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27 6月

神の愛の奥義         ショーン・ボルツ            2017年6月27日


神の愛の奥義

 

ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)

 

もしも神の愛の奥義の見本を見たいのであれば、私たちはイエスを見ればよいのです。御父が世の初めから人びとに対して持っておられた愛の御こころを、イエスほど深く知っていた方はありませんでした。イエスは、当時律法で交わることを禁じられていた人々とも交わりを持たれました。

その中の一人にヨハネ4章のサマリヤの女があります。主は彼女に話しかけて水をくださいと頼みました。そして二人は驚くべき会話を交わし始めたのです。主はその女の人生の詳細を告げたので、彼女は驚嘆しました。

 

ここで私が衝撃を受けることがあります。それは、彼女がそれまで何人もの夫を持ち、何人もの男性と関係したにも拘わらず、主が彼女の中に価値を見出したことです。しかも彼女は現在夫ではない男と住んでいました。その上、彼女はサマリヤ人で、ユダヤ人が言葉を交わすことは律法で禁じられていました。

 

主は時間をさいて話しかけるほどに彼女に価値を見出し、そのような目で彼女を見たのです。主は彼女のよくない行状を明らかにしましたが、その話し方は憐れみと愛に満ちていたので、彼女はイエスを信じ受け入れました。彼女が町にもどって「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいます。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:39−41)と証言したのは、自分が主から裁かれたのではなく、愛されたという確信があったからです。イエスがサマリヤの女にこのように接したことは驚嘆に値します。

 

コロサイ1:15は、イエスを見るならば、神が被造物すべてに対してもともと意図されたかたちを見ることが出来る、と言っています。ですからイエスは実にすばらしい特別な方であることは明らかです。イエスがご自分のまわりの世界をどのように見られるか、どのように取り扱われるかは非常に特別で、それは実に私たちに対するお手本となります。

イエスはまわりの人々を見て、「わたしの父はあなたのために天に家を建てています。」と言われました。神は、神と共にいることを選びとる人々のために、天の家までも既に計画されている愛に満ちたお方なのです。

 

ですから私たちの心の中にはこのような愛の思い、愛の精神がなければなりません。神の愛の奥義はまず私たちの心の中からスタートします。神の愛の奥義は私たちの内にあり、それが私たちと「この地に対する神の元々の目的と計画」とを結びつけるのです。アダムとエバがエデンの園を去ったとき、神は回復の計画をもたれていましたが、その計画はイエスにおいて現実となって現れました。

 

そのご計画は、地上に神の王国を回復することだけにとどまりませんでした。イエスは人類を愛し、私たちをヨハネ10:10にある真実に「そうか、わかった!」と応答する瞬間へと呼び戻し、真に豊かな人生へと招いてくださったのです。それは即ち、神が私たちに与えてくださった元々の目的に生きる人生です。

 

主は何の資格もない弟子たちを、全教会を建て上げていくための土台となる価値がすでに100%あるかのように取り扱われました。主は弟子たちのうちに何か特別なものを見られたのです。他の誰も見なかったものを見られたのです。主は、教養もない平凡な者たちを、特別な愛と信念を持って取り扱うことにより、

リーダーとして建て上げたのです。その結果弟子たちは歴史上最も偉大なリーダーの数に入る者に成長しました。イエスはこのような方でした。そして私たちもそのような者であるべきなのです。それは人びとの内側に金を見出すのです。

 

私たちは「この人は神の御こころの中ではどのような人なのだろうか?」を見なければなりません。「神は世の初めから彼をどのような人として考えておられたのか?」を思い、「彼の誕生日、結婚相手、 選ぶ職業、その人の永遠を見ておられた神は、彼をどのような人として考えておられたのだろうか?」と。

もし神が今地上におられたら、神は彼をどのように見られ、どのように取り扱われただろうか?」と考えてみるのです。

 

ですから預言とは霊の賜物である以前に、私たちが人びとをどのように取り扱うかということを知ることであり、人びとを神の永遠の光に照らして見ることを選び取ることです。

 

ここで一つの経験をお話ししたいと思います。

あるコンベンションのために私はホノルルに行きましたが、ある人が、「ホテルに泊まらずに自分の持っているマンションを是非使ってください」と言ってくれました。一つだけ問題があり、それはマンションがホノルルのいかがわしい場所に隣接していることでした。

 

私は夜の10時頃、よくサンドイッチを買うために街に出ました。ある夜歩いていると、一人の若者が「お兄さん、何か入り用はないかい?」と言って私を止めました。彼はドラッグとか売春のことを言っていたのです。私は「いや、何もいらないよ。サンドイッチを買いに行くところだよ。」と言いました。すると彼は「本当かい?ドラッグはどうだい?」と言うので、私はいらないと答えました。

彼は「女の子はどうだい?」と言って、階段にいる女の子を指差しました。女の子は10代の男の子二人と一緒でした。(その時彼女は16歳でした。)私は「いいや、女の子はいらないけど、彼女とちょっと話をするよ。」と言いました。

 

私は彼女のそばに行き、「一緒にしたいことがあるんだけど..ちょっと変に聞こえるかもしれないけどね..私はクリスチャンで、神様が計画された人生の目的があなたにあると信じているんだよ。あなたは何のために生まれてきたか知ってる?自分がどういう者であるかを知ってる?」と訊きました。彼女は「知らないわ。」と答えました。私は「何をして生きていきたいと思う?」と聞くと、彼女はまた。「知らない。」と言いました。

 

私は「わかった。じゃあ、私の信仰をちょっと借りてみてよ。そして一緒に祈って、私が神様にあなたに代わって質問をするよ、すると神様はきっと答えてくれるよ。いいね?」と言いました。彼女は街の通りで目を閉じることを少しためらいましたが、私のことばに従って私と一緒に目を閉じました。私は「神様、私が生まれる何百万年も前にあなたが私のために考えた人生の目的はなんでしょうか?」と祈りました。

 

すると彼女は「アッ」と声を上げました。彼女はすぐ心に何かを聞いたのです。

それは「あなたはコックになることになっています。」という言葉でした。私は「あなたは料理するのが好きですか?」と尋ねました。彼女は「そう思うわ。」と答えました。私は「すごいね。本当に素晴らしい。あなたが人生に成功することが一つ分かったんだね。何から始めればいいか神様に訊いてみようよ。」と言って、「神様、わかりました。コックになるために2週間のうちに私は何をすればいいのですか?」と祈りました。

すると彼女は又「アッ」と言ったので、一緒にいた若者たちも「何?何?」と訊きました。彼らも興奮してきたのです。彼女は次のように言いました。「私の叔父さんに電話をするように言われたの。私のお母さんと叔父さんはずっと仲違いをしていて、私が家出をしてから家族や親戚に連絡したことは一度もないわ。だから私が叔父さんに電話をしたら、きっと来てもいいって言ってくれると思うの。それに叔父さんはレストランをしているから、私を雇ってくれると思うわ。」

私は「本当にすごいね。これは神様だね。神様はあなたを愛しておられるんだよ。神様はあなたが今の生活から抜け出す計画を与えてくださっているんだ。それはあなたをすごく愛しておられるからなんだよ。叔父さんに電話をすると約束してくれる?」と聞くと、彼女は「ええ。」と答えました。私は私の電話番号を渡して、彼女が叔父さんに今週電話したら、私に報告してくれるように頼みました。

 

 

彼女は翌日叔父さんに電話をしました。叔父さんは熱心なクリスチャンでイエスを愛していました。彼が女の子のお母さんと仲違いをした理由は、お母さんがキリスト教や宗教を非常に嫌っていたからでした。女の子は叔父さん夫婦と住むようになり、レストランで働き始めました。

 

8、9ヶ月経って、彼女が電話をしてきました。「信じられないと思うけどね、叔父さんが新しいレストランを開くことになって、その権利の50%を私に持たせてくれるの!」そしてそれは丁度彼女が復帰した高校から卒業する時でした。

 

神は彼女を街から信仰へと救い出して下さっただけではなく、神がご計画された召しへと導いて下さったのです。私たちは、たとえ召された道からはずれたとしても、神は私たちが相続を取り戻す機会をいつも待ち望んでおられます。ご自分の愛と人生の元々の目的を私たちに話したいと、うずうずしておられるのです。

 

私たちが人のために神の声を聞くことを学ぶならば、たとえそれが預言の言葉にならなくてもよいのです。ホノルルの女の子は自分で神から聞いたのです。神は、私たちが人びとを見るときに彼らの持つ真の価値を見るように教えたいと願っておられるのです。女の子は街の売春婦に堕ちていったかもしれませんでした。しかし神は違う道に導いて下さいました。

 

皆さん、イエスがこの世に来られたのは、御父が初めに夢見られた豊かな人生を私たちに与えるためです。それはヨハネ3:16に書かれています。そして3:17にあるように、神はこの世がどれほど悪いかを指摘し糾弾するためではなく、この世を助け、回復させるためにイエスを送られたのです。

 

今、あなたの人生を考えてください。神との関係において真の自分として生きていない部分があるかもしれません。自分をまだ神の御こころに照らし合わせては見ていないかもしれません。神はあなたを神の元々の計画と目的に回復させるためにイエスを送られたのです。

 

多くの人は私に「もうあまりにも離れ過ぎてしまいました」とか、「もうそんな時間はありません」とか、「もう年寄り過ぎます」とか、「もう機会を失いました」とか言います。「神の元々の計画と目的に回復できる道など本当にあるのでしょうか?」と訝しく思うのです。

でも真実はこれです。イエスはご自分が召された課題すべてを遂行するのに3年半しかかからなかったのです。もしあなたの人生に3年半が残されているならば、あなたには十分な時間があるのです。今これを見ている人のほとんどが「まさにこれは自分のことだ」と感じていると思います。神の御こころの中にはあなたへの愛があり、そこから神の恵みがあなたに注がれ、その恵みはあなたを変える力があるのです。そしてその恵みは神があなたに最初に願った姿へとあなたを変えて行くのです。

 

キリスト教は、あなたが麻薬中毒者であったとしても、回心すれば神にあって完全に充実した豊かな人生を送ることを可能にする唯一の宗教です。私は全くどうしようもないような過去をもつビジネスマンたちに出会って来ました。

彼らの人生は回心により突然変革され、彼らの人生から神ご自身が輝き出るようになったのです。

 

第一コリント1:26〜31は私の好きな箇所の一つですが、私たちの持つ資格について書かれています。神があなたを選んだのは、あなたが最も優れているとか、最も偉大であるとか、よい家柄であるとかいう理由ではありませんでした。神はこの世の強い者たちを辱めるために、最も弱い者たちを選ばれたのです。

 

 マタイ5:14にあるように、神はあなたを一番高い丘に置いてそこで輝かせたいのです。それはあなたが現在どこにいるかは問題ではありません。この聖書箇所は、イエスが全く何の資格もない者たちに向かって話しているところです。イエスは、彼らが神の愛の中で成長して行き、神が元々計画されていた姿になるようにされました。イエスは彼らが既に御父が当初からご計画された者であるかのように、取り扱われたのです。これが神の愛の奥義です。弟子たちは、神が計画されていた「なるべき姿そのもの」になったのです。

 

私たちクリスチャンもこのようでなければなりません。私たちは御父のこころの中にある偉大なる愛の奥義に従って、お互いを「イエスにふさわしい者」として取り扱わねばなりません。私たちは皆、イエスが十字架で支払ったすべての代価に値するふさわしい者だからです。そしてお互いをそのように取り扱うとき、それは即、預言となるのです。なぜならば、それは人をアップグレイドされた姿で見て、お互いを人生のゴールで、手にトロフィーを持った姿で見るからです。

 

私たちは互いの資格が今よりもずっとあるかのごとく振る舞いはじめます。今の姿と未来の姿とのギャップは、信仰で埋めるのです。未来の姿にふさわしい者としてお互いを取り扱うならば、私たちはイエスの御名を高く上げることになります。なぜならば、それによって私たちは神がリアルなお方であり、神の愛がすばらしいことを世に現すことができるからです。(終り)


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