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Walk With God Ministries

12 12月

主の臨在に浸る(ソーキング)    パム・ワトソン         2017年12月12日


主の臨在に浸る(ソーキング)

 

パム・ワトソン (Pursuit church in Auckland, New Zealand)

 

 

詩編37:7「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 

これがソーキング(soaking 浸る)の本質です。私たちが神の臨在の中に浸るとき、それは安息して神を待ち望む姿勢です。このように主を待ち望むことを、以前は「タリイング tarryingじっと留まって待つ」という言葉で表現していましたが、それは主を待ち望んで何時間もそこに留まることでした。しかしそれはほとんどの場合、聖霊に満たされるのを目的とし、聖霊を受ける準備を整えながら、嘆願しながら、長時間待ち続けるというものでした。

幸いなことに、今私たちはイエスと神の御こころをより深く知るようになり、私たちが嘆願するまでもなく主は御霊を私たちに注ぎたいと願っておられることを理解しています。ですから主にソーキングするとは、タリイングのように懸命に神に叫び求めるのではなく、主に安息し信仰によって受け取ることを強調しています。

 

栄光から栄光へと変えられる

 

第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

神の臨在に浸るとき(ソーキングする)、私たちは主を仰ぎ見るようになり、それによって主のように変えられていくのです。主の臨在に浸るとき、私たちは主を見るようになります。そのとき私たちは必ず変えられます。私たちは栄光から栄光へと変えられ、主に似た者へと更に変革されるのです。

 

主を待ち望む

 

イザヤ40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 

この有名な聖句は、私たちが神を待ち望むときに何かが起こることを教えています。神という存在が、私たちの上に、そして私たちの中に、現れるのです。それは「私たちの弱さが神の強さと入れ替わること」であり、又、「私たちの足りなさが神の能力と入れ替わること」です。神を待ち望んで時を過ごす時、まさにそれが起こります。

多くの者は毎日の生活の中で、すでにこのことを経験しています。朝、主と時を過ごすとき、私たちの一日は力を受けます。神の臨在にソークするとき、この効果は更に強化されます。

 

神を敬慕する

 

ソーキングとは、また、主を喜び、主を敬慕することです。

雅歌2:3−5「私の愛する方が若者たちに間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」

 

神の臨在にソークするのは、主の陰に座り主の臨在の果実を食べるようなものです。雅歌の花嫁のように、私たちも大喜びでそうすることができます。この箇所はまた、主が私たちを酒宴に伴ってくださる時に何が起こるかも告げています。

 

それはただ主だけに可能なのですが、まず私たちが主の臨在の中に入り座すことから始まります。その時私たちは、自分に対する主の愛のもっと深い領域へと伴われます。それは酒宴の席に喩えられています。これは主に対する私たちの愛が増し加わるだけではなく、主の臨在のぶどう主を飲んだ者の外面にも表れる結果となります。人々が笑い、震え、泣くことも多々あります。そしてそのような経験は「酔う」という言葉で表現されることもあるのです。

 

静まり、そして知りなさい

 

詩編46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)

 

この勧めも又、静まって神の臨在の中にソークするときに、神を知り神を経験することが出来ると教えています。主の前に静まるとき、神の臨在の重さ、栄光を感じることができます。しかしこの境地を求めるとき、困難を覚えることもあります。それは、私たちの肉は非常に活発で落ち着くのにしばらく時間がかかるからです。

しかし私たちの肉体ですることは、霊的な領域に力強い宣言をすることとなります。私たちが神の臨在の中に横たわるとき、それは主に降伏し安息を求める姿勢であり、主はそのような私たちの願いを受け取ってくださいます。

 

ソーキングの時にワーシップミュージックをかけるのは助けになります。音楽は雰囲気を整え、心を開き私たちの霊が神への崇拝に立ち上るようにします。崇拝は聖徒たちの愛の歌であり、ただただ主を愛し敬慕するとき、私たちは主の臨在の豊かさを更に大きく経験するでしょう。

ソーキングは肉を静まらせ、霊を立ち上らせます。その時、身体の中に住む「霊」こそが「真の自分」であることに私たちは気付きます。私たちの霊が主との交わりと敬慕の中に立ち上がり始めると、私たちの肉体は完全に安息し、私たちの霊は目ざめて主から何かを受け取る用意が整うのです。

 

主の臨在の中にいる結果

 

多くの場合神からの啓示は、臨在の中でソーキングした結果得られる実です。主は御こころの秘密を私たちに明かすことを喜びとしておられます。

解決すべき私たちの問題を取り扱い、私たちの置かれた状況や問題のために知恵を与えることを喜びとされるのです。

ソーキングで主を待ち望むときに与えられるものの素晴らしさや偉大さは、詩編27で示されています。14節のダビデの宣言でそれは最高潮に達します。

詩編27:14「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」

この詩編でダビデが言っているすべての事への鍵は、主を待ち望むことです。即ち、「1−3節:敵に直面したときの確信と力、4−5節:神の家、神の臨在の中に一生住む願望、6−8節:喜びのいけにえと御顔を求めること、9−13節:敵に対する勝利と神の慈しみを得ること」です。

 

これらすべては神の臨在から流れ出てくるものであり、私たちが神を待ち望むとき、即ち神の臨在の中にソーキングするときに与えられます。

 

イザヤ30:15−17「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗やぐらしか残るまい。」

主はここで「救いは主に立ち返り、主に安息することから生まれる」と私たちを励ましておられます。これこそがソーキンングの姿であり、ただ主にのみ可能なことに信頼するのです。主に安息することによって実る実は「静かに落ち着き確信がある」ことです。これが私たちの力の源となります。

残念ながら、私たちの肉は非常に強く支配欲があります。私たちは何かをしたい、したい、したいと思うのです。神の臨在にソーキングするには、何もしないことが必要ですから、それは肉に対する侮辱となります。それ故に人々は葛藤し、神に立ち返り安息することを拒絶します。その結果、人々は敵の攻撃に対して肉では勝利できないことを思い知らされるはめになるのです。

 人々は自分の「馬」は戦い抜くことができると思います。そして自分の努力が失敗に終った時も、主に立ち返るのではなく、以前の2倍の努力をするようになります。その結果、彼らは山の頂の旗ざおのようにポツンと残されるのです。それは、枝を打ち払われた木のように、実が一つもなく枯れ果てたように見えるのです。

イザヤ30:18「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

 

主は何と恵み深いお方でしょうか!

 

彼らは待たなかった故に死んだ旗ざおのようになりました。しかし、主はその時が来るまで待っておられ、彼らを恵みあわれむために立ち上がられました。

そして彼らを救われたのです。主を待つことの方が私たちにとってどれほど優れた道でしょうか!

私たちが待つ者になることを選びとるならば、主は私たちを恵み、あわれんでくださり、そして主の正義を現されて私たちの人生を祝福してくださいます。主を待ち望むことを選びとるとき、それは何と素晴らしい実を実らすことになるのでしょうか。

 

ソーキングは努力するだけの価値を持っています。それは時間を要しますし、自分に死ぬ必要がありますが、その報いは大きいのです。主の臨在への覚醒が増し加わるだけでなく、主の臨在のすべての実や益があなたの人生に解き放たれます。ソーキングは自分の家でいつでも一人で出来ることですが、グループですると

パワフルなものとなります。クリスチャンが集まるとき、グループ全体への油注ぎがあり、神の臨在を見つけるのが容易くなります。

どうかソーキングを始めて、楽しんでください!(終り)


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