ミニストリーの三つのタイプ ネイサン・ショウ 2017年10月19日
ミニストリーの三つのタイプ
ネイサン・ショウ(ハート・オブ・デイビッド・ミニストリーズ)
ベタニヤのマリアは聖書の中で私が一番好きな人物一人です。私は彼女の途方もないイエスへの愛と献身が大好きです。イエスは12弟子に劇的なしるしや不思議を行う権威を与えられました。(マタイ10:1)病人は癒され、悪霊に憑かれた者は解放されました。このような事はマリアに関しては記されておりません。しかし彼女は度々「イエスの足もとにいた」と言うことで、特別に注目されるのです。(ルカ10:39、ヨハネ11:32、12:3)
ヨハネ13章に、イエスが水で弟子の足を洗ったことが書かれています。その一つ前の12章を見ると、マリヤが高価な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐったことがわかります。
ヨハネ12:3「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」
マリヤの行為はその家の空気を変えました。 2種類のパワフルな香りが放たれました。一つはナルドの香りであり、もう一つは崇拝と献身の霊的かぐわしさでした。
イスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人びとに施さなかったのか。」と責めました。彼は高価な香油の値段を正確に知っていました。(これは一年分の給金に相当します)しかし、彼はこれが無駄だということだけで反応したのではありません。マリヤのイエスへの献身と崇拝という霊的香りが、ユダの心を暴露させたのです。
ここで二つの霊の統治力がぶつかり合いました。マリアは愛の統治を、ユダは欲の統治を放ったのです。
「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人びとのことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金庫を預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからです。」(ヨハネ12:6)統治力は霊的空気に影響を及ぼしそれを変えていきます。
ミニストリーのレベル
最近、私はこの二つの霊的統治力についてメッセージを語りました。すると数日後に、神はそれに関する更に深い洞察を与えてくださいました。神が示してくださったのは次にことです。
この聖書箇所においては、3つの方向に「もの resources」が動いています。
1. イエスへ:マリヤの高価な香油がイエスの足に注がれた
2. 貧しい者へ:金入れの中の金は貧しい者たちのために使われた
3. ユダへ:ユダは金入れから金を盗んでいた
この3つのものの流れの方向は、3つの異なるタイプのミニストリーを表しています。
1. 神へのミニストリー「すべてを注ぎ出す献身」
2. 人びとへのミニストリー「人びとの必要を満たす」
3. 自分のためのミニストリー「自分の欲を満たす」
教会やミニストリーの働きの多くは、この中の一つに当てはまります。私は公のミニストリーだけを指して言っているのではありません。エペソ4:11にある5つのミニストリーはすべてのクリスチャンが働けるように整えるものです。(エペソ4:12)
1.「すべてを注ぎだす献身」は、最も高度なレベルのミニストリーです。それはすべてを神ささげるのです。このレベルのミニストリーは神の意のままになることが必要とされます。神に仕えるとか、神と共に働くとかだけではなく、「神の足もとにすわる」のです。人間の目にそれはとても無駄なことのように見えるかもしれません。
どうしてイエスの足もとにすわってあなたの時間を全部浪費するのでしょうか?
一瞬で一年分の給金を無駄にするのでしょうか?
2. 「人びとの必要を満たす」も、非常にパワフルなレベルのミニストリーです。そのためには、時間、お金、エネルギーが用いられ、それによって神の御こころが表わされるのです。人びとは癒され、解放され、変えられ、貧困から抜け出ることができます。福音書の中に記録されている奇蹟の大部分は、この人間の必要に対する直接的なミニストリーです。
3.「自分の欲を満たす」は一番低いレベルのミニストリーです。このミニストリーは「この働きは自分のために何か得になることがあるか?」といつも考えています。「欲」は他人のものを自分のものにするのです。金入れの中のお金は貧しい人たちを助けるためのものでした。クリスチャンの歩みを始めて間もないとき、私たちの動機はしばしば自己中心的でした。しかし成長するにつれて、これは変っていきます。神は私たちの未熟さに対しては恵み深くあられます。しかしただ未熟というだけではなく、ユダは偽り者でもあったのです。
ユダはイエスや他の弟子たちと共に生活していたことを考えてください。神に人生をささげ、もっと学び成長したいと真剣だった人びとが周りに沢山いました。彼の自己中心的な欲には弁解の余地がありません。ユダは敵の策略に負け、遂にはサタンが入るまでになったのです。(ルカ22:3)
イエスはマリヤの惜しみなく捧げる愛をかばい、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人びととはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」(ヨハネ12:7−8)と言われました。イエスは弟子たちに、ご自分が死ぬことを数回予告されましたが、彼らには理解できませんでした。マリヤはイエスの死が近いことを悟り、埋葬の日のためにイエスに油を塗ったのです。
マリヤはイエスの足もとにすわったので、主の御心の深い洞察を得ることができました。彼女はイエスが進もうとしておられる道の目的を悟りました。主の深い悲しみと必要をマリヤははっきりと識別したのです。十字架への道は容易いものではありませんでした。高価な香油で主に油をそそぐことのよって、マリヤは主の御こころに直接仕えたのです。
祭司の主要な任務は、神の御こころに仕えることです。ツアドクの子孫たちはこの任務を与えられました。(エゼキエル40:46、44:15、48:11)しかし、私たちは皆、祭司として召されているのです。(1ペテロ2:5、黙示録1:6)人間の必要に対して仕える人は、簡単にバーンアウト(燃え尽き)してしまう可能性があります。人びとの必要は広大であり、その仕事は大変骨が折れることだからです。神の御こころに仕える秘訣を学んだものは、超自然的に支えられます。
人間の必要に仕えて、神のこころに仕えることをおろそかにする者たちは、敵の策略に落ちやすくなります。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスが最も苦しんでおられる時に寝てしまったのはそれが原因です。(マタイ26:36−46、マルコ14:32−42)
マリヤは神の御こころに仕えることによって霊的空気を変えました。霊の激しい衝突を生み出しました。この衝突はマリヤをひどく傷つけたかもしれません。しかし、イエスは彼女をかばいました。マリヤは主との親密さによってこの衝突の衝撃から、まるで繭の中にいるように守られたのです。12弟子はイエスと共に歩き、しるしや不思議を行う権威を与えられました。マリヤはイエスの足もとにすわりました。
私たちは「しるしや不思議を行うこと」と「イエスの足もとにすわること」のどちらかを選ぶ必要はありません。私たちはどちらにも召されているのです。マリヤは終末の時代のための預言的モデルです。そしてマリヤの預言的モデルによってもたらされるしるしと不思議は、弟子たちが当時行ったしるしと不思議を優に越えるでしょう。神は多くのベタニヤのマリアのような者たちを今の時代に召し出されているのです。あなたはそのお一人でしょうか?(終り)