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Walk With God Ministries

16 5月

イエスの癒しの鍵     ビル・ジョンソン            2017年5月16日


イエスの癒しの鍵

 

ビル・ジョンソン

 

 

 神の声を聞くことを学び、聞いた通りに従うことは、喜びでありわくわくすることですが、そのためにはいつも緊張している必要があると言わねばなりません。ある時私がテネシー州ナッシュビルの郊外にあるグレイスセンタ−というすばらしい教会にいたときのことですが、一人の女性が祈ってほしいと言ってきました。彼女は全身のリューマチ性関節炎で苦しんでいました。そこで私は早速彼女のために祈ろうとすると、「祈るべきではない」という思いが私の心にきたのです。何かが常とは違っていました。イエスが彼女を癒すご計画だということはわかりましたが、もし私が祈ったり手を置いたりするならば、神の働きを邪魔するような気がしたのです。イエスがスロ・フェニキヤの女に「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました(マルコ7:29)」と言われたように「癒しの宣言」をすることさえも、神は私に許可されていないことがわかりました。

この時の女性の癒しの経験は私にとって「聖霊道場」となりました。彼女が周りに気が散らないように、目を閉じるようにと私はお願いしました。彼女はその通りにしました。すると私の首の後ろに、かすかではありましたがはっきりと熱を感じたのです。熱い油がゆっくり流れていく感覚があったので、彼女に「油注ぎがあなたの首の後ろを流れて行きます。」と告げました。彼女はそれを感じたと答えました。私は油の流れが首の付け根に達するのを感じたので、彼女に「首は癒されたはずです。」と告げました。彼女が首をいろいろ動かしてみたところ、以前感じていた痛みはなく、癒されていることが分かりました。

 

その瞬間、神が何をしておられるのかを私は悟りました。私はスポーツの実況放送のように、起こっていることをただそのまま伝えるアナウンサーの役をしていたのでした。神は私の身体に感覚を与えることによって、彼女の身体に起こっている癒しを描写する役目を私にくださったのです。神は、癒しが私の祈り、宣言、按手などによって私を通して流れ出るのではなく、ご自分で直接に彼女を癒したかったのです。癒すのは常に神であると理解するのは私たちにとって非常に大切です。

熱いオイルは下に流れ続け、彼女の足の指のつま先まで癒しが達し、身体全体が完全に癒されたことを私たちは感謝しました。この癒しは誰ひとり彼女のために祈ることなしに起りました。「知識の言葉」を与えられて神がその時に癒される病気を人々に知らせたり、又奇蹟が起こるように誰かに手をおいて祈ったりして神に用いられることは大変うれしいことです。しかし私が一番好むのは、私自身は何もしないで、ただ神がされることを見て喜ぶことです。

 

多くのことは、既に私たちの握中にあるのです。それにもかかわらず私たちは、既に神からいただいているものを祈り、それを実現させようと自分で努力する傾向があります。そして多くの場合、神が既に決めておられるにもかかわらず、それを「してください」と頼むのです。それは、ランディー・クラーク師が言うように「神に癒しを乞い願うことは、あたかも神よりもあなたの方がもっと憐れみ深いとでも思うことと同じ」なのです。神は人々を癒すと既に決めておられ、その方法を神は、イエスの打ち傷によって行うと明らかに示されているにもかかわらずです。

 

御父に導いていただく

 

イエスは御父がされることだけをされ、御父が言われることだけを言われました。(ヨハネ15:17−18、8:26参照)これは非常に高い水準の生き方を示していると言えます。

イエスは永遠に神であられますが、神としての力、特権を捨てて人となられました。(ピリピ2:7参照)主がすべての奇蹟を、神としてではなく、人としてされたことを知るのは大きなキイポイントです。

 

もしイエスが奇蹟を「神として」したのであったとしても、それはすばらしいことでしょう。しかし、主は奇蹟を「神に委ねきった人」としてされたのであり、それを思う時に私は自分の生き方に満足はできません。それは「主が与えてくださったお手本に見習いたい」と強く願うからです。イエスだけが私たちが見倣うべきお手本です。

聖書に記録されているイエスの奇蹟で、同じように起こったものは一つもありません。ともすれば私たちは型や法則にはまってしまう傾向にあり、それはそれなりによい点もありますが、私たちが御父のしておられることに実際に繋がるための障害となっているのではないかと思うのです。癒しが神の御こころであるのは最早間違いのないことですので、残るのは神が「どのように癒されるのか?」という問題だけです。

 

この問題の核心は、「神の声を聞く耳を養うこと」のように思われます。というのは、信仰は「(今)聞くことhearing」によって始まるのであって、「(今までに)聞いたこと having heard」によるのではないからです。(ローマ10:17参照)信仰は神との現在形の関係を示唆しています。私たちが人生やミニストリーに対して幼子のようであり続けないならば、「すでに知っていること」が「今知らねばならないこと」から私たちを遠ざける危険性があるのです。

例えば、イエスの奇蹟の鍵は、男の目に泥を塗るとか、シロアムの池で洗えと言ったこと自体ではありません。(ヨハネ9:6−7)鍵は御父の声を聞き、それに従ったことであり、それによってこれらの行為が力あるものとなったのです。ルカ4:4にあるように、私たちは神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのです。

打ち破りのために御父がイエスにどのように指示されたのかを見ることができます。口のきけない人の舌につばきをつけたことであれ、百人隊長に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われたことであれ、イエスは御父の指示に従って行動されました。(マルコ7:33、マタイ8:13参照)

 

それでは、イエスの着物のふさに触った女の場合はどうでしょうか?

或いはイエスが「異邦人の時はまだ来ていない」と告げたにもかかわらず、娘の癒しを願い続けたスロ・フェニキヤの女はどうでしょうか?(マタイ9:21、マルコ7:24−30参照)どちらの場合も御父はイエスに指示を与えませんでした。しかし信仰という御父の賜物がこの二人の中で働いているのをイエスははっきり認め、彼女たちが求め続けていた打ち破りを主はもたらしたのです。

 

神の御こころが常に直接的に知らされるとは限らないことを示すこの二つの例は、私を大いに助け励します。時に私たちは、聖霊の働きかけに対する人の反応から、神がしておられることを悟らねばなりません。神の御こころは、それを知りたいと願う人には必ず分かるようにされることによって、しるし、不思議、奇蹟を起こすことが「ノーマルなクリスチャン生活」の重要な一部となるためです。

 

イエスは弟子たちに、ご自分と同じように業をする力と権威を与えられました。

ルカ9:1−2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」

「力と権威」は、私たちの人生とミニストリーに天からの影響を与えるものです。実に両者はどのような状況の中でも私たちが更に効果的に働くための「両刃の剣」です。神の力によってミニストリーすることを、私はサーファーが波を捉えるのに喩えてみたいと思います。私たちはまずミニストリーでの自分の位置を定めます。そして神がしておられること見つけると、その波を捉えるためにその方向に死にものぐるいで水をかいて進みます。そのような機会を捉えるのはすばらしい特権です。実際、神の力が大きく顕われたとき、その波に乗るのを学ぶことこそが、私の辿った人生の旅路でした。

 

ある日曜日の夜、イエスの癒しの臨在が会堂に入ってくるのを感じた時のことを私は憶えています。私はすぐにメッセージを止めて、自分が感じたことを会衆に告げ、イエスが入って来られた会堂の後方を指差しました。

私がその言葉を発したとき、一人の男性の前立腺がんが瞬時に癒されました。誰も彼のために祈ったのではありません。彼の痛みが直ちに去ったのです。その週のうちに彼の医者が癒しを立証しました。胸に腫瘍のある女性も癒されました。癒しの臨在によって他の多くの人が影響を受けたのです。(ルカ5:17参照)

私がしたことは、ただ「波」を見つけ、集会の方向を変え(波に向かって進む)、自分が見たことを告げた(波を捉える)だけでした。その結果は明らかでした。イエスはご自分の言葉を力をもって確証されたのです。

 

「権威」は「力」とは大いに異なります。「力」は、地上の霊的空気を天からの霊的空気で変えるものという点で、爆発的であり、自然界で起こることです。一方「権威」は、イエスご自身が授けてくださる地位、立場です。警察官は銃(力)を所持しますが、バッジ(権威)も付けています。バッジは銃より効力を発するのです。

 

力とは天の環境そのものです。「力のミニストリー」とは波を捉えて乗るようなものです。一方、権威は波を起こすものです。

私たちは何者であり、私たちの責任は何なのかを神が言われる時、物事は起り始めるのです。信仰とは私たちを権威の領域に結びつけるものです。神が自分について言われることや、神が与えられている任務を、私たちは堅く信じなければなりません。

 

教会の青年であるブランドンは21歳の誕生日(アメリカでお酒が飲めるようになる年齢)に街のバーに行きましたが、お酒を飲んでこの世的お祝いをするためではありませんでした。彼は後ろの方にいる若者たちのところに近づいて話しかけました。一人の若者と話し始めたとき、主が若者の人生で癒したいと思っておられる点を教えてくださり、その結果として、その若者は神の御霊を受けただけでなく、彼の友達にも同じ経験をさせたいと思い彼らを自分の席に招きました。

 

ブランドンは、 若者が父との関係において物事をどのように扱えばよいかを「知恵の言葉」をもって若者に話しました。それはブランドンがまず「知識の言葉」を受けたことから始まりました。若者は泣き始めました。そしてブランドンに「一杯おごりたい」と言いました。ブランドンが飲みにきたのではないと言って断ると、若者は「じゃ、どうしてここにいるんだい?」と聞くので、彼は「君のためだよ。」と答えました。

 

そのバーの中には、神の臨在を招き入れるために助けになるものは、何も起こっていなかったことを理解してください。力ある説教とか、高揚させるワーシップ、他のクリスチャンの応援などは無かったのです。ただ光によって侵略された暗やみがあっただけです。一つの光、それで十分だったのです。

公共の場で奇蹟を見ることが私たちの間で普通のことになってきましたが、それは権威の故です。「自分は神にとって何者であるのか」を実際に実行に移すことは、奇蹟の領域で成功するポイントであり、それが「権威」と呼ばれるものです。

権威によってミニストリーをすることの定義は力のミニストリー(御父がしていることだけをする)と相反するものではありません。時として御父がしておられることを見出す唯一の道が、あなたの権威を用いてそこに到達することであるからです。

 

ルカ9:1−2でイエスが弟子たちに力と権威を与えられる前は、彼らはイエスの油注ぎと召しの傘の下で働いていました。私も非常に小さな規模ですが、ディック・ミル師の下でそれと同じようなことを経験しました。

ディックは聖書の約束を7700以上、いろいろな訳で暗記しています。彼は聖句を用いて行う深い預言のミニストリーで知られています。励ましをあれほどまでに与えることができるのは、ユニークで驚くべき賜物であり、現代の預言のミニストリーを信じない人たちにも受け入れられています。彼は預言に御ことばだけを用いるので彼のミニストリーを拒否するのはむつかしいのです。

 

ある日家族でミル師夫妻と一日を過ごしたことがあります。その夜集会があったので、それに出席して彼のユニークな賜物を楽しむことにしました。彼はメッセ—ジを終えて、会衆の中から特定の人を呼び出して聖書から預言の言葉を与えると言いました。次に彼は「私が預言したあとマイクをビルに渡しますから、彼も同じように預言してくださいます。」と言ったのです。私には何の相談もなしにです!私はたまげましたが、彼の言葉に従いました。

驚くべきでした。私はディックの賜物の中に入りこみ、彼の賜物を尊び彼の指揮に従うことによって、彼の油注ぎの下で彼と同じように働きました。彼の賜物は私自身のミニストリーの容量を増加させたのです。

同じように、弟子たちはイエスの油注ぎのもとで機能したのですが、それは3年半の間だけでした。イエスが死んだとき、弟子たちのために物事が変化する必要がありました。

彼ら自身が神との経験をする必要があったのです。復活の後、弟子たちは復活の主から格上げされた任務と権威を受け取ったのです。(マタイ28:18−20、ヨハネ20:21参照)

権威を持つお方が、ご自分の権威で残った弟子11人を任命したのです。死、罪、暗やみの力は打ち負かされました。その勝利から弟子たちは今までの3年半にすでにしていたことを更に加速するようにと召されたのです。今や彼らはすべての人のための罪の赦しを宣言し、復活そのものの証人として働くことができました。

ここで、まだ一つすることがあります。弟子たちはルカ9章にあるように権威を与えられましたが、力はどうでしょうか?弟子たちは大宣教命令でも権威を与えられましたが、イエスは「 上からの力を受けるまでエルサレムを離れないように」と弟子たちに言われました。(ルカ24:49、使徒行伝1:4)

 

イエスは水の洗礼を受けたときに聖霊の力をまとわれましたが、それは主が人として聖霊と個人的に出会われたのです。(ルカ3:22、ヨハネ1:32参照)弟子たちもそれと同じ経験が必要でした。

今日、キリストを受け入れる者は誰でも権威を与えられます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1:12

この特権(right)という言葉は権威と同じ言葉です。

今私たちに与えられている命令は、エルサレムに留まった弟子たちへの命令と同じです。私たちは上からの力を受けるまでミニストリーの拠点を離れてはならないのです。(終り)


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