聖霊により内側から生きる ジョン・ベルト 2018年6月4日
聖霊により内側から生きる
ジョン・ベルト(Overflow Global Ministries)
私がクリスチャンになった頃、非常に強調されていた教えの一つに、「本当に聖霊によるものか、それとも自分の肉によるものかの違いを知る」というものがありました。
私たちの3つの要素
この問題に取り組むとき、私たちは、聖霊に関してだけではなく、私たちの持つ霊、魂、身体についても考えねばなりません。信仰生活の初期にこれを学んだことは、私にとって大きな助けとなりました。魂に起因する言動と霊に起因するものとの相違に焦点を当てて学ぶことは、両者を識別するために非常に役立ちました。
「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているのでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」 1コリント2:11−12
私たちは霊的な生き物です。私たちが御霊によって生まれた時、それまで神から離れて死んでいた私たちの霊は生き返ります。キリストにあって、私たちは「霊の人」となり神に生きる者とされます。私たちの霊は聖霊が私たちと交わる領域です。
私たちの霊は真の義と聖さをもって神に似るものとして造られたので、神は私たちの霊と交わってくださるのです。
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」と、エペソ4:23−24にある通りです。
異言を伴う聖霊のバプテスマ(1コリント14:14)を経験した人は、その人の内にある霊の言語が解き放たれたのです。これは人間の知性や能力では理解できない天的な言語です。
一方「魂」とは私たちの知性、意志、感情です。魂は、ある意味において、「霊」(内なる人/新しく造られた者)と「肉」の間に捕えられているといえましょう。それは私たちがものごとを選択・決断するためのセンターです。私たちの「魂」と「思考」は、神の御ことば(洗濯石けん)と聖霊(純粋な水)によってイエスが持つ真理を十分に知りって訓練されることを通して、主の似姿へと変えられて行く必要があるのです。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12:2
私たちの「霊」はすでに主の似姿に造られていますが、「魂」は変革される必要があります。あなたが自分の魂を聖霊とまことによる生き方に委ねるとき、あなたの魂は霊的に変革されます。「肉」は私たちを形作っている重要な部分であり、決して悪ではありませんが、 この世的なものに対して 敏感であり、 目に見える物質的世界に向いて生きている部分です。
皆さんは、次のような説明を聞いたことがあるかもしれません。
1.私たちの霊は神を意識する Our spirit is God-conscious
2.私たちの魂は自分を意識する(自意識)Our soul is self-conscious
3.私たちの身体は物質的世界を意識する Our body is world-conscious
内側からの変革
私たちの肉の身体は霊に敵対します。それは生まれつき悪であるわけではないのですが、多くの場合、神が私たちの内や神の目的のために働こうとされる時、真っ向から歯向かいます。しかし、私たちの身体は生ける供え物として神に捧げられるべきものなのですから、身体を用いて神に栄光を捧げることが私たちにはできるのです。
「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ローマ6:13
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ローマ8:14
これは、私たちが御霊によって生きる必要があることを教えています。内なる人(霊の人、キリストにある新しく造られた者)に真理と啓示をもたらすのは聖霊です。神が生き生きと働かれるのは私たちの霊においてであり、魂の中ではありません。
私たちが聖霊に委ねて聖霊と共に生き、霊的波長を聖霊に合わせるならば、私たちの魂はその影響を受けることができます。
コロサイ1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
この神による変革が進んでいくのは、内側からのものです。しかし生まれつきの欲望で生きる者は外側から影響を受けるのであり、それは即ち肉がすべての行動を支配し、魂を肉の思いに従っていきるように訓練さえもしてしまうのです。
これを理解するならば、私たちが内側から生きねばならない必要性を知ることができます。聖霊(即ち、私たちに内におられる神、私たちの内なるキリスト、油注がれたお方)は、そのいのちを内側から外側へと働かされるのです。このような生き方は、霊を魂へ、そして身体へと働かせることができ、私たちが肉体的身体を通して神に栄光を与えることをも可能にします。
神を喜ばせること
「霊はすでに主の似姿に造られているが、魂は変革される必要がある」
信仰がなくては神を喜ばすことはできません。信仰があなたの肉や魂から生まれることは絶対ありません。信仰は新しく造られた者から来るのです。即ちあなたの霊が神との関係を回復することによって生かされ、神の御ことばが内で生き生きと生き始めるのです。
あなたの内なる宮において、あなたは神に生きるものとされたのです。御霊に敏感になることを学ぶと、私たちは肉の思いではなく信仰による人生を見出すことができるのです。神が私たちを召されている人生とは、信仰に満たされたものであり、聖霊のリアリティーが常に伴う人生です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
2コリント5:17
私たちがこのように生きる霊的領域に目ざめるとき、神が私たちを通して働いてくださる無限の可能性が生まれます。それは私たちは御霊によって生まれたので神のご性質が内側にあり、いつでもそれを手にすることができるからです。もはや神に「ここに来てください」とお願いする必要はありません。神はすでにあなたの内におられるからです。
神は私たちの霊を目ざめさせ、聖霊を下さり、ご自分の聖なる御性質を私たちに分与して下さる約束をもって私たちの魂を訓練してくださるのです。
2ペテロ1:4「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
神は救われて間もない者を通しても奇蹟を起こすことができます。それはもう何十年も救われている者と同じです。なぜならば神は「新しく造られた者」であれば誰でも用いることが出来るからです。あなたは生きているか、死んでいてまだ神を知らないかのどちらかなのです。もしあなたが生きているのなら、神があなたを通して出来ることには限りがないのです。
救われたばかりの者と長年神に忠実であった者との相違は、後者が(ほとんどすべての場合)より多くの変革を経て来たことです。
明らかに、変化や変革が起こるスピードはその人の選択に掛かっています。どれだけ主に委ねる人生を送っているかが、成長の度合いを決めます。たとえ偉大な油注ぎを受けている人であっても、人生のある部分、ある領域を神に完全には明け渡し委ねていないこともあり得るのです。
油注ぎを受けていても、それがさまざまな自己防衛や愚かさ、未熟さと混ざり合っている可能性があるのです。奇蹟を起こせるからと言って簡単にその人に惹き付けられてはなりません。
王の代理人となる
私たちは神の王国を具現し、世に現していく神の代理人となりたいのであり、自らが注目されることを自分の利益を望んではいません。
霊のものと肉のものを見分けるとき、そこにもし自己保存や自己防衛がいつも存在するならば、多分肉の問題があると考えてください。すべてが自分を中心としているならば何かが間違っているのです。
大勢の人がイエスを王にしようとしてやって来たとき、主は去っていかれました。神が私たちの人生の中心におられるならば、すべてのことは神を中心にして起り、それがまさに私たちが望むことなのです。(終り)