神のフェイバーが増し加わる ビル・ジョンソン(ベテル教会) 2017年4月3日
神のフェイバーが増し加わる
ビル・ジョンソン(ベテル教会)
「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」(出エジプト17:11、12)
この話は、身体の姿勢が霊的な力を受けることを表しています。つまり地上で私たちがすることと霊的に起こることが関連していることを示しています。モーセが手を上げている間はイスラエルが優勢でありました。彼が疲れた時には、アロンとフルが両側からモーセの手を支えたので、イスラエルはアマレクを打ち破ることができました。
西欧の教会では信仰生活を内面的なものと捉えて、外面的な要素をおろそかにする傾向が強くなってしまっています。例えば「私の気持は十分へりくだっているから、別にひざまずかなくてもいいのではないか」とか「私の気持はとてもうれしいから、踊る必要はない」とか「信仰を心に持っているから、それを実際に試す必要はない」とか考え、すべてのことを心の中だけですませてしまうのです。しかし、私たちは心の中にあるものを外面に出す必要があるのです。私が妻を心で愛しているから「愛している」と口で言う必要はないのでしょうか?愛を行動で表現する必要はないのでしょうか?私の家庭ではそれは通用しません。心の中は言葉や行動で示す必要があります。それはなぜでしょうか。聖書によれば、私たちの言動は直接的に天で起こることと関連しているからです。
次の話はダニエル10章です。ここには私たちが祈るときに目に見えない世界がどのように動くかが書かれています。
ダニエル10:2「そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。」
10:10、11「ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。それから彼は私に言った。『神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣われたのだ。』彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。」
2節に「私は、ごちそうも食べず I ate no pleasant (desirable) food」とあります。このpleasant あるいは desirable とは「好ましい、望ましい」という意味です。次に11節の「神に愛されている人ダニエルよ」という「愛されている」という言葉は、まさに pleasant, desirableと同じ原語が使われています。ダニエルは「好ましく望ましい」食べ物を食べなかった故に、神にとって非常に「好ましく望ましい」者となりました。
「神の愛 love」と「神の特別の恵み、顧み favor」には違いがあります。あなたへの神の愛は四六時中、永遠に変ることがありません。神の愛は、あなたが生まれた時から一定で増えたり減ったりしません。それは完全であり、永遠で絶対的なすばらしい愛です。しかしフェイバーは違います。それは当初恵みとしてあなたが何をしなくても与えられます。しかしその後は私たちがどのように主に仕えて行くかによるのです。「フェイバーを買う」というのは正確な表現ではありませんが、犠牲を伴って得られるものです。フエィバーが増し加えられるのは、すでに与えられているフェイバーをどのように管理していくかによります。
ダニエルはイスラエルに定められている計画の重要性を知り、自分に与えられているすべての「望ましいもの」を捨てて神を求めることを決意し、3週間断食と祈りをしました。その時天使は「神に愛されている人、ダニエルよ。O Daniel, man greatly beloved (desirable)」と言いました。これは増し加えられた特別なフェイバーを意味しています。自分に望ましいものを否み、自分が当然受けるべきものを断念できる人は霊的に成熟している人です。
クリスマスプレゼントのためのお金が十分に無い時、親は自分のものは買わないでも子どもたちに何か買おうとします。「大人」はそうします。しかし5歳の子どもは自分の権利を主張します。私たちの霊的年齢は「権利をどれだけ主張するか」によって露見します。皆さんは食べる権利がありますから、食べていいのです。しかし時として私たちは天とパートナーになるのです。
「ダニエル断食」をしたことがありますが、拷問でした。全く食べない方が楽だと思いました。通常私のお皿に肉、ポテト、ブロッコリ、人参がのっていたとすると、私はまず人参から始めて、次にブロッコリ、バターを一杯つけたポテト、そしてフィナーレに肉を食べます。少しずつ順繰りに食べるのではなく、好きではないものからやっつけていき、好きなものへと移り、最後に肉を大いに楽しむのです。ですから肉のない食事はグランドフィナーレがなく、失望に終り、非常に惨めです。(笑)
でも主が断食をするように招いておられるならば、私は従います。私たちが地上で神に徹底的に身体をも従わせるとき、神は応答してくださるのです。両手を上げたりひざまずくことは、勿論人に見せるための演技ではありません。ダニエルの断食に対して主が直接的に言及したことは書かれておりませんが、ダニエルの人生に対する神のフェイバーが増し加わったことは確かです。神は「ダニエル、あなたは自分の望ましいものを否んだ故に、わたしにとって非常に望ましい者となった」と言われたのだと私は思います。
ダニエル10:12−13「彼は私に言った。『恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシャの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシャの王たちのところに残しておき、終りの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。』」
この箇所は、「祈りに対する神の応答が届くまでには霊的な闘争が巻き起こるけれども、最終的には答えが届けられること」を表しています。ダニエルは21日間祈っていましたが、一日目にすでに天使は答えをもって出発していたのです。「ペルシャの君」とは、ペルシャを支配している暗やみの力を持つ者のことです。この話は霊的闘争について語っており、私たちが忍耐をもって祈り続ける必要性を教えてくれます。神は最初の日からすでに答えを送ってくださっているのですから、私たちが祈り続けるのは神を説得するためではなく、自分が変えられ、周りの霊的状況が変えられるためであるのです。私たちは祈り、断食しても答えが来ないことがあります。しかしダニエルの姿を見たとき、祈り続ける重要性を疑うことはできません。
神が答えをすでに送られているのに、サタンの妨害によってそれが私たちに届かない場合がどのくらいあるのでしょうか。勿論神は全能の方がですが、神は私たちのためにサタンの妨害をも用いられます。そして最終的にはそれによって更なる神の栄光が現れるのです。サタンはチェスのゲームの駒であり、神は自由に動かすことができるのです。天使と悪霊との戦いはありますが、神がサタンと戦うのではありません。ですから私たちは両手を高く上げ、またひざまずいて私たちの内側を身体をもって表さねばなりません。心の中の感情を外に表すのです。天で霊的戦いが起こっているときに、私たちはそれに影響を与え加勢することができるのです。
モーセは偉大な神の人でしたが、私たちに与えられている聖霊を内には持っていませんでした。バプテスマのヨハネは女から生まれた者の中で一番優れた人でしたが、天の御国の一番小さい者でも、彼よりは偉大です。それは私たちが誇ることではなく、私たちには更に責任が与えられているということです。多く与えられた者にはもっと要求されるのです。
教会のリーダーたちが、4月2日から7日間の断食をするように示されたと私は今朝告げられました。(私は今週海外に行っておりましたので、知りませんでした)私はこのメッセージを用意しておりましたので、これは本当に神の御こころだと確信いたしました。私たちは自分に望ましいものを否んで、神の望ましい者とされ、神からのフェイバーを増し加えていただきたいと思います。今私たち教会は非常に神から愛され恵まれておりますから、私が何か問題があると思っているわけではありません。しかし、今の教会は10年前に私たちが祈り求めた地点に来ています。これから神がしてくださろうとしている将来にむかって、神のフェイバーをますます頂くために、新しいブレイクスルーがそこまで来ていると感じています。そのために心を合わせて神を求めようではありませんか。(終り)