WWGM

Walk With God Ministries

17 7月

健全なクリスチャンの誕生 デイビッド・ポウソン           2017年7月17日


健全なクリスチャンの誕生

 

デイビッド・ポウソン(英国聖書教師)

 

私は聖書を何年も詳しく調べてきましたが、初代教会の人びとがクリスチャンになった方法は、現代の人がクリスチャンになる方法とは全く違うことに気がつきました。そこで、私は聖書に書かれている人びとがどのようにクリスチャンになったかを詳しく調べました。

 

又、牧師として、私は多くの問題を抱えるクリスチャンをカンセリングしてきましたが、彼らの問題は、彼らがどのようにボーンアゲインしたかに起因していることが分かりました。その時聖書の書かれている起こるべきことが起こっていなかったのです。正しくボーンアゲインするならば、人びとが抱えるほとんどの問題は消滅するか、或いは小さくなって自分で解決できるようなものとなることが多いのです。

 

以上のことから、私は「Normal Christian Birthクリスチャンのノーマルな生まれ方」という本を著しました。ウオッチマン・ニーの本に「ノーマル・クリスチャン・ライフ(キリスト者の標準)」というものがありますが、私はその本に非常に影響を受けました。「ノーマル」という言葉はそこから取りましたが、それは「聖書が示す正しい標準」という意味です。ノーマルな誕生と平均的な誕生とは違います。今日の平均的なものは新約聖書が示すノーマルではありません。

 

今宣べられている福音は、水増しされた、人びとに受け入れやすくしているものだと思います。天国に行くための保険のようなものになっています。「あなたがもし今晩死ぬならば、あなたは天国に行きますか?それとも地獄に行きますか?」と人びとに訊くのです。そして「もし地獄に行きたくないのなら、この短い祈りを私について言ってください。・・・言えましたね。はい、これが天国行きの切符です。」というように人を導くのです。

あまりにも多くのクリスチャンが初めに通るべきプロセスを通ってきていないので、「ミニマム・クリスチャン=最小限のクリスチャン」になってしまっています。「天国に行くために最小限しなければならないことは何でしょうか?」というように考えるのです。

 

私はある時、ある助産婦に「赤ちゃんが生まれるときにするべき処置を全部書き出してください。」とお願いしました。「まあ、半ページくらいかな」と思っていましたが、彼女はなんと15ページもタイプしてきたのです。私はとても驚きました。そして大切なことを聞きました。「どの時点で『赤ちゃんが生まれた』と言えるのでしょうか?」と。

 

彼女は「誰もわかりません。いろんな意見があります。ある人は赤ちゃんが母親の身体から出た時だと言い、ある人はへその緒を切って結んだとき、母親から離れて生き始めたときと言います。ある人は産声をあげた時だと言います。」と答えました。

ここで言えることは、「誕生」は一瞬を指すのではなく、プロセスだということです。最後に彼女は「要するに、赤ちゃんに対してなすべき処置をすべてして、健康な赤ちゃんになったときに『生まれた』と言うのです。」と言いました。

 

クリスチャンになるために4つ段階

 

私の理解によれば、クリスチャンになる条件は4つあります。

1.神に対して悔い改める

2.イエスを信じる

3.水のバプテスマを受ける

4.聖霊を受ける

 

1.まず「神に対する悔い改め」から話しましょう。

 

これが欠けていることが多いのですが、最も重要なことです。「悔い改め repent」は「後悔 regret」や「自責の念remorse」とは全く違います。私たちは、自分にしてしまったことを後悔するかもしれません。他の人にしてしまったことに自責の念を持つかもしれません。けれども「悔い改め」は私たちが神に対してしてしまったことに対する思いであり、それを心から認識することです。「repent 悔い改め」という言葉は「考え直す」という意味であり、即ち、自分の人生を考え直す、神の視点から自分の人生を考え直すということです。そして、神の視点から自分がどれほど間違っていたかを考えるのです。自分の視点では、あなたは十分に良い人間であり、人生に成功していると見えるかもしれません。でも神の視点で、神があなたに持っておられる計画や目的からどれほどずれているかを見るのです。

一つの例として、イエスがよく言及された罪があります。それは「心配 ・思いわずらい」です。

それが罪だと考える人はほとんどいないのですが、イエスは、それは天の父に対する侮辱であると強い口調で語っておられます。もし私の子どもの学校の校長から、「あなたのお子さんは食べ物や着る物が十分あるだろうかとすごく心配するあまり、勉強が手につかないようです。」という手紙をもらったとしたらどうでしょう。私は「えっ、私の子どもがそんな事を言っているんですか!

何て事でしょう!」と驚くでしょう。それは親の私に恥辱を与えることです。私がちゃんと必要なものを与えない親なので、子どもが不安だというのですから。

 

もし「神が面倒をみてくれないから心配だ。」というならば、私たちはその子どもと同じだとイエスは言われます。神を信頼するならば、あなたは心配しません。心配しているならあなたは神を信頼していません。単純なことです。ですから「思いわずらい」は重大な問題なのです。しかしあなたが悔い改め、考え直すならば、突然「私は神を疑ったりして、神の心を何と傷つけていたのだろう。」とわかるのです。悔い改めは、あなたの考え方から始まるのです。考えを変えて、神の視点から物を見て、自分の人生を神が見られるように見るーーその時初めてあなたは「自分は罪人です。」と言うでしょう。

 

悔い改めの次の段階は、一つひとつの罪を告白することです。例えば、「私は今までいろいろと思いわずらってきました。それがあなたを傷つけていたことがやっとわかりました。」と神に申し上げるのです。

罪の告白は「すべての罪をお赦しください。」というようなおおまかなものではいけません。それは何の役にもたちません。聖書の中の悔い改めは、それがどの罪に対する悔い改めなのかを常に明確に表しています。

 

悔い改めが真実であるならば、次にそれは行動に表れなければなりません。例えば、「悪いと分かったことをやめる」とか、「借金を返す」とか「よくない関係を断ち切る」とかであり、「正しくできるものを正しくする」ことです。ルカ3章でバプテスマのヨハネは、取税人には「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」といい、兵士には「誰からも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と具体的に示しています。

一つの例をお話しましょう。ある時、いかつい格好をした若者がモーターバイクでやってきて、私と話をしたいと言いました。そして洗礼を受けたいというので、私は「悔い改めとは何か知っていますか?」と訊きました。彼は知らないというので、私は「では家に帰って、イエスに『私の生活の中であなたが嫌いなことがありますか?』と尋ねてください。そしてイエスが示されることがあれば、それを止めてください。」と言いました。3週間後に彼はまたやってきて、私に「ほら!」と言って彼の両手を見せました。

そして「爪を咬むのをやめたよ!」と言ったのです。私は「そうか。じゃ洗礼式をしよう。」と言いました。聖書はそれを「悔い改めにふさわしい実」と呼んでいます。彼のとった行動は、彼がイエスの視点で物事を考え、悔い改め、それに従って行動したことを証明したのです。それで私は彼に洗礼を授けました。

 

勿論、悔い改めがそれで終りということではありません。それは悔い改めのプロセスの始まりと言ってもよいでしょう。クリスチャンの人生は悔い改めの人生です。それはイエスに近づけば近づくほど、自分の汚れをもっと感じるからです。けれども正しい悔い改めをもって始める事がとても重要なのです。

 

バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから。」と述べました。イエスが宣教を始めたときも「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。ペテロがペンテコステの日に説教をした時も、彼の最初の言葉は「悔い改めなさい。」でした。常に「あなたの人生を神の視点から考え直しなさい。そしてあなたが心から自分の個々の罪から救われたいのか考えなさい。」という言葉から始まるのです。「救われる」といっても「何から救われたいのか」が分からなければ意味がありません。それはただのむなしい言葉になってしまいます。イエスは私たちを個々の罪から救うために来てくださったのであり、私たちは本気で罪を捨てる気持がなければなりません。

 

往々にして人びとは「イエスを信じるにはどうすればよいのか」は教えられますが、「どのように悔い改めをするか」を導かれていないのです。イエスが嫌われることを辞める/捨てることなしに、クリスチャンになってしまうのです。クリスチャンが最初に悔い改めから始めないならば、その出発は常に大きな荷物を負って生活することになるのです。生まれたときにへその緒が切られていないようなものです。ある意味でサタンの王国にまだ繋がっているのです。

 

2.イエスを信じること。

 

(1)先ず、事実を信じなければなりません。信仰は感情的なものではなく、歴史上起こったある事柄を信じることです。即ち、「イエスが生まれ、自分は神の子だと言われ、それ故に殺され、神が3日後によみがえらされた。天に戻られ、今も私たちのために祈っておられる」という出来事が真実であることを信じるのです。

(2)次にイエスを信じねばなりません。これはBelieve Jesus ではなくてBelieve in Jesus でなければなりません。イエスが神の子であると信じるだけでは、あなたの毎日の生活は全く変わりません。イエスに真に信頼している証しがなければなりません。例えば、私を本当に信じる人は(believe in me) 私の運転する車に安心して乗るでしょう。私にお金を安心して託すでしょう。

私が先ごろ手術を受けたとき、私はその医師を信頼して契約書に署名をしました。医師の持つ手術の能力を信じるだけではなく、自分の身体を託すほどに信じるのです。それはリスクを伴うことであり、あなたが本当にその人を信じているかどうかを証明することです。「私は信者です。私はクリスチャンです。」というだけでは、何の意味もありません。教会に来て使徒信条を唱えるだけで、主を信じる行動の証しがない人が沢山います。信仰は行動で表れるのです。

 

3.次に水のバプテスマについて話したいと思います。

 

旧約聖書にはバプテスマのことは書かれていません。祭司や民には定められた清めの儀式はありましたが、バプテスマはバプテスマのヨハネから始まりました。そしてイエスも人びとにバプテスマを受けるように教えられ、使徒たちもそれを教え実行しました。当時は今よりもバプテスマの意味が重視されていました。新約聖書にはバプテスマに関する箇所が31あります。私はメソジストの牧師でしたので、当初幼児洗礼を授けていました。しかし聖書を詳しく学んだとき、「自分は一体何をしていたのだろうか」と思いました。それ以来幼児洗礼はしなくなりました。一番の理由はバプテスマの本当の意味を幼児に当てはめることができなかったからです。

バプテスマは「清め」と「古い自分の埋葬」を意味します。ですから滴礼ではなく、浸礼が本来の姿です。

ある時、サタンの入れ墨のある人が洗礼を受けたいと思いましたが、シャツが水にぬれるとその入れ墨が透けて見えるのでどうしようか、と戸惑っていました。整形外科に言って相談しましたが、焼き切るとひどい傷になるし、皮膚の移植は非常に費用がかかり、保険が効かないと言われました。彼は思い切ってそのままで洗礼を受けることにし、スイミング・プールで洗礼を受けることにしました。

多くのクリスチャンがプールのまわりに集りました。彼が洗礼を受けて水からあがると、サタンの入れ墨は消えてなくなっていたのです!このすばらしい出来事は、バプテスマの意味をよく示しています。過去を洗い去り、公に死んだ古い自分のお葬式をするのです。それはただの象徴ではなく、実際に霊的にすばらしいことを神がしてくださり、私たちに新たな出発をさせてくださるのです。

 

イエスはバプテスマを強調されました。「すべての国の人びとを弟子にしてバプテスマを授けよ」と言われました。ペテロは最初の説教で「悔い改めなさい。そしてそれぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。まず悔い改めをし、バプテスマで清められ古い自分に死んだときに、私たちは救われるのです。バプテスマの持つ深くて重大な意味を知らされることによって、その人は本当に新しい出発ができるのです。サタンに対して「おまえは私の葬式を見ただろう。おまえは最早私に対する何の権威もない。」と言うことができるのです。これはロ—マ6章に詳しく書かれています。

バプテスマは全身を清めるものです。しかし、この汚れた世を歩いたときに足が汚れるので毎日足を洗う必要があります。しかしバプテスマはもう必要ではありません。それは一度でよいのです。

 

4.次に聖霊を受けることをお話ししましょう。

 

聖霊を受けると、聖霊が次のことをしてくださいます。

 

(1)一つは聖霊の助けなしには決して出来ないことをさせてくださるのが聖霊の賜物です。

それは知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇蹟、預言、霊の見分け、異言、異言の解き明かしです。御霊の賜物は教会を建て上げ伝道するために必要です。人びとは福音を聞くだけではなく、見る必要があるからです。神は御ことばを目に見えるしるしでそれが真実であることを確証したいと願っておられます。

 

(2)二つ目は、御霊の実と呼ばれ、これは9つの味がする果物です。一つの果実ですが9つの味がするのです。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。最初の3つは神とのよい関係、次の3つは人びととのよい関係、最後の3つは自分とのよい関係を示します。それはすばらしい実であり、実にイエスの御性質そのものです。これは能力ではなく、性質です。この9つはクリスチャンの人生に同時に表れます。9つのうち2、3の性質を生まれつき備えている人はいます。とても寛容な人とか、とても親切な人とかはおります。しかし、この9つすべての性格を兼ね備えている人は聖霊を受けた人にしかおりません。9つの味のするこの実は、最初はつぼみとして現れ、次に花、そして小さな実となり、長い期間かかって大きくなり成熟するのです。成熟したクリスチャンは、成熟した実になっています。

 

(3)以上が聖霊が個人に対してしてくださることですが、それだけではありません。聖霊はあなたを神のコミュニティーに溶け込ませてくれます。神は個人ではなく、家族を持つことを望まれていますが、私たちは個々に異なる性格を持ち、考え方も違います。異なる人びとを一緒にして家族にしようと思っても無理です。しかし聖霊は「御霊の交わり」をつくり出してくださるのです。あなたの内におられる聖霊と同じ霊を持つ人と出会うとき、一瞬にして親密な一致を感じます。私は世界中で、そのような経験をしています。肌の色や教派が違っても、両者の中におられる聖霊が二人を引き寄せているのがわかるのです。

そのように同じ御霊を持つ人びとは集められてキリストのからだという麗しい集合体となるのです。御霊なしに教会を一致させようとするならば、それは失敗に終ります。一致は人間の努力では達成できないからです。聖霊だけがキリストのからだを一つにできるのです。

 

(4)それではどのように聖霊を受ければいいのでしょうか。

イエスはルカ11:11で「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょうか。」と言われました。ですから第一に「天の父に求めるask Him」ことが大切です。ここで「求める」というギリシャ語は一度だけではなく「得られるまで求め続ける」ことを表す時制です。

ルカ11:5−8で、イエスは真夜中に尋ねて来た旅人のために友人にパンを求める人の喩え話をしておられます。彼はパンをもらえるまで頼み続けました。この人は自分のためではなく、旅人のためにパンを頼んだことに注意してください。聖霊は自分のためではなく、人に仕えるために頂くものです。

 

「聖霊がなくては、私は何一つできない。」と心から悟るならば、必死で聖霊を求める思いが与えられるのです。そして9節にあるように「求めなさい。(求め続けなさい。)そうすれば与えられます。」という約束が私たちにはあるのです。(終り)


Post a Comment