信仰の試煉 ( 二 ) ジャッキー・ポリンジャー 2018年4月9日
信仰の試煉 ( 二 )
ジャッキー・ポリンジャー(3月25日カンサスIHOPにて)
(香港 St Stephen’s Society創設者 1966年から何万人もの麻薬中毒者を救出 著書に「追龍伝愛」マルコーシュ社あり)
そしてつぎに主は、人々を麻薬中毒から奇蹟的に解放され始めました。最初の人は私の護衛としてギャングから送られて来た人でした。私の部屋が荒らされたので(それは私が6年間も何から何までお世話をした人によってでしたが)ココという2万人の上に立つギャング・リーダーが私のために送ったのです。私は「ありがとうございます。でもイエス様が守ってくださいますから、大丈夫です。帰ってください。」と言ったのですが、彼はそのまま私のそばで護衛となりました。私は彼がアヘン中毒であることを見ぬいていましたが、彼は知りませんでした。
ある時、彼が私の集会の外に立っていたので、中に入らないかと誘いました。(集会に参加していたのは私一人で、あとは御父とイエスと聖霊でした。)彼は私と一緒に「Keep me oil in my lamp keep me burning ー我が灯火のために油をそそぎたまえ」を歌い出し、なんと祈り始めたのです!それは私が聞いたこともないようなすごい祈りでした。聖霊が彼に臨み、彼は異言で30分祈りました。そして 彼が麻薬中毒から解放されたのが分かりました。
私は彼に「あなたはボーンアゲインしましたよ。もう悪い仲間と一緒にいないようにね。 日曜日の礼拝にいらっしゃいね。5人の集会ですよ。私とあなたと御父と主イエスと聖霊とのね。」と言いました。
日曜日に彼はやってきて「神様を讃美します!オピウムデン(アヘンを吸うための場所)に行ったら、ただでアヘンをくれると言われんだけど、自分がクリスチャンになったことを思い出したから、ひざまずいてみんなに讃美歌を歌ってあげたんだよ。アヘンを吸わなかったんだ。神様はすばらしい!」と言いました。私は「駄目よ。あなたはオピウムデンなんかに行って主を試みてはいけなかったのよ。」と叱ると、彼は「でもオピウムデンは私の住まいですから。」と言うのです。オピウムデンに住みながらイエスとの新しい生活を始めることができるでしょうか。ー そこで私は彼のために住まいを捜しましたが、アパートはどこも一ヶ月分の前払いが条件でしたので、彼も私もそのお金がなく諦めざるを得ませんでした。仕方なく、私は彼を自分のアパートに住まわせました。
彼の友達は「もし彼の中毒が癒されたというなら、私もイエスを信じてあなたの家に住みます。」と言いました。彼らにとって「クリスチャンになること」と「ジャッキーの家に住むこと」はセットになっていたのです。救われた者には聖霊を受けるように勧め、全ての者は異言を受けました。救われると、彼らは私と一緒に10日間一日中異言で祈り、 麻薬中毒から解放されて行きました。
そのように救われ中毒から癒された人々の数がどんどん増していきましたが、その一方で去って行く人も大勢出て来ました。調子よくやっている、と思っていると、去って行ってしまうのです。貧しい人たちはそのようなのです。私たちが決してしてはならないことの一つに、彼らの中にリーダーを立てることです。彼らの中に「あなたのミニストリーを将来担う者」を捜そうとしてはいけないのです。彼らはただ愛されねばならないのです。ただ彼らの世話をし、彼らが間違い失敗してもそれを許容してあげねばなりません。なぜならばイエスは彼らのために死なれ、又私のために死んでくださったのですから。
ですから私のミニストリーは発展しませんでした。人々は来ては又去って行きます。奇蹟は起こりますが、成長するには時間がかかるのです。主は「耐え忍べ」と言われます。
そのうちに幾人かが残るようになりました。最初は四人、そして五人と段々に増えていき、政府が補助を出してくれるようになりました。また香港のクリスチャンが来て一緒に礼拝するようになりました。カリズマの教会が他にはなかったからです。そして気がつくと数百人になっていました。それは何か特別なことをしたからではありません。それが教会なのか、フェローシップなのかも決めたわけではありません。ただ「そうなっていた」のです。
又、そのような「実」が実ったから私たちが「成功した」というのではありません。成功とはただ「主の御こころを行うこと」です。
ヤコブ1:2「私の兄弟たち。さまざまな試煉(suffering)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」
私たちの試煉、苦しみとは何でしょうか。それは「主イエスの私たち人間への御こころを知り主の苦しみを共に負うこと」です。
ローマ5:3−5「そればかりではなく、艱難(suffering)さえも喜んでいます。それは艱難は忍耐を生み出し、忍耐が煉られた品性を生み出し、煉られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
イエスは罪深い者のために死んでくださいました。そして主は罪深い者たちを愛するという特権を私たちに与えてくださいました。そしてほんの少しだけましになり、愛され成長して行く人たちと共に住むようにしてくださいました。
最後に皆さんを励ますために祈りたいと思います。あなたはあなたのレースを走り始めましたか?
パウロはレースを終えたとき、2テモテ4:7で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言いました。
競争相手を気にすること、性的誘惑、友人たちの承認を必要とすること、その場所に留まって結婚相手を見つけたい願望等々、これらはすべてあなたが踏み出すのを阻む敵となります。しかし、神は良い物を一つでもあなたに拒むことなどあるでしょうか。あなたの友達が得るものをあなたは得られないことがあるでしょうか。ーー確かにあります。でもあなたはそれよりもっと素晴らしいものを手に入れるのです。あなたは永遠の天国の喜び、あなたが愛したすべての人々という喜びがあなたを待っているのです。それはイエスが「ご自分の前に置かれた喜び」のために十字架の道を歩まれたのと同じなのです。
あなたがレースを走るように祝福します。あなたのために備えられたレースです。あなたはそのために創造主によって心をこめて特別に造られたのです。ある人々にはあなたを通してだけ、主の愛、主の御こころが伝えられるように定められたのです。
成功するとか数が増えるということなど考えることから解放されるように祈ります。「ミニストリー」という名のつく仕事をしている人を羨む必要はありません。そのようなものはどうでもいいのです。地上で私たちは何かの「ミニストリー」を始めるためではなく、「隣人を愛する」ため生きているからです。その中からミニストリーが生まれてくることはあるかもしれません。
あなたが忍耐をもって走るように祝福します。
あなたのための主からのヴィジョンを達成していないと思って失望する必要はありません。主の御名によってすることはすべて、決して無駄になることはないことを知ってください。そしてかならず収穫があります。他の人が収穫するかもしれませんが、かならず収穫があるのです。「収穫までにあと4ヶ月ある」と言ってはいけません。「自分は蒔くだけだ」という人たちに言います。収穫を始めてください。他の人が労苦して蒔いた場所で刈り取られるのを待っている人達が必ずいるからです。いつも収穫をしている人達に言います。蒔いてください。忍耐をもって、愛し難い人を愛してください。その人にあなたが望むような変化がすぐに見られない時には、聖霊があなたに対してどれほど忍耐強かったか、あなたが間違いを犯すのを許容し、なおも愛し続けられたかを、思い起こさせてくださいますように。
若い人達を祝福します。訓練を始めてください。ある親たちはティーンエイジャーのスマホの使用を制限する訓練を始めています。若者たちが遣わされる場所はスマホが使えないかもしれないからです。外部からとの通信、励まし、慰めがない地で、神にだけ拠り頼み、神からの承認を得るための訓練です。レースを走る者はだれでも厳しい訓練を必要とします。
長年労苦してきたにも拘わらず、その実を見ることが出来ない人に言います。最大の努力をしたのに望んだことが実らなかった人たちを主は祝したいのです。神の召しを頂いたけれど、もう機会を失ったと思っている年配の方、よい知らせがあります。遅すぎることなどありません。子どもや孫が大きくなって暇ができた人達は、都会の貧しい人達のお世話をする絶好の時です。主はあなたに長寿を与え、あなたはカレブのようにまだ壮健なのです。今こそあなたの相続地を受ける時です。
失望している人、意気消沈している人に言います。忍耐は徳を生みだし、希望を生み出します。あなたがお世話をした人が裏切り、あなたが祈った人があなたを失望させたとき、私はあなたに言います。「よくやった、よくやった」と。愛は多くの罪を覆います。愛だけが重要なのです。
「自分の働きは無駄だった、失敗だった」と言う人があるかもしれません。しかし私は言います。「よくやった!よくやった!すばらしい!」と。あなたは走っているのですから!
すべては主の御わざであり、栄光は主にあります。地上で私たちに栄光、誉れは必要ありません。いいえ、それはかえって足手まといになるだけです。ハレルヤ!アーメン!(終り)