恵みの御座に近づく リック・ジョイナー 2017年6月13日
恵みの御座に近づく
リック・ジョイナー(モーニングスター・ミニストリーズ)
ヘブル4:14−16
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
神の御座は威厳に満ちた神聖な場所ですが、私たちには、ご自分には罪が無いにもかかわらず私たちの弱さに同情してくださるイエスという大祭司がおられます。イエスが十字架につかれて私たちの罪の代価を支払われたのは、私たちをその罪に定めるためではありませんでした。主は私たちが神と和解できるように十字架についてくださったのです。ですから私たちは必要な時はいつでも神の荘厳な御座の前に進み出るならば恵みを受けるであろうと言われているのです。
もし「福音」に何か欠点があるとすれば、それは福音があまりにもすばらしくて本当とは思われないことでしょう。恐れ多い万能の神が、このように親切で、情け深く、優しいことがどうしてあり得るのでしょうか?
神はあまりにも善き方、すばらしい方であるので、私たちがそれを理解し受け取るのは難しく、通常、少し時間がかかるものです。神の赦しを受けるのがそれほど簡単であり、しかも受けるために私たちがすることは何もないことを理解するのは難しいのです。私たちの完全な赦しのための代価はすでに支払われたのであり、もしまだ私たちが何か支払わねばならないと思うならば、それはイエスの生け贄が十分ではなかったと言うことになります。
多くの人が「神の憐れみは受けたいが、神の裁きはいらない」と言います。しかしながら、神の憐れみは、神の裁きがある故に確固たるものとなるのです。つまり、神の裁きにより罪の結果は死であると確立され、そしてイエスは、死ぬべき罪は無かったにもかかわらず、私たちの罪の代価として私たちに代わって死なれたのです。もし私たちが自分の罪のためにまだ何か支払う必要があるというならば、それは不当なことであり、御父がイエスの生け贄を十分なものとして受け入れなかったことになります。
ですから、私たちは罪を犯したときも、正しく歩んでいた時と同じように神の御座の前に大胆に進むことができるのです。自分自身の義ではなく、イエスの血潮と主の代価によって御前に進むのです。私たちがイエスの義の衣をまとって御座の前に行くとき、御父が見られるのはイエスの義だけであり、私たちは、それが良い日であっても悪い日であっても、神の目には完全に清い者として映るのです。
主の御前に進み出る力は、自分がどれほどうまくやったかに基づくのではなく、「イエスの十字架は私たちの罪や過ちを覆うのに十分である」という単純な信仰によるのです。私たちが大胆になれるのは、イエスが達成されたことによるのであり、自分が何をしたか、しなかったかによるのではありません。主の臨在の前に行くために自分が完全になるのを待つ必要はなく、主の臨在によって私たちは完全にされるのです。
イエスが水の上を歩いているのをペテロが見て、舟をおりて主と共に水の上を歩いた時、イエスから目を離さない間だけそれが出来ました。波を見た途端、ペテロは沈み始めました。私たちも、自分の古い罪の性質(罪の世界で生きている結果のすべて)の絶え間ない葛藤の中で、それと同じことをするのです。私たちがイエスに目を注いでいる間は、自分の古い性質や人生の試煉という波の上を歩くことができます。もし私たちが葛藤(波)に焦点をあて始めるならば、沈むのです。
ですから私たちは御座の部屋に傲慢な態度でずかずかと入って行くのではなく、感謝のこころで入るのです。私たちは「感謝しつつ主の門に(詩編100:4)」入るのです。このような偉大な憐れみと偉大な恵みに感謝しないでおられるでしょうか?
大胆なへりくだりは、主と主がしてくださったことに対して大胆になることです。私たちの大胆さは、私たちの主への信仰を反映するものです。
次に黙示録に書かれている御座について考えてみましょう。
黙示録5:1−5
また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
イエスの他には天にも地にも開くにふさわしい者がいなかったというこの巻き物は何なのでしょうか? 七つの封印とは何でしょうか?
ヨハネが神の御座の前で起こったこの重要な出来事の場に何故いたのか、そして何故イエスだけが巻き物を解くことができたのかを理解する必要があります。
ヨハネはこのヴィジョンの中では預言者という立場だけではなく、とりなし手でもありました。詩編115:16に「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」とあります。主は私たちの必要を私たちよりよくご存知です。しかし、主は地に対する権威を人類に委任されたので、私たちが願わなければ地のことはされません。それでヨハネはここでとりなし手の役割をし、巻き物を開く者がないので泣いていたのです。地を代表するものが巻き物を開きたいと願わねばならなかったのです。そして巻き物を開くにふさわしい者、即ちユダ族のしし、ダビデの根、イエス、がいるという啓示が与えられます。
私はある時、霊で御座の前に上げられ、私の友人に対して向けられた主の怒りを目の当たりにしました。主は彼が重大な罪を犯しているにもかかわらず悔い改めないので、彼の命を取ると言われました。私は主にもう一度チャンスを下さるように懇願し、主はそれを聞き届けてくださいました。
私はその友人をとりなすためにこの経験を与えられたことは分かりました。しかし、とりなしは祈り以上のものです。私は彼の人生がどのような罪に捕われているのかを見つけようと決意しました。それはすぐに判明し、そこから彼の回復への長い道のりが始まったのです。
人生の一番の目的は主の祭司となることです。これは新約のクリスチャンへの召しです。もしヴィジョンで、又は実際に何かを見せられたならば、その啓示の目的はとりなしのためであることがほとんどでしょう。とりなしは、落ち込んだ罪の罠から人々を助け上げたり、落ち込まないようにして、問題の解決のために実際に手助けをすることもあるのです。
私の経験では、人を罪の中から救ったり罪に堕ちないように助けようとして成功した時よりも失敗した方が多かったように思えます。このことで私が落胆していた時に、主が主の記録を見るようにと促されました。主はすべての人のために死なれたのに、多くの人はその救いを受けないで罪の中に留まっているようでした。これは「失敗」のように見えるかもしれませんが、今は理解できない多くのことは、これからの時代に解決していくのです。ですから主が私たちに求めておられるのは従順であり、成功したかどうかは主だけが本当に知っておられるのです。
ハイディ・ベイカー師は、今最も偉大な宣教師の一人だと思います。彼女はチョクトウ・インディアン居留地での伝道集会において回心したのですが、その集会での回心者は彼女唯一人でした。当然ながらその時の伝道者は、「今日主に出会ったのは15歳の女の子1人だけだ、この伝道集会は情けない失敗であった」と感じたことでしょう。しかしながらその一つの回心の故に、数えきれない人々が主のもとにきて、ハイディの人生から大きな影響を受けたのです。
使徒パウロのことを考えてみてください。彼は主の死と同じ姿になることを祈りました。そして主と同じように死にました。彼の友人のほとんど全ては去っていき、人生を捧げて建て上げた教会のほとんどが背教に陥ったのです。彼の死刑が執行された日、彼は「自分は主のために何か成し遂げたことがあるのだろうか」と思ったかもしれません。しかし、彼の幾つかの書簡を通して、彼はいまも永遠の命の実を集め続けていることでしょう。それはその後に起こったすべてのミニストリーよりも多くの実なのです。
自分の人生がどれほどの実を結んだかを、生きているうちに判断することはほとんどできません。私たちの目標は、ただ主に従順であるということでなければならないのです。(終り)