翼の上のおもり キャシー・ウオルターズ 2017年8月7日
翼の上のおもり
キャシー・ウオルターズ
聖書は、私たちにすべての重荷(重いもの)をおろすようにと教えています。ビル・ジョンソン師は「信仰は安息するところから来る」と言いました。これは今、とても重要なメッセージだと思います。あまりにも多くのクリスチャンが、未だに肉で奮闘し努力をしていますが、それは必要ではないのです。鷲は翼をばたばたとは動かしはしません。気流に乗って舞い上がるのです!
神はあなたが天の領域にまで舞い上がるようにと招いておられ、そしてそれは簡単なことなのです。
宗教的思考 religious mindsets な考え方は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出すことが、もうお分かりになりましたか?
奮闘、努力、頑張りはあなたを御霊からすばやく逸れさすのです。 聖霊は何かを起こすために奮闘したり頑張ったりはしておられません。
実際のところ、神はあなたにご自分のために働いてほしいとは望んでおられないのです。そうではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し、「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちは明け渡し、主が事をされるのです。あなたが明け渡し、あなたを通して神に働いていただくとき、すばらしことが起ります。ピリピ2:13に「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」とあります。
願いを起こすのも実現されるのも神
人の心を変えることや、 御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人なのです。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を、私は「偽りの責任感」と呼びます。「偽りの責任感」の持つ問題は、それが聞こえがよく道徳的でありうるということです。私たちは「良いと思って」してしまい、「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。
よいクリスチャン、よいミニストリーになろうとする努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たちは誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れるのです。もしあなたが
あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。
「偽りの責任感」を知る
過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか?エヴァン・ロバーツは、1904年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。ウェールズの地は神の栄光で覆われました。酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。
神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって9ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。
しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で誰かを主に応答させることなど出来ないのです。人に何かを強制的にさせることは出来ません。しかしロバーツは(もちろんよいと思ってしたのだと思いますが)
群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。
でも皆さん、ロバーツは聖霊ではなかったのです。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。
ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。
あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。もしそうだとすれば、それはとてつもない責任であり、ひどい重圧となります。それはあなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことです。
聖霊に導かれることが私たちの責任
多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンならばそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、あなた驚かれますか?
実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。
1.御父が「せよ」と言われたことをした
2.御父が「言え」と言われたことを言った
3.御父が「行け」という所に行った
以上です!
ヨハネ11章のラザロの話はこのよい例です。ラザロはイエスの良き友でしたが、ある日彼が死にそうだからベタニヤに来てほしいという知らせが入りました。イエスは度々ラザロの家に泊まったりしたようであり、親しい友人でした。ですからラザロが瀕死の状態であるというのは、重大なことだと言わねばなりません。そう思いませんか?
ラザロが風邪を引いたとかではなくて、死にそうだというのですから。
もし私やあなたがそのような知らせを受けるならば、すぐさま出来るだけ早く走るらくだに乗って行くことでしょう。人びとの必要を満たし、助けるようにと教えられてきたのですから。でもイエスはすぐにはラザロの必要に応答されませんでしたね。主は2日間もその所に留まられたのです。誰かが死にそうな時の2日間というのは、とても長い時間です。
ベタニヤに行くには2日を要しましたから、4日後にイエスが到着した時には、ラザロはすでに死んでいました。人びとが集まっていてイエスを迎えました。彼らは「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と言いました。
この言葉には「責め」が含まれたていたと私は思います。イエスはそこで宗教論争はせずに、墓に行きラザロにむかって叫ばれました。
「ラザロよ。出て来なさい。」とイエスは叫ばれました。するとラザロが墓の中から出て来たのです。イエスがラザロという名を言わなかったならば、すべての死人が生き返ってベタニヤは大混乱したことでしょう。
ラザロを墓から呼び出す前に、イエスが何を言われたかご存知でしょうか?
主は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)と言われました。私たちのミニストリーの目的は神が栄光を受けることです。神の栄光は、私たちがするわざの上には決して顕れません。栄光は神がされることの上に顕れるのです。これが即ち
「私たちが神のために働くのではなく、神ご自身が私たちを通して働けるように自分を神に明け渡すこと」によって起こることです。それがピリピ2:13に書いてある「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」の意味です。
あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つのことを申し上げることができます。私が知っている霊の領域で最もシャープな(鋭い)人たちは、最も軽々としています。重圧 weights =「思い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。(自分で重い責任を感じてする)重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。
ビル・ジョンソン師は、私のメッセージに加えて、こう言われます。「平安は私たちの心と思いを守るものです。不安や恐れは私たちのこころに根を下ろそうとしますが、私たちが平安を守るならば、その平安は私たちの信仰を守ることができます。そして信仰は奮闘努力によっては決してもたらされません。信仰は安息と服従からくるのです。」
常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。
神こそが人の心を変え、 御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方なのです。(終り)