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24 4月

イエスと同じ「栄光」               ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)              2017年4月24日


イエスと同じ「栄光」

 

ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)

 

出エジプト33:18−20

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 

 

出エジプト34:5−7

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に。」

 

モーセが「あなたの栄光を見せてください」と願ったとき、神は「わたしの栄光とはわたしの善(goodness)である」と言われました。これは私にとって衝撃的な言葉です。神はどのような栄光でも見せることができるにもかかわらず、「わたしの栄光はわたしの善であり、あわれみ深く、情け深いことである」と言われたのです。

 

私は5ヶ月前に急激な痛みに襲われました。

色々な検査をした結果、医師たちは胆のうの切除手術に踏切りました。そればかりか、私の内臓には他に色々な問題が発見され、それらの処置のため手術は予定より長時間にわたりました。

私が目を覚ました時に見たのは大勢の医者や看護士でしたが、その一人が「しばらくは辛いと思います。」と言いました。病室に戻りましたが、気持がひどく動揺し、私は泣き出してしまいました。痛みがあるだけでなく、一体何が起こっているのだろうという不安で一杯だったのです。妻の祈りによって少し落ち着きを取り戻しましたが、まだ心からの平安はありませんでした。

 

朝の3時ごろ、病室に主の臨在が訪れ、私を覆いました。「ああ、来てくださったのですね。本当に気持がいいです。主よ、私の状態はあまり良くないのです。助けてください。でもあなたが来てくださったのですからもう大丈夫ですね。」と私は言いました。主の臨在の中で私は幸福でした。すると主は私に一つの質問をされました。「ジョン、わたしと同じくらい情け深くなりたいですか?」私は出エジプトの箇所がずっと心にありましたので、「勿論です。そうなれたら本当にすばらしいです!」と答え、これは何と麗しい主の招きだろうかと思いました。しかし、続けて主が語られた言葉は厳しいものでした。「ジョン、そうなることを阻んでいる問題があなたにはあるのです。」と主は言って、私の人生の人間関係の中で正しくない点を一つひとつ列挙されたのです。私が不安から正しくない動機で行動したこと、私の忍耐不足が周りの人に与えた悪影響、私の勝手なゴールが主のゴールを邪魔していること等を主は話されました。

そして「ジョン、それは正しいことではありません。 It is not right.」と言われたのです。

朝、医者が病室に来て「あなたは非常に病んでいたのに、それを知らないで過ごしていたのです。」と言いました。胆のうが化膿して、それが肝臓や膵臓に広がっていたので、すべてを清浄し抗生物質で処置せねばならなかったということでした。私の内臓がひどい状態であり、重く病んでいたにもかかわらず、痛みが来るまで私は全く知らなかったのです!

 

主は、それと同じように「正しくないこと」が私の内面に満ちていたにもかかわらず、私がその事に一つも気付いていなかったことを、今示してくださったのです。「あなたは自分で思うよりもずっと病んでいるのです。」と。そして一つひとつの人間関係における私の過ちを指し示し、「ジョン、正しなさい。

直しなさい。」と言われたのです。「わたしと同じように情け深くなるためには、それらが妨害しているからです。」と。

主に自分の間違っているところを指摘されるのが、どれほど苦痛であるのか、どれほど圧倒されることであるかをお伝えする言葉があれば...と思います。主に言い返す言葉はありません。主の見解が正しいのです。主は私の間違いをはっきりと示されました。本当に苦しかったです。聖書には主は愛されるものを訓練される、私たちは息子であるからこそ、御父から訓戒される、とあります。今振り返ってみれば、「主よ、感謝します」と言う事ができますが、その時私は本当に打ちのめされてしまいました。

 

その時主がやさしく「恵み、恵み」と言われたのです。このゼカリヤ4:7の言葉は「心配しなくていい。万事うまくいくよ。」ということではありません。恵みとは神のいのちと力であり、私たちが自分の召しにふさわしい者となり、任務を遂行できるように助けるものです。主は「あなたはこのままではいけない。変らねばならない。でもわたしは助けるよ。」と言われたのです。

 

主は私が修復すべき人間関係を一つひとつ示されました。そのうち二つだけをお話しします。

ここ(カンサスIHOP)で一緒に仕事をしているトレイシーさんとの関係がうまく行かなくなっていました。私は立派なクリスチャンですから、ほとんどは彼女の責任だと思っていました。(笑)今は笑うことが出来ますが、主がそれを示された時は、私は「ああ、何ていう事だ..」と驚き心を刺されました。主は「彼女との関係を正しくしなければいけません。わたしはあの女の人を愛しています。

あなたの彼女の取り扱い方は、わたしにとって『それでよい』とは言えません。

あなたは彼女と働き始めたとき、自分のゴールややり方を押しつけ、あたかも彼女があなたにとって邪魔者であるかのように感じていました。」と言われました。

 

私がトレイシーさんのところに行って謝るのは簡単ではありませんでした。でも私は彼女にすべてを話し、赦しを乞い、主が「わたしはあの女の人を愛している」というパワフルな言葉を告げねばなりません。あなたとうまく行っていない人を主がどれほど愛しておられるかを知るのはとても大切です。そして、私はトレーシーさんと過去2年間のことを泣きながら話しました。

主が「ジョン、わたしは善であり、あわれみ深く、情け深い主です。わたしはあなたを赦します。あなたがわたしと同じくらい情け深くなることを願っています。」と言われました。

 

主が示された事のもう一つは私とヴィンヤード教会との関係でした。12年前に私はヴィンヤードを出たのですが、その去り方を主は「正しくなかった。」と言われました。その教会で問題が起きたとき、私は「自分はあくまでも正しい」という態度で通し、最終的に教会を去り、「それでよかった、自分に落ち度はなかった」と思っていました。しかし、主は「その時のあなたの心の動きをわたしは『それでよい It’s O.K.』とは言えません。主任牧師夫妻に会って謝りなさい。」と言われたのです。

ですから私はヴィンヤード教会に出かけて行きました。もう10年以上も会っていない人達でした。一体相手はどう思うだろうか、どういう反応をするだろうか、と不安でした。トレイシーさんは私が話したとき、大変情け深く対応してくれたので、勇気づけられてはいましたが、今度はどうか分かりません。主は「わたしはあなたをわたしのようになるように招いています。でもそのためには、わたしにとって『そのままではよくないこと It’s not O.K.』をなくさねばなりません。それが問題であることをあなたは認めねばなりません。わたしは恵みをもってあなたを助けます。」と言われているのです。そして私が主に従って彼らに会ったとき、主はそれをすばらしいものとしてくださいました。

ヨハネ17:22−23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」

 

「あなたがわたしに下さった栄光」という言葉に私は打たれました。「栄光」とはなんでしょうか。神はイエスにどのような栄光を与えられたのでしょうか。先の出エジプト記の箇所から、私たちはそれが「善、憐れみ深さ、情け深さ、恵みとまこと、人を赦すこと」であると学びました。神はそれと同じ栄光を私たちに与えたいと願っておられるのです。私たちがその栄光をまとって歩むとき、世の人々は私たちを見て「一体何が起こっているのだろう。彼らの関係は何と麗しいのだろう。

どうしてあんなに一致できるのだろう。」と私たちの周りに引き寄せられてくるのです。私たちが主が望まれたように「一つ」になるためには、どのように変らねばならないのでしょうか。

 

「栄光」と言うと、私たちはしるし、不思議、奇蹟の中を歩むことだと思い勝ちです。天使の羽根や金粉が落ちてくることだと思うのです。しかしイエスが願われることは、私たちが善をもって、憐れみ深く、情け深く、人を赦して歩むことであり、それこそが「イエスと同じ栄光」であり、主はそのお手本を示してくださいました。主が私たちを取り扱われるときに、いかに「栄光」に満ちておられるか、即ち、いかに恵み深く、憐れみ深いかを見てください。そのような主を見上げるとき、私たちの心は感動し、変えられます。

プライド、赦さない思い、自分の目標や動機は絶対正しいという思いを、私たちはすぐ抱いてしまいます。その時、主は「私の意見はそれとは違います。」と言われるのです。

私たちはみんな「自分の意見」を持っています。しかし「主の意見」の前ではそれは何の価値もないのです。「主の意見」だけが重要であり、それはほとんどの場合「私の意見」とは劇的に違うのです。

どうか皆さんも自分の人間関係でひずみがあるところを調べてください。そして「主よ、これに関してあなたのご意見、お考えはどうでしょうか?」と尋ねてみてください。主は恵みをもって、あなたを助けてくださいます。

 

「恵み、恵み」と聞くと、ある人々は、「私たちはすでにイエスの血潮で赦されているのだから、何をしても赦されるし、このままで受け入れられている。」と言います。しかし主は「そのままではよくない。It is not OK」と言われます。家族に関していえば、私は結婚して38年ですが、妻はすばらしい人であり、結婚生活は非常にうまく行っています。しかし主は時々私の妻の取り扱い方がよくないと言われました。また子どもが5人いて、互いに愛し合っていますが、彼らとの関係においても私が変るべきところがあると主は言われます。更に、私たちの霊の家族であるアメリカの、そして世界中のキリストのからだの人たちとの関係においても、今こそ「イエスが持っておられるのと同じ栄光」を表して行く時です。

 

「憐れみ深い」というのは、人の間違っているところに目をつぶって「いいよ、いいよ。」ということではありません。聖書はそうは言っていません。でも人を訓戒するときに、どのような心で、どのような言葉、どのような態度でするかが鍵なのです。誰かを訓戒しなければならない時に「情け深くある」ことは、非常に難しいことです。そんな時私たちはイライラし、心の中で「これは絶対悪いことだ、問題はこの人にある、それを伝えねばならない、しかし彼はそれがわからない、もっと大声で言わねばならない、語気を強めねばならない」とエスカートするのです。でも主は「違う!憐れみ深くありなさい!」と言われます。

 

今世界が混乱し、人々の心がすさんでいるとき、私たちは「主の栄光」を表していかねばなりません。主は「わたしが助けます。恵みあれ、恵みあれ。」と言ってくださいます。(終り)


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