新しい皮袋 リック・ジョイナー 2018年6月18日
新しい皮袋
リック・ジョイナー
黙示録18:4
それから、私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
この箇所からまずわかることは、神がご自分の民に「この女から離れよ(出て来なさい)」と言われているということは、神の民が今この女のうちにいるということです。又これによって、「この女」が何か他の組織ではなく、まさに偽の不品行な教会を指していることがわかります。「この女から出よ」という神に命令が発せられるときには次の事が起こります。
1.この宗教のシステムが崩壊する
2.御使いが現われその栄光が地に満ち、「大バビロンが倒れた。」と宣言する(18:2)
3.天からもう一つの声が「わが民よ。この女から離れなさい。」と宣告する(18:4)
これら3つを私たちはまだ見ていませんから、「ほとんどではないとしても非常に多くの神の民が未だ偽りの教会にいるが、彼らがそこから離れる時ではまだない」と結論づけていいでしょう。
これは特別主から個人的に示されたり、「神ご自身が造られている町」の一員となるというヴィジョンに従うために「この女」から離れる人を否定するものではありません。しかしながら、まだ離れるように召されていない人たちは、淫婦の教会の中に留まることによって自分の目的のために訓練されているのです。それはどういうことでしょうか?
聖書には背信の状態の中に留まることが益となった人々が多くあります。サウル王に仕えたダビデはその一人です。サウロは神と神の道に逆い、ついには主の祭司たちを殺し、忠実に仕えていたダビデをも殺そうとしました。それにもかかわらず、ダビデはサウロに誠実でありつづけました。主は約束された通りにサウロをダビデの手に渡され、どのようにしてもいいと言われました。しかしダビデはサウロに手をあげることを拒みました。サウロは神が選ばれたというよりは民が選んだ王でしたが、それでも神は彼を用いられました。それは主が建てたのではない宗教組織をも主は用いられるのと丁度同じなのです。この理由により、ダビデは「主に油注がれた者」に対して手をあげることはしなかったのです。
私たちが好むと好まざるにかかわらず、理解できてもできなくても、神はご自分の選びではない多くの者にも油を注がれ用いられたことが聖書に何度もでてきます。神はまた「大バビロン」とここで呼ばれているものを、地に解き放たれたいくつかの大いなる悪に対して立ち向い戦うために用いられました。
イスラムによる征服を撃退するためにヨーロッパを動員し成功したのは制度化し組織化された教会でした。彼らはまた現代においても共産主義に対して立ち上がりヨーロッパを守りました。今日に至るまで、それは堕胎や性的倒錯等の大いなる悪に対して立ち上がっています。
大切なポイントは、ダビデはサウロとその全家に心から仕え、不正や苦しみを受けてさえも忠実であったことです。ダビデを偉大なリーダーに成長させたのはサウロの迫害だったのです。
歴史上、クリスチャンに対する最も激しい迫害は黙示録に書かれているこの偽りの教会によるものでした。聖書で表わされているタイプや型は実際に起こる事実とは完全にはマッチしません。しかしこの聖書の表す型が指し示しているものは明瞭です。
ダビデがサウロ家に心から仕えたように、そして追放されるまで真心から誠意をもって仕えたように、宗教改革者たちもローマカトリック教会を出るつもりは全くありませんでした。必要とされていた変革をもたらそうとしたのですが、彼らも追放されてしまいました。
そしてプロテスタント教会もそれと同じ間違いをしたことを私たちは学んできました。それは黙示録に書かれている「偽りの教会」の性質をしばしば現してきたのです。「歴史を知らないものはそれを繰り返す」ということわざの通り、すべての世代が同じ罠に落ちたように思えます。しかしそうではあっても、この権威ある御使いが現れて「倒れた。大バビロンが倒れた。」と叫ぶまでは、神の民に「彼女から離れよ、出よ」という時ではないのです。
これに関して考えるべきもう一つの重要な事柄があります。それは、もし神の民がこのような教会から出るように言われるとすれば、彼らはどこに行けと言われるのでしょうか?
新しいぶどう酒をいれる新しい皮袋はどこにあるのでしょうか?確かに、使徒職やチャーチプランティングやホームチャーチ・ムーブメント等に関する新約聖書の型によって、幾つかの素晴らしい教会が生み出されましたし、それは人々が離れた教会よりはより優れたものだったかもしれません。しかし期待されたような「新しい皮袋」の域には到達していません。
1987年に私は来るべき魂の収穫の大規模なヴィジョンを見せられ、二つの収穫の大波が来るのを見ました。一つ目の波はこのヴィジョンを見てから2年後に起り始め、その後20年間ほど、キリスト教史上最大の魂の救いが続きました。
ヴィジョンの中で、 この最初の波はやがて引いていきました。それは海の波が浜辺に最大限に打ち寄せたあと引いて行くのと同じでした。次に私が見たのは、次の波がくるまでの間、霊的に比較的静かな時がくることでしたが、それは次に来ようとしている更に大きな波を迎えるために必要な時間であり、それが10年ほど続きました。
しかし今、次の大きな波が近づきつつあるのを示す幾つものしるしが起り始めています。その波を迎える用意が私たちは出来ているでしょうか?
更に大きな魂の収穫が始まろうとしていますから、私たちはそれを取り入れる多くの網を捜し始めねばなりません。これらの網から新しい皮袋となる教会が出現するのが期待できます。すべての霊的過渡期に起こるように、これらの教会は様々な種類の人々のニードに合わせることはできないと思います。今までの形式で教職者の階級的システムがある教会に慣れ親しんだ人々にとっては面食らうようなものになる可能性が高いのです。私たちはイエスを真に教会の頭とする教会とはどのようなものであるかを考える必要があります。
主が初代教会を建てられた方法を見てみるならば、それはどちらかというとキッチリしていない形で始まっています。少し時間がたち成長してきたときに、自然な形の中にも少し骨組みができてきましたが、それはそれ以後人間がいろいろと考え出した形式や型よりも、神ご自身が造り上げておられたように見えます。
信仰生活において追求すべきことの基本は、人が建てるものではなく神が建てておられるものに参加することです。事実ほとんどすべての歴史上の神のムーブは、人間が想像し期待していたものとは完全に違っていました。それは神のムーブを真に願い求めて祈っていた人においてもそうでした。
主はまだ私を天に上げてやがて来る主の教会の構造の完全な姿を見せてくださってはいませんが、幾つかの点は見せてくださいました。私が見たのは非常にパワフルであるけれども比較的小さな教会の姿でした。
80人から120人ほどが最適なサイズのようでした。その教会は適応性があり、必要に対処するのが早く、臨機に富んでいます。そして人数がどんどん増えると、それは新しい小さなユニットに分かれて、適応性や機敏さを保ちます。
しかし大きな教会やメガチャーチがなくなるというわけではありません。私は別の時に「真理の要塞」となっている大きい教会を見せられました。それは主の軍隊の基地のようでした。しかし、すべての教会の鍵となるポイントは、それが人ではなく主によって導かれているということです。
勿論主は人を用いられます。しかし宗教的支配者によって課せられる規則や教義や方法に導かれるのと聖霊によって導かれるのには違いがあります。
今早急に必要とされるのはこれからの収穫を入れても破れない「網(複数)」です。調査によれば、キリストを信じた人で実際に教会に繋がるのは5%にすぎないということです。一世紀にはキリストを信じた人の「すべてが」教会に加えられたのです。
5%という低い数字は、教会で語られるメッセージも確かに理由の一つかもしれません。しかし最大の原因は、教会があまりにも堅苦しく古くさくて、新しい信者には溶け込めにくく、更には彼らが「命を捧げた主」を教会の中に見出せないことに関係していると思います。黙示録3:20にイエスがご自分の教会の戸の外に立ち、主のために戸を開く人があるかどうかみておられるという、考えさせられる言葉があります。
今まさに歴史上最大の出来事、そして最大の魂の収穫が起ころうとしています。今まで教会に属していなかった新しい信者は比較的弟子訓練をするのが簡単です。しかしある時点で今まで堅苦しい「古い皮袋」の教会生活をしていた人たちも加えられてくるでしょう。「この二つのグループを一緒にしたら大変なことになるから別々に分けておいたほうがよい」と私たちは考えるかもしれません。しかし彼らはお互いに大いに助け合える可能性があるのです。どのようにしてでしょうか?
これからの数年に渡って、教会生活に新たな要素が生まれてくるでしょう。それは主の顕在(主が私たちの五感で分かるように現れてくださること)です。再び一世紀のようになり、すべての人が主がなされる偉大な業を見て絶えず畏敬と驚きの念を持つのです。一世紀の教会の新しい信者たちのほとんどは、当時の堅苦しいユダヤ教から出て来た人たちでしたが、驚くほど早く変革されていきました。
しかしそれはすべての人ではありませんでした。ユダヤ教の形式に固執した人々は一世紀の教会の問題となりました。それと同じように組織された教会から出て来た人たちは新しい教会において少しばかり問題となることが予想されます。しかし、主の民の真ん中におられるイエス・キリストのいのちと力はその問題を簡単に克服できるでしょう。(終り)