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Walk With God Ministries

09 1月

新年に神が望んでおられることは私たちが「主と共に歩む」こと     坂  達 也


新年に神が望んでおられることは

        私たちが「主と共に歩む」こと

 

                  坂  達 也 

 

 

 新しい年に入って一週間が過ぎました。この間、前代未聞の猛吹雪と零下18度という極寒を体験しました。そして入居した家の下水がつまっていて、地下のシャワー室の下水口からトイレの汚水が逆噴するという緊急事態になりました。しかし極寒時に主は下水の詰りを修復するプラマーを直ちに送って下さいました。また、昨日は私たちの新居に待ちに待ったインターネットが入りました。

 

さて主が今、私たちクリスチャンのしていることのすべてを、改めて根本から見直すように仕向けておられることを、先週に引き続き、改めてひしひしと感じていることをお伝えします。それは、すべてのクリスチャンが今迄にして来たことが「人間業による偽物(フェイク)」であること、それを「霊的な本物」に取り替え改革するプロセスが急がれていることの証拠であるように思えます。

しかもそれは何一つ新しい考えによるものではありません。すべて初めから聖書に書かれていることの元々の意味に立ち返ることであり、そのためには先ず、私たちが長い間に少しずつではあってもどれ程大きくずれ落ちて「人間的になってしまっているか」に気が付く必要があります。

 

そこで申し上げられることは、神は「今の私たちクリスチャンがフェイクであること」を、最高の聖人君子のようなクリスチャンに言わせるのではなく、こともあろうにトランプ大統領のような、過去に多くの罪を犯し、無数の傷を持ち、言うことなすことがどう見ても「一見フェイクに見え、最もクリスチャンらしからぬ毒舌家」を立てて「フェイク暴露」に挑戦されたことです。しかもその真実を、最もフェイク・クリスチャンの多いアメリカで、全く腹の立つような方法で暴き出させたのですから、この世の中、今では世界中がおもちゃ箱をひっくり返したような喧々囂々の大騒ぎとなりました。しかしよくよく考えてみれば、そのこと自体が神でなければ絶対にできないことではないでしょうか。

トランプ大統領は恐らく世界有数の罪人のチャンピオンであったとしても、その彼は、そのことを神の御前で悔い改めました。そして、見せかけは最もまずい「よちよち歩きのベービークリスチャン」であるかもしれない彼が、その前の三代の大統領が国の立法府が承認しているにもかかわらず「エルサレムにイスラエルへの大使館を移す」という「世界で最も正しい、すべきこと」を実行できなかったことを自分はすると世界に向かって宣言したのです。クリスチャンとは正しいことを正しいと言い、それを愛をもって実行する勇気を持たねばならないことを、私たちはトランプ大統領から学ばねばならないと思います。

それを言えば、聖書の中で最も影響力のある人物とか王で、この人こそ「聖人君子」であると言える人が一人でもいるでしょうか。アブラハムにしてもダビデ王、またソロモン王にしても皆キズものの人間ばかりです。それ自体、神が聖書を通して「真の人間の正体」を暴露しているという厳粛な事実であるのです。

 

そこで「私たちがクリスチャンである」ことを最も端的に表す尺度が何であるかを考えてみたいと思います。私はそれは、クリスチャンにとって最も重要な行為である「祈り」がどのようになされているか、ひいてはその祈りが聞かれているかどうかーにあると信じます。私たちと神との間でなされる「祈り」とは「親しい会話であり」その「祈りの関係」の実態が、クリスチャンたる私たちと神なる父との関係を如実に表していると思うからです。真のクリスチャンとは、神と最も親しい親密な(人間)関係に入っているか、否かが真っ先に問われます。

就いては、その「私たちの祈り」について、カンサス州にある IHOPに所属するサムエル・ウィットフィールド師が最近書いた下記のメッセージを先ずご紹介させていただきます。

 

祈りの真の秘訣    サムエル・ウィットフィールド師

 

ルカ11:1−4にこのように書かれています。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終ると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときは、こう言いなさい。父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

このルカ11章において、私たちは、イエスと弟子たちの間の親しい会話の様子を垣間見ることができます。イエスが祈っていた時、弟子たちはイエスと御父との会話に感銘を受け、祈り方を教えてくださいと頼んだのです。彼らへのイエスの答えは驚くべきものでした。

イエスは弟子たちの願いにやさしく応答し始めました。主は、ご自分の御父への祈りの生活は、自分が御子である故に「わたしに特有なもの」と簡単率直に答えることもできました。又、彼らの弱さ、罪、未熟さの故に自分のように御父との親密な関係はとても持つ事はできない、と言うことも出来たでしょう。しかし主は弟子を叱責したり、御父と弟子たちの関係は「そんなに親密ではない」などとは言わずに、シンプルで深い祈り方をやさしく彼らに教えたのです。

 

その祈りの初めの部分は、私たちが どのような期待をもって祈り始めればよいかを示しています。

 

ルカ11:2

そこでイエスは彼らに言われました。「祈るときはこう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』」と。

ここで主がいわれた言葉ですが 、私たちはこの「主の祈り」に実はあまりにも慣れ親しんでいるので、ついその重みを十分に理解しないまま通り越してしまい勝ちです。しかし主は、神に近づく時は、私たちも主と同じようにしなさいと教えてくださったのです。即ち、正しく祈るためには、神の御前で私たちはイエスと同じ「確信」をもって祈らねばならないということです。

 

祈りを学びたい時、私たちは祈り方に関していろいろな方法や教えを見つけようとします。どのような言葉を使えばよいのか、何をどのように祈ればよいのかと、正しく祈るためのフォーミュラ(法式とか定則)を必死で得ようとします。しかしイエスはそのようには始められませんでした。イエスは「関係」から始められました。祈りで用いる言葉や内容よりも、 祈る相手に 「確信」を持つことの方が余程重要であることを、イエスは知っておられたからです。

ほとんどの人は正しい祈りの方式とか型を見つけ出そうとしています。しかしイエスは、そのような態度で祈りに近づいてはならないと警告しておられるのです。

マタイ6:7−8

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りは「正しい言葉使いとか、その言い回しの決まり文句を唱える」ことから始めなければならないのではなく、「祈る相手に対する親しい関係を表す確信」から始めることが重要であるのです。神を、真に愛に溢れる善き父として見上げるならば、それは私たちの祈り方を革新的に変えます。私たちの祈りは心からの、正直なものとなり、なんでも包み隠さず言うようになる、そうして初めて、御父との親しい信頼関係を土台にした祈りとなるのです。

すなわち祈りは、華麗な言葉を用いたり正しい方式で祈るから聞かれるのではありません。神が私たちの父であるから聞かれるのです。

私たちが用いてもよい祈りの助けとなるものがあります。例えば、御ことばを祈るとか祈りのリストとかです。しかし、祈りは先ず御父との親しい関係に対する確信から始めねばなりません。そうでないと、祈りの言葉はただの空しい儀式になってしまいます。イエスはご自分と同じ親しさをもって神に近づくようにと、私たちに教えてくださったのです。

 

もしあなたがイエスなら、祈るときどのように御父に近づきますか。私たちもそれと同じように御父に近づき祈るべきです。あなたが今度祈るとき、イエスが父に対して持っておられるのと同じ確信を持って御父に近づいてください。祈りに関するいろいろな教えは確かに助けになります。しかし、実にこれこそが生き生きとした祈りの生活の始まりとなる、ならねばならないのです。(以上師のメッセージ終り)

 

神との親しい関係

 

上記のメッセージは当然といえば当然なことを言っているに過ぎないー単なる理屈だと思ってはならないと思います。この方が言わんとしていることは、私たちクリスチャンと神なる御父との関係が、本当にすべてを委ねて頼り切っている幼児とやさしい愛に溢れる父親(母親)との間にあるような「信頼関係」になっているかどうかが問われていると思います。

 

そこで私は今回の私たち夫婦が再びニューヨークの家族の元に移り住むために費やした2017年と今年に入っての約一年間の経験を通して私が学んだことを少しお分ちさせていただきます。

それはカリフォルニアに住んでいた約三年半は、落ち着いたクリスチャン生活を送ることに務め、何もない日はほとんど毎夜、夫婦で主の前に出て少なくとも30分から1時間余の時間を祈りに費やしました。そして私が前にも何度も申し上げて来たように、最後にマタイによる「主の祈り」をもって夫婦の祈りを終わるようにして来ました。勿論私たちは、それ以外にもそれぞれ示された時とか必要に応じて、異言を含む色々な形の祈りを毎日して来ました。しかしそれはほとんどの場合、家の中で時間を取ってのお祈りでした。ところが私たちの住まいを売りに出した後の手直し、売却、その後の引っ越し、そしてこちらに着いた後の古くて問題だらけの(それを見越して安く入手した)新しい住まいでの改修工事を始めたばかりですが、この間の年末年始の2−3ヶ月は、いつも家でしていた定番的「祈りのパターン」とか、型にはまった「祈りこみ」ができなくなりました。実はそれによって「祈りが足りないのではないか」という一抹の不安と、それでは「祈りは聞かれない?」という恐れを私が持ったことは否めない事実でした。

 

ところが実際に経験したことは、ほとんど未知の土地で、予測できない行動を必要とする多忙な生活を過ごす時に、逆に主からのとっさの「祈りの指示」がぱっぱっと聞こえてくる、そしてそれを祈ると、火急の場を救うための見知らぬ適任者が現れて適時に事態が処理されるのです。つまり主は私に祈らせ、即時に実行させるーこうした主との祈りの会話で話しが進転するーすべてを主が手配し、私はそれに従って行動しているだけーーという毎日を経験しました。そしてハタと納得したのは「そうだ、これが主と共に歩くことだ」という実感でした。

 ここで毎日を主と共に歩くこととは、歩いていても電車に乗っていても常に主に話しかけ、質問する、あるいは喜びと感謝を気軽に伝え、分かち合うことであると思います。親しい友人になることです。これが自然に身に付けば、一日中何をしていても、あるいは寝ていてさえ主は話しかけてくれるようになり、気軽に何でも答えてくれてどんどん指示が来るようになる、それが私の目標で、その味を今少し経験しております。

 

 

 もう一つの例を挙げます。実は、私は息子が取得した新しい家を訪ねた最初の日にその地を「祈りの歩行」するつもりでしたが、その時は紛れて忘れていました。そして住み始めて2、3日経った時、この買った古い家が予想していた以上に問題だらけであることから、私が息子と打ち合わせ中に、突然恥ずかしいことに感情任せに私がつい声を荒げて息子にどなってしまったのです。(息子をどなったのは何十年ぶりでした。)その時、祈りの歩行をしていないことに気付きはっとし、慌てて私のたちの宅地と数件の隣家との境界線を祈って歩きました。そして私は、主の臨在が戻って来て、息子を怒鳴るという全く恥ずかしい未熟な行為を悔い改めました。その後息子との関係は、すぐいつもの親しい良い関係にもどり、事はうまく進んでおります。

私はクリスチャンとして成熟することへの努力を私なりに努力して来たつもりでしたが、それが少しでも宗教的行為である限り、頭での努力だけでは真の「主との親密な関係」はでき難いことを改めて経験させられました。しかしその一方で私がやってきた「主を見上げて待つ」祈りとか、夫婦での主との交わる習慣、特に「主の祈り」を心から唱えることは、主との親密さを増すことに貢献していることを改めて感じている次第です。

 

最後に、上記のルカによる主の祈りの最後のところは、マタイ6:13によれば「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン)」となっております。それはその前にルカ伝でもマタイ伝でも書かれている「御国が来ますように。」につながっていると私は思います。

それは主をお迎えする前に、私たちがこの世を御国にする責任を主からいただいていることを真に自覚し、終末の最後の時代に生かされて、「主とともに歩みつつ」その責任を果たすことを主が期待しておられるのが「主の祈り」の意味であることに改めて気が付かされました。(終り)


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