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Walk With God Ministries

13 2月

リバイバルがやって来る!」    誰がその火を点け、誰がその実りとなる未信者を導くのか                  坂  達 也


リバイバルがやって来る!」

   誰がその火を点け、誰がその実りとなる未信者を導くのか

 

                 坂  達 也

 

 私たち夫婦がヘンリー・グルーバー師夫妻を日本に初めてお連れした1995年頃の日本は、大げさに言えば、国中のクリスチャンが「リバイバル」「リバイバル」とリバイバルへの期待と掛け声で湧いていました。私たちを招いてくださったある教会では一日4時間から8時間もリバイバルのために祈り込まれていたことが懐かしく思い出されます。それ以来「リバイバルがやって来る」という声は聞こえて来ましたが実際にはほとんど何も起きていません。そして今ではたまに「リバイバル」という言葉を聞いても誰も興奮しません。

そんな中で最近また「リバイバルがやって来る!ー早ければ2018年に、あるいは2019年、そして20年には世界中に広がる」と云う声が掛ったのです。私たちはその事を先週ご紹介しましたが、それを読んでも恐らく誰も「そうか!」と興奮して椅子から立ち上がった人はいなかったと思います。しかも「やって来る!」と云ったのがリバイバルの歴史に詳しい、そして最後の大リバイバルに関する多くの預言を主からいただいて「ハーベスト」という本を著した預言者の第一人者である、リック・ジョイナー師が云われたのであってもです。

 

そんな思いをもって4、5日経った後、折からジョイナー師のモーニングスター・ミニストリーで、年一度の「アドバンス預言者カンファレンス」がこの2月8−11日に開催されました。私たち夫婦はこの実況を聞きました。色々な意味で、このカンファレンスで語られたリバイバルとアウェークニングへの預言は、いよいよ本物のリバイバルが来ることを真摯に宣言していると受け取りましたが、それは、決して浮ついたものではなく、むしろ厳粛な思いと「主からの厳しい叱責」を会場にもたらしました。講師はチャック・ピアース師、ポール・キース・デイビス師、それにほとんど無名の30歳のジェロマイヤ・ジョンソン師でした。そしてジョイナー師が日曜日の礼拝で締めくくりました。

 その報告を全部させていただく紙面がありませんので、今日はハイライトとして弱冠30歳の預言者ジェロマイヤ師の預言とそれを受けたジョイナー師のメッセージを要約してお伝えします。

 

ジェロマイヤ師のメッセージ

 

私はアメリカの色々な教会を訪れました。最近では、多くの教会からリバイバルのための預言とメッセージを頼まれて訪ねるのですが、そこで預言、超自然の力、奇跡、癒し、或は祈りやワーシップを強調すれば会場は沸き、喜ばれますが、「ホーリネス(聖さ)」と「罪の悔い改めの必要」を語ると、会場はシュンとして静かになってしまいます。私は天国の実質とリアリテイーとは、何をさておいてもホーリネスが根底にあり、クリスチャンの本質は十字架、イエスの血潮、復活の力にあると説くと、その集会での献金謝礼はグンと落ちて旅費にもならないのです。確かにアメリカには多くのすばらしい教会があり、中でもビルジョンソン師のべテル教会とマイク・ビクル師のIHOPの二つはアメリカを代表する二大教会と云えます。しかし、聖書では「三つを束ねると最も強い」と言われます。その三つ目の教会とは、他ならぬサウス・カロライナ州のこのリック・ジョイナー師のモーニングスター教会です。本教会の担う責任は、迫り来るリバイバルにとって最も重要かつ最も必要な「罪の告白と悔い改め」を説き、神を畏れ「神聖さ」を第一に強調する最も大きな任務があると私は固く信じます。リバイバルの歴史を見れば明らかです。代表的なリバイバリストにジョナサン・エドワードがいますが、彼は「ホーリネス」と「悔い改め」のメッセージ抜きではリバイバルは絶対に起きないことを示した代表的なメッセンジャーと云えます。(以上ジェロマイヤ師)

 

ジェロマイヤ師は「私たちクリスチャンリーダーと教会は、神を喜ばすメッセージをすべきでしょうか、それとも人間を喜ばす説教をするべきでしょうか?」と問い掛け、「自分はモーニングスター・ミニストリーにこの預言を伝えに来た」とはっきりと宣言したのです。そしてジョイナー師は、そのメッセージが神からの預言と受け取り、彼自身その責任を預かることを日曜の礼拝メッセージではっきりと認めました。

 

 

「輝く聖さ」を持つクリスチャンが今こそ現れよ

 

 ところで私は、今朝コンピューターのデスクトップに、どういう訳か未だに残っていた昨年6月に掲載したWWGM のメッセージの原稿ーーフランシス・フランジペン師の「輝く聖さ」という表題にふと気が付き、目が吸い込まれました。普通なら既に所定のファイルに移されているはずのこの原稿がどうして残っていたかはわかりませんが、今日の題材はマタイ5:8に書かれている「聖さ」にあると言う思いを昨夜から与えられていましたので、私はこれは主からであると確信しました。以下はそのフランジペン師のメッセージからの抜粋です。

 

「・・・聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださり、そこにおいて私たちはイエスと結び合わされ交わることによって(イエスの)聖さを受けとらねばなりません。私たちが求める聖さとは、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。・・・すると、私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。

小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができます。・・・考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。

 

聖くなるために・・・あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。

もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができます。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)と警告されたのです。・・・

自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!・・・

私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。

霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)

 

エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!

ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」

あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。」(引用終り)

 

私はこのフランジペン師のメッセージに改めて心打たれました。なぜならマタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」という御ことばこそは、私にとって最も大切な座右の銘として来た御ことばの一つであるからです。この真に「主を見ることができるようになる」ためにはこの「聖さ」が絶対に必要です。

前にもご紹介しましたが、ピアース師が今回も語られたことがあります。それは、今年(ユダヤ暦5778年)の課題は、クリスチャンが信仰を改めて改革・リフォーメイションする「新しい出発ーニュービギニング」の年であることです。いよいよ終末のリバイバルが来ると預言されて来た大ハーベストが始ろうとしています。

 

しかし問題は、誰がその火付け役になるのでしょうか。そして誰が、これから生まれて来る大漁のリバイバルの網にかかった人たちを真の悔い改めに導き、真のキリストの花嫁に育て上げるのでしょうか。

そのために、私たちはサムエルを育てようとした大祭司エリであってはならないのです。ーーエリは主を愛しましたが自分の二人の息子 ホフニとピネハス二を厳しく躾けることをしませんでした。主は、今の時代の教会のリーダーたちが、エリと同じように信徒を甘やかし「熱狂的であれば後の罪は放任する」という大きな罪を犯していることに怒りを発しておられると、ジェロマイヤとジョイナーの両師がそれを指摘していることを最後に改めて強調させていただきます。そのような今の教会の信徒こそを先ず誰かが厳しく悔い改めに導く責任があるのではないでしょうか。

 

終末の時代に生かされている私たちクリスチャンの教会の多くは、今本当に惑わされています。それは真の福音からは程遠い「妥協し水増しされた福音」しか語られていないとジェロマイヤ師は叱責しました。私はそのメッセージを真摯に受止めました。どうぞ皆さん、これについてぜひお祈りいただきたいと心から願う者です。(終り)


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