ人生を破壊してしまいます。聖書に「高ぶりは破滅に先立つ」とあるように、私たちは危険な場所で孤立してしまうのです。
私はナアマンのことを思い出します。彼は肉体を蝕む癩病が癒されるのを願いましたが、神のメッセンジャーにヨルダン川に行って7回身を洗うようにと言われたとき、怒ってそこを去りました。確かにそれは一見奇妙で馬鹿げた指示であり、ナアマンの肉の思いには意味をなしませんでした。自分の地にはもっと良い川があるのに、どうしてヨルダンで身体を洗わねばならないのでしょうか?
しかし、彼の本当の問題はヨルダン川ではありませんでした。指示に従い癒されるために必要な謙虚さを、彼のプライドが阻んだのです。最終的に彼の癩病は癒されましたが、それは彼が知恵の言葉に耳を傾け、心を変えて謙虚になり、油注がれた神の人のシンプルで明瞭な指示に従ったからでした。
肉を十字架につける
同じように、私たちも深い信仰生活を送るためには、肉を十字架につけ、たとえそれが自分の考えとは違うときでも謙虚に従う必要があることを悟らねばなりません。そのためには御ことばを求め、聞き、学ぶことを常に追い求めていく姿勢が大切です。謙虚になると私たちはプライドをはぎ取られ、心が柔くなります。そして教えを受け入れるようになり、自分のしたい事を一人で勝手にするよりも、神への親密さを慕い求めるようになります。
教えを受け入れるようになるにはプロセスが必要です。私たちは教えを素直に受け入れる者でしょうか? 学んでいるでしょうか?
たとえ辛くても自分の人格や誠実さを一番大切に守っていきたいと強く望んでいるでしょうか。
箴言8:32「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守るものは。」
主に近づいて聖霊のかすかな細い声に耳を傾ける者を神は祝福されます。しばしば私たちは聞くことを拒否し、主の御声、主の警告、そして主からのはっきりした危険信号さえも無視します。もし主に聞いていないなら、私たちは学んでいません。もし学んでいないならば、成長していないのです。このサイクルは決して止まることがありません。ですから今私たちが立ち止まり、「見張り、待ち、聞き、従うこと」を始めなければ、祝福は決してやってきません。
箴言8:34−35で、神は私たちに「見張り、待ち、そして主を
見いだせ」と教えておられます。これらはすべて私たちが毎日実践すべき「行動を表す動詞」であることに留意してください。実際、私たちは主が教えたいと願っておられる事に、いつも油断なく注意を払っているべきです。そしてそれにただ気がつくだけでなく、熱心に知恵と真理を捜し求めねばなりません。エレミヤ29:13に「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とある通りです。
神の御声を聞くことを学ぶ
ホセア4:6「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」
「聞くこと」は神にとって非常に重大なことです!聖書には「もし私たちが神のおしえを退け、知恵を無視するならば、神は私たちを祭司(神の御国の代表者)にはされない」と書かれているのです。私は「神が誰か役に立つ者を捜しておられる時、見過されたくはない!」と願います。私は「神の御心の真ん中のいる」以外のことは何も望みません。
箴言8:32−36「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」
聖書は神に聞く重要さを強調していて、この短い箇所にも三度「聞く」という言葉が出てきます。
エゼキエル3:7にはイスラエルの民は「鉄面皮で心がかたくなである」とありますが、もし私たちが神に聞かないという悪癖をつけてしまったならば、この言葉は私たちに直接当てはまるのです。 (終り)