偽りのへりくだり マーク・ディジーザス 2017年8月15日
偽りのへりくだり
マーク・ディジーザス
真のへりくだりは霊的成長へのハイウェイですが、残念ながら多くの偽物が横行しています。実際のところ、偽りのへりくだりがあまりに多いので、それがあたかも真のへりくだりであるかのような誤解を生み、間違ったお手本になってしまっています。
真のへりくだりは、自分ででっち上げることができるようなものではありません。それは神との関係の人生上のプロセスを通して養われていくものです。人生の経験を通して養われた真のへりくだりは、あなたから自然に輝き出るのです。
真のへりくだりの見本があまりにも少ないので、へりくだりがどのような形で外面に現れるのかを、私たちにわからないことがあります。ほとんどの人は「自分を卑下して否むこと」が霊的でへりくだっているかのように思っているのです。
私たちは往々にして「自分を卑下する人ほど謙虚だ」と考えますが、それは偽りのへりくだりにすぎません。自己否定はへりくだりと何の関係もありません。
宗教的な慣習や文脈を無視した聖書解釈により、人びとは自己否定こそがへりくだりであるという間違った考えを長い間信じこまされてきました。多分これからも真実は隠されつづけることでしょう。
私たちは自分を好きではないことを隠すために、物事を霊的にすり替えて扱うことがよくあります。この機能障害を霊的に見せるためによく用いられる聖書箇所は、ヨハネ3:30です。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ということばは、「人の称賛や励ましを決して受け取らない方法」として用いられてきました。「私ではありません。主がなさったのです。」ということばは、人との本当の交わりを避けるために昔から使われてきたのです。
実は私もその欺瞞にずっと騙されていた一人です。人びとから誉められると、「いやいや、そんなことはありませんよ。」と言って、それが謙虚な姿勢だと思っていました。
「自分が嫌いなので、愛のあるやりとりの中で私は居心地が悪かった」という事実に気がついていませんでした。主の御前にひざまずく時には、自分を卑下すればするほどもっと神からの顧みがあると思いました。自分を打ちのめすことは偉大な霊的行為だとさえ考えていたのです。
自分のこころを直視する勇気
私たちがへりくだりと呼んでいるものは、 実は自己嫌悪や自己否定のなす業であることを認める勇気を私たちは持っているでしょうか?
勿論、この問題を持ち出すと大きな反発が起こります。なぜならば、それは人の心の奥深くにある問題を直視させるからです。自分の中に「自己否定」があることを認めるためには、真にへりくだった心が必要です。例えば他人がその事を本人に示そうしても、ほとんどの場合うまく行きません。本人の自己防御の機能が狂ったように起動するからです。
私たちは皆、プライドと高慢でいっぱいの人物に出会った経験があると思います。その時の嫌な経験から、「自分は高慢になることだけは絶対に避けたい」と思いますが、それが自己否定という落とし穴に落ちる結果となることが多いのです。あなたがもし自分を嫌いであるならば、自分を打ちのめし、それが謙遜だと思っている人に惹き付けられる可能性があります。
自分の破れを隠す言葉
「偽りのへりくだり」は、自分自身を嫌っていることを他人に見破られるのを嫌います。ですから私たちは「自己否定や自己嫌悪」にいろいろな衣を着せて装う技に熟達します。教会の中では聖書のことばを文脈からはずして用いる人たちにその傾向があらわれます。
私たちは心の中で本当はこう思っているのです。「私は誉められると、それにどう対処すればよいかわかりません。あなたから愛を受けると私は気詰まりで居心地がよくありません。ですからそれを拒否しますが、それがあたかも霊的でよいことであるかのように聞こえるような言い方をします。」
有名な牧師がある人を称賛したとき、その人が「私ではありません。主です、主がされたのです。」と言ったときの牧師の応答はとても傑作です。牧師は「まあ、主がされたほどには良くなかったですよ。」と言ったのです。私たちは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とか「私の肉を殺さねばなりません。」と言いますが、それも又、自己卑下や自己否定を繕うことばとして用いられていることがしばしばあるのです。
真のへりくだりが持つ確信
ダビデはゴリアテがイスラエルを侮辱し神を侮っているのを見て怒ります。彼の兄たちは、自信がなく恐れていました。「兄たちの臆病」は「ダビデの確信」と真っ向から向き合わされたのです。兄たちは、自分たちの姿勢が当たり前であり、ダビデの確信は傲慢であると考えました。
ダビデが個人的に築きあげた神と信頼関係は、真のへりくだりをダビデの内に養いました。しかし彼の神への確信を、人は傲慢だと見たのでした。
ダビデの言葉を聞いて、長兄のエリアブの怒りは燃え上がりました。そして「いったいおまえはなぜやってきたのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪いこころがわかっている。戦いを見にやってきたのだろう。」(1サムエル17:28)と怒鳴りつけました。おわかりでしょうか?
自信のない人には、真にへりくだった人が傲慢に見えるのです。
真のへりくだりを持つ人は、自分のうちにおられる神に大いに確信を持つのです。彼らは神の命令に服従し、神と個人的に交わるプロセスを通して得た確信を堅持するのです。彼らは自分を否定したり憎んだりせずに、神が造ってくださった自分という人間に「はい。アーメンです。」と言うのです。彼らは神がうちに働いてくださることに感謝し、人から認められるために自分を誇示する必要を少しも感じません。しかしいざという時には、真にへりくだった者は確信をもって
問題に立ち向かうのです。
兄たちはダビデが高慢で悪い心があると叱責しました。しかしダビデは主にあって確信があったのです。ダビデの神にある確信と信仰は、兄たちの自信の無さや自己否定を露呈しました。兄たちは、ただ敵に降参して負けてしまいたかったのです。ダビデが神に信頼し、神がダビデを強くされたので、彼は敵の挑戦に立ち向かい、その結果彼は巨人を倒した者として永久に知られる者となりました。
私は素晴らしく造られている
ダビデは又、 「私は、素晴らしい神の創造物である」というダイナミックな啓示を受け取り感謝していました。ある日、ダビデは自分が神にどれほど素晴らしく造られているかに気付き、神の偉大さを更に認識したのです。
想像できますか? ダビデは自分自身を鏡で見て、その結果神のご性質を崇めずにはおられなかったのです。詩編139:14に次のように書かれています。
“I will praise you, for I am fearfully and wonderfully made;
marvelous are Your works, and that my soul knows very well”
私はあなたを誉め称えます。私は恐れ多く素晴らしく造られているからです。あなたの御わざは奇しく、私のたましいはそれをよく知っています。(訳者私訳)
彼は「私はあなたを誉め称えます」と言っています。どうしてでしょうか?
「それは私が恐れ多く素晴らしく造られているからです。ですから私はあなたという方に深い敬愛を捧げずにはおられません。」とダビデは言っているのです。どうかこのことをじっと考えてください。ダビデは自分自身の姿を見るとき、創造主をもっと理解し、もっと誉め称える思いになったのです。
私たちは神の似姿に造られました。ですから私たちが自分の姿を見ることによって、創造者の力と創造力を誉め称えるように神は意図されたのです。
あなたが自分の姿を見ることによって神の姿を更に知るようになったのはいつのことでしたか?
ほとんどの人にとって、それは不可能に思われます。なぜならば私たちは自己否定することに馴らされていて、自分を完全に受容していないからです。私たちは自分のいのちをどのように喜び祝ったらいいかわからないのです。それは人からそのようにされたことがないからです。私たちは人を高慢にさせるのを恐れるあまり、互いに誉め合うことをしないのです。
自己否定によって、私たちは 「神の素晴らしい創造物である『自分』を見て神の偉大さを知ることが出来る」ということなど、思いもよらないようにされてしまっているのです。私の回りにいる人たちは、「もし神が私を愛してくださるように自分自身を愛するならば、それは傲慢なのではないか」という恐れを抱いています。彼らは、自己否定は、実のところ「偽りのへりくだり」という衣を着た「霊的プライド」であることを理解していないのです。霊的プライドは神の愛と受容をはねつけます。自己否定は神が差し出す愛と美を拒否し、押し返して、自分が真の祝福に入るのを許しません。
ではどうすればよいのでしょうか。
1.自分を辱め卑下することを「へりくだり」と呼ぶことを止めねばならない
真のへりくだりは、自分という人間に現れている神の偉大さを理解するところから来ます。それによって、畏敬と服従と感謝が生まれます。私も、主によって造られた自分を感謝し喜ぶことを学びました。それは姿形や声に至るまで、私という人間のすべてにおいてです。今まで長い間、私はそのようには生きてきませんでした。
以前は、鏡の前に立つと身体の部分の嫌いなところを全部呪いました。鏡を見たり自分の写真を見るのがとても嫌でした。人から投げかけられたひどい言葉をずっと引きずり、いつも自分の難点や欠点にフォーカスしていました。
2.神が自分をこのように造ってくださったことや、神が自分の人生に与えてくださっているすべてのことを感謝して生きる自己否定から抜け出す道は、私にとって意識的変革のプロセスとなりました。ある日私は、神が人生に置いてくださった沢山の麗しいものを押し返してしまい、その結果、「人生がうまく行かないのはどうしてだろう」と思っていたことに気がつかされました。そして私は自分自身の「最悪の敵」ではなく、「ベストフレンド」になることを学び、これから一生、自分を受容していく決意をする必要がありました。
私は毎日、神が私を用いてくださることに感謝します。私を通して誰かが癒されたり、誰かに悟りが与えられたりする時、私は心から感謝します。何故でしょうか?私は神を見てこう言うのです。「あなたは本当に良いお方です!
私のうちで、又私を通して働いてくださってありがとうございます!
私の人生にあるあなたの愛と慈しみを心から感謝しています!」と。神が造ってくださった「この麗しい私」を、もし自分が拒絶するならば、偉大な神を心から感謝することは出来なかったのです。
自己否定は本質的に、「神に造られた自分を喜び、自分のアイデンティティーにわくわくしながら生きること」をさせません。反対に、「本来の自分を無視し、人から期待されていると思う姿やイメージを作り出す」ために多くの時間を費やしてしまうのです。しかし実際あなたが最も美しくパワフルになれるのは、あなた自身であることなのです。
自分という者を神の創造として愛し大切にするとき、私たちは創造主に称賛を与えているのです。美しい芸術作品を称賛するとき、人はそれを製作した芸術家の才能を称賛しているのです。自分が好きな絵画を見るとき、私は「まあ、なんと美しい画家でしょう!」とは言いません。絵を見ながら私は「なんて素敵な絵でしょう!」と言うのです。
絵の美しさを称賛するのは、即ち私がその画家を称賛していることです。私は画家の才能を認めて称賛しているのです。誰かがピカソの絵を見てその美しさを「これはすばらしい芸術品だ」と称賛するならば、その人は何を称賛しているのでしょうか?ピカソの絵でしょうか。違います。それを描いた人を称賛しているのです。
3.神があなたをパワフルにデザインしたことを喜ぶ
自己否定を打ち破るためには、自分を受容し喜ぶことを学ばねばなりません。それによって全能の創造主に栄誉と賛美を捧げることになるのです。私たちはお互いを喜ぶことを学ばねばなりません。それは神を喜ばせることであり、神の力に更に感謝を捧げることになるからです!
4. あなたに対する神の愛を拒絶するプライドとの契約を破棄する
あなたへの神の愛を拒絶するのは高慢であることを考えてみましょう。
私たちはへりくだって自己否定という高慢を取り去り、自分に対する愛がしっかりと根を下ろすようようにしなければならないと思います。ダビデを通して「私たちは恐れ多く素晴らしく造られている we are fearfully and wonderfully made」と神が言われるのであれば、その御ことばと同意することが私の辿るべき道です。
神は私を愛し、私が自分自身と平安を保つようにデザインしてくださいました。今私たちは、「憎むべき自分の敵」であることをやめて、「ベストフレンド」になることを学ぶべき時なのです。あなたは愛されるように造られ、愛することを愛し、神があなたを愛するように自分を愛するように造られているのです。(終り)
Mark DeJesus has served as an experienced communicator since the
1990s. As a teacher, author, coach and radio host, Mark is deeply
passionate about awakening hearts and equipping people towards
transformational living. His message involves getting to the core
hindrances that contribute to the breakdown of our relationships, our
health and our day-to-day peace. He is well-versed on struggles that
originate within our thoughts. Through his own personal
transformation, Mark is experienced in helping people overcome and
live fruitful lives. He is the author of five books and hundreds of
teachings. He hosts a weekly radio podcast show called “Transformed
You” and blogs at markdejesus.com. His writings have been featured on
sites like charismamag.com.
This article originally appeared at markdejesus.com