WWGM

Walk With God Ministries

01 4月

信仰の試煉    ジャッキー・ポリンジャー      2018年4月1日


信仰の試煉

 

ジャッキー・ポリンジャー(3月25日カンサスIHOPにての礼拝メッセージから)

 

 (香港 St Stephen’s Society創設者 1966年から何万人もの麻薬中毒者を救

  出して来た方。 著書に「追龍伝愛」マルコーシュ社があります)

 

ヘブル12:1−2「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました。」

 

私たちは皆、レースをしているのだと思います。しかしそれは他の人と競うのではなく、一人ひとりが自分に与えられたレースを走っているのです。あなたはレースを走り始めましたか?

最後まで完走しますか?

ここに「忍耐をもって走り続ける」という言葉があります。そしてイエスとイエスが走ったレースについて書かれています。イエスが見られた「ご自分の前に置かれた喜び」とは、

あなたや私が主と共に永遠に住むことです。主はその喜びの故に十字架を耐え忍ぶことができたのです。

 

ヨハネ4章で主はご自分の地上での働きについて語っておられます。

ヨハネ4:34「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

 

イエスはそのみわざを成し遂げられました。そして息を引き取られるとき「それは完了した。It is finished.」と言われました。

弟子たちはイエスが十字架につくためにエルサレムに行くのを引き止めようとしました。それと同じように常に私たちを引き止めようとする人達がいます。クリスチャンの間で聞かれることばに「燃え尽き burn out」があります。しかし本当はこれはクリスチャンの語彙ではないはずです。もしあなたが「あなたのレース」を「主の燃料」で走っているならば、燃え尽きるはずはありません。勿論あなたが「他の人のレース」を「主の燃料なしで」走っているならば話は別ですが。ですから、

どのような目的で造られたにせよ、どのようなレースを与えられたにせよ、私たちはそのレースを最後まで耐え忍び成し遂げることが可能です。

 

主はルカ13:32で言われました。

「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」

 

ヨシュア14:7−9に、カレブの言葉が記されています。

「主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心の中にあるとおり彼に報告しました。私といっしょに上っていった私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。」

 

年配の方々に申し上げますが、「自分は神の召しを受け取るチャンスを逃かもしれない」と思っている人が沢山いるのではないでしょうか。「誰か他の人が私の召しを受け取ってしまう」と思うのです。でも主がカレブをどのように取り扱われたかを見てみましょう。

ヨシュア14:10−12

「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らをも追い払うことができましょう。」

 

主があなたに約束されたものが何であれ、それを主が他の人に与えることはなく、それはあなたのために取っておかれるのです。あなたは主のご計画のためにそれほどに重要な者だからです。その国、その土地、その人々のためにはあなたが必要なのです。あなたのためにそこは取っておかれているのです。

 

次に若い方々に申し上げます。

エレミヤ12:5

「あなたは徒歩の人達と走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。」

あなたがレースを走るためには訓練が必要です。もし疲れきってあきらめてしまうならば、主があなたのために備えられたものをすべて見ることはできません。主があなたに示す御心をすべて知ることはできないのです。疲れたり、失望したりしてあなたが走るのをやめてしまうからです。

 

ヘブル10:36

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 

「忍耐すること」 は今の若者にはとても難しいことです。今香港に若者が奉仕のために来ると、空港について10秒以内に親に連絡をしないと親は怒ります。私の時代はもっと楽でした。香港についてから家族に電話をしたのは、一年後でした。電話使用の予約をしてバスで通信所に行き、2分間電話で話すことができました。家族全員と一言挨拶を交わすのが精一杯でした。だからよかったのです。というのは、私が家を離れて香港に来たとき、私は本当に「家を離れた」からです。私たちが福音のために家を離れる時は、本当に「離れる」ことが必要だったからです。

 

でも今の若者にはそれはとても難しいことです。友達をみんな連れてくるようなものです。とても有名なクリスチャンの家族の子どもが香港に来たことがあります。彼女の決断方法はすべて「主観的」でした。つまり「神は私に何と言われているか?」と考えるのです。(私の決断方法は「客観的」であり、「御ことばは何と言っているか」を見てから、それが自分の状況にどのように適応するかを考えます。)私がいつまで香港に滞在するのかと訊ねると、彼女は「祈ってから決めさせてください。」と言いました。しかし実のところは友達にEメールやメッセージなどで話して相談しているのです。現代の若者は何でも「友達に相談してから」でないと決断できないのです。

 

貧しい人たちと住むのは大変なことです。私たちのミッションに新しい人が来た時、貧しい人たちはまず一番に「いつまで滞在されますか?」と訊ねます。世界中から人々がやってきて、3週間、3ヶ月、半年というように奉仕をしてくれます。ここにいる人々はひどい人生を送った人ばかりで、叩かれたり、売られたり、強姦されたりして来ました。ですから彼らは「家族」が欲しいのです。自分たちを愛してずっといてくれる人を求めているのであって、「私は香港で3週間貧しい人たちのところで奉仕をしました。」と言うために来る人を求めてはいなのです。

 

私は家族の結婚式はほとんど出席できませんでしたし、両親の死に目にも会うことはできませんでした。でも私は何かを逃したのでしょうか?

確かにこの地上において手に入れなかったものがほんの少しあるでしょう。でも両親はイエスを信じていましたから、私は天国で永遠に彼らと一緒にいられるのです。私たちは地上ですべてを経験しすべてを手に入れる必要はありません。

 

私たちは耐え忍ぶ必要があります。私たちは忍耐が必要です。忍耐の反対は何でしょうか? 忍耐しないことでしょうか?

違います。忍耐の反対は不信仰です。私が香港に行き無法地帯で働き始めたとき、人は私を勇敢だと言いました。でも違うのです。それは私にとってすばらしいことであり、そこに住むのは容易いことでした。そこは6マイル四方に一万人が住んでいました。50年前には電気もなく、警官がいるにはいたのですが、麻薬業者から賄賂をとっているような腐敗した人達でした。前の晩に死んだ人の死体はトイレの横に積まれました。年寄りの女たちの手の甲は、麻薬の針のマークがついていました。それは身体の他の部分の血管は使い果たされていたからです。彼らは若い売春婦を監視していました。ヘロインやオピウム(アヘン)の常用者たちが、狭い汚い道でころがっていました。私は主に「彼らのうち一人の救いのために私の人生が用いられるならそれで十分です。」と申しあげました。

 

ですからその町でそのような人たちに混じって生活するのは、私にとって大変なことではありませんでした。一生そこにいて、他には何も見なくても十分だったのです。私は憂鬱な顔をした宣教師に沢山出会いましたが、理解できませんでした。彼らは「香港の上には霊的暗闇が覆っている。誰も救われてこない。」と言います。彼らには何も起こっていないように見えるのです。でも私は彼らが鬱になるのが理解できませんでした。それは、1コリント15:58に「ですから、私の愛する兄弟よ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」とあるからです。

 

私の働きで何かが起こるのを一つも見ることがなくても、それは全くかまわない、と私は思いました。なぜならば私の働きが無駄になることはないとこの御ことばが語っているからです。現代は何でも数を数える時代です。誰かが千人を救いに導いたならば、その人はあなたよりも優れている、、と考える時代です。でもそれは真実ではありません。主が召されたことに忠実に従うことだけが大切なのです。病人を癒し、貧しい人を愛し、家に人を住まわせることです。その結果どうなるかは、主の御手にあるのです。聖書には「ある者は種を蒔き、ある者は収穫する」という教えが沢山あります。収穫する者が種を蒔く者よりもすぐれているとは書かれていません。収穫をもたらされるのは主です。

 

ですから私は何も起こらないでも幸せでした。「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)」という約束もあります。「時期がきて」と言うと、「自分が蒔いたところからやがて刈り取る」と思い勝ちですが、多くの場合、私たちは他の人が蒔いた所から刈り取るのです。ある人々はずっと一所にいて「私はずっと蒔いてきたわ。でも何も起こらないから収穫のあるところに行くわ。」と言います。そして飛行機に乗ってリバイバルが起こっている所に行きます。でも申しあげますが、貧しい人は飛行機に乗るお金はありません。多くの人が「神のムーブが今ある所」へと押し掛けて行くのを私は見てきましたが、その間にも人々は飢えています。「あなたが留まって飢えた人に食べさせるならば、神のムーブがそこで起こるでしょう!」と私は叫びたいのです。沢山祈れば地の果てまで福音が届くでしょう、と人は言います。違うのです!あなたが歩いて行かなければ地の果てまで福音は届かないのです。福音はそのようにして私たちにも届けられました。神の一人子が人となってこの世に来られ福音が届けられたのです。実際にそこまで行って歩き、あなたの手で人々に仕えることに代わるものはありません。イエスは私たちのためにそうしてくださったのです。そしてヨハネがイエスは「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と表したのはそういうことです。神の愛が人となってこの世に来てくださったイエスによって具現されたのです。主は触れ、癒し、人から軽蔑された者に手を差し伸べられました。

 

私は実際に誰も救われず、何も起こらなくてもよかったのです。私は忍耐しました。しかし、それと同時に私は早く起こってほしいと思いました。「忍耐しないこと」が正しいことがあるのです。なぜならばヨハネ14:12でイエスは「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われたからです。「私は一生ここに住んで、何も起こらなくてもいいです。わたしの働きは決して無駄にはならず、私ではなくても誰かがその実を見ることになるからです。でも、私はあなたが約束されたことを早く見たいと切に願っています。なぜならば、そうでないと私の愛する人々が死んでしまうからです。彼らのために主よ、早く来てください。」と私は主に申し上げるのです。これは「早める」言葉です。神の御国を早く来らすための言葉です。主が再び来られるのを早めることばです。霊的に死んだ者たちを、愛し、食べさせ、家に住まわせ、胸に抱くことによって生かし、神の御国がこの地に来るのを早めます。

 

私は異言を香港に行ってからある中国人の夫婦の勧めで受けたのですが、最初は別に何の役にも立たないように思え使っていませんでした。一年後にアメリカから来た人に「異言で話していますか?」と聞かれたので、私が「いいえ。別に何も感じないし、何も変らないようなので。」と答えると、彼は「それは随分失礼なことですね。聖書には『異言はあなたを霊的に高める』とは書いてありますが、『異言は徳が高められたようにあなたが感じる』とは書いてありませんよ。」と言うので、私は異言を用いはじめました。

 

それまでは「主よ、これこれの人たちが今死にかけています。それらの人達に私は福音を語りたいと思いますので、助けてください。」と祈っていました。でも異言で祈り始めると、それが逆になりました。「主よ、あなたは私が語るべき人をご存知です。あなたがすでに整えておられる人のところに私を導いてください。」と祈るようになったのです。一日30分くらい異言で祈るようになってから6週間くらい経ったとき(相変わらず何も感じませんでしたが)本当に私はギャングのリーダー達に出会い始めました。彼らにイエスのことを話すと、彼らは道の真ん中でイエスを信じ、聖霊を受けたのです。「私の中国語が巧くなったのか」と思いましたが、そうではないのです。私が言うことは以前と何も変っていなかったのですが、神が彼らをすでに福音に応答するように用意しておられたのです。伝道とはそういうことであり、すべて主がされるのです。あなたが説得できる人など一人もいません。主が調えられた人のところに、主が私たちを導かれるのです。そして主がそこに現れてくださいます。

あなたが「トマトケチャップ」と言ったとしても、その人は救われるのです。神がすべてをなさるのであり、あなたが誇るべきことは何もないのです。(続く)


Post a Comment