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Walk With God Ministries

04 12月

二本の木 ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)    2017年12月4日


二本の木

 

ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)

 

創世記2:9,16−17

「神であられる主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。、、神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。』」

 

主はアダムをテストの環境に置かれました。そしてテストのために、アダムの毎日の生活の真ん中に二本の木を植えられました。 「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。

この二本の木は、その意図と目的において多くの点で異なっていました。アダムは一つの木からは自由に取って食べてもよいと言われましたが、もう一方の木から取って食べることは禁じられました。

「いのちの木」は、主がアダムに吹き込まれた霊的いのちと関連していました。アダムが生きるためには、毎日いのちの木から食べる必要がありました。それによってアダムが自分を造られた創造主に完全に拠り頼む生き方が確立されたのです。もう一方の「善悪の知識の木」は、アダムの肉の命と関連していて、神から離れ独立して生きる道を彼に与えるものでした。

 

「いのちの木」の説明はイザヤ53章にあり、イエスがいのちの木であることを明らかに示しています。

イザヤ53:2「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」

 

堕落した人類は、イエスを 「砂漠の地から出る根」と見ました。彼は見とれるような姿もなく慕うような見ばえもありませんでした。イエスの麗しさは内なるものであり、ただ贖いと啓示を通して初めて認識出来る麗しさなのです。

しかし「善悪の知識の木」はそれとは全く違っていました。それは目に慕わしく非常に美味だったのです。つまり、堕落した人間にとって肉のものはすべてにおいて魅力的に映り、霊的なものは好ましくは見えないのです。

 

神のご計画により、 私たちが主から選ばれるためには支払うべき代価があります。主は霊的な麗しさを内に隠されました。ですからそれは主を心から慕う人々にだけ与えられる「霊的な視力」でしか見ることができません。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とある通りです。神のご計画により、主の麗しさを見るためには決してあきらめない決意が必要です。「選ばれる者」になるために、知識の木から分離するための代価を払うものは、本当にわずかでしかありません。

 

敵は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言いました。エバは「ものごとを自分で決める」という権利を「食べた」のです。そしてアダムにも与えたので、彼も食べました。人類が「神のように」なり、創造主から離れて自ら統治しようとしたために、私たちはその恐ろしい代価を今日に至るまで払い続けています。

 

アダムとエバの不従順な行動の後に、主がアダムと共に歩くために園に来られました。アダムは主の臨在から隠れました。彼は自分が「裸だった」ので隠れたと言いました。それは着ていたものを失ったのではなく、「栄光(シェカイナ)の覆い」を失ったのです。それは彼が目に見える主の臨在と主の栄光の中に留まるために必要なものでした。

このシェカイナは今や「炎のつるぎ」となり、いのちの木への道を守るものとなりました。主はアダムがいのちの木から取って食べるのを禁じられたのです。その結果、肉体の死のプロセスが始まりました。創世記3:22で主は「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」と言われたのです。

 

アダムは霊的には即時に死んで、主の臨在の中に住むことを可能にしていた覆いを失いました。又、少し分かりにくいですが、肉体的にもその日の内に死んだのです。ペテロは「一日は千年のようだ」と言っています。アダムや彼以後のすべての者は、千年以内に死にました。

 

アダムとエバは自分で選びとる権利を「食べ」、それが彼らの一部となりました。主は動物を殺し( 血による最初の贖い)、その動物の皮の衣で二人を覆いました。彼らの罪は赦されましたが、彼らが食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に留まりました。

 

私たちは皆、この選ぶ権利をもって生まれてきました。イエスを救い主として受け入れるとき、私たちは罪赦されて新しく造られた者(new creation)となります。しかしこの「自分で選ぶ権利」は私たちの内に留まったままです。私たちはそれをエデンの園で得、主はそれを私たちから取り上げることはなさいません。しかし、私たちはこの自分の人生の権利を自ら差し出すことはできるのです。

 

ヨベルの年に奴隷たちは解放されます。もしそのまま奴隷であることを選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱のところできりで刺し通されます。(出エジプト21:6)何年も前のことですが、礼拝中にこのことが私にとってリアルとなり、私は前に出て自分の人生に対する権利を放棄する願いを表しました。そして講壇の端に耳を当て、主に突き刺してくださるようにお願いしました。講壇の端は突然私にとっては戸口の柱となり、私は自分の耳をそこに当てて、主に突き刺してくださるように願ったのです。主は私の人生に対する権利を私から取り上げるのではなく、私が自ら喜んで主に差し出したときに受け取ってくださったのです。

 

しかしその後も私は一度ならず、「主よ、これは正しくありません。This is not right.」と不平を言いました。その時主はいつも、「あなたにはそれを言う権利(rights)はないのだよ。すべてそれを放棄したのだから。」と言われます。長い年月をかけて、私は「主が一番よく知っておられる」ことを学んできました。このような理解は一日で与えられるわけではありませんが、無条件で自分の人生を主にお委ねすることが、私にとって最善の結果となることが分かってきました。

自ら進んで人生に対する権利を無条件に主に明け渡し、自分の人生全ての上に完全な権威を主に持って頂き、「愛で仕える奴隷」になる決意をしたクリスチャンは本当にわずかです。王国には3つの要素が必要です。即ち、「領地、統治者、統治される者たち」です。主は王であられますが、自ら主に統治されることを願った者たちだけを統治されるのです。

 

私がその決意をした時、主はもはやただ「救い主イエス」とか「油注がれたキリスト・イエス、癒し主、御霊を下さる方」とかではなくなりました。主は私が完全に自分の人生を捧げ、私のすべて、私の持ち物すべてを支配される「主イエス・キリスト」となられました。主は私を「主と共に働き、主と個人的関係を持つ者」へと連れ戻してくださいました。エデンの園で失われたものを回復させてくださったのです。

シェカイナは、無条件で自らを主に明け渡した者たちにこれから完全に回復されます。

主に完全に贖われイエスを主とした者たちを通して、主のシェカイナが真昼の太陽のように輝き出るまで、主は私たちに試煉を与え、私たちの中の不純物を取り去られるのです。

 

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者のーーそうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。——感嘆の的となられます。」

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光の上に歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

 

私たちは主の栄光が現れるのを見ようとしています。しかしまず、私たちは自分の人生に対する権利を放棄せねばなりません。それによって主イエス・キリストが栄光の中に来られ、私たちを通して主の命を生きることができるからです。(終り)


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