私がトランプ氏に投票した理由 ビル・ジョンソン 2017年3月13日
私がトランプ氏に投票した理由
ビル・ジョンソン 2016年11月9日(選挙の翌日発表)
【訳者注:今回の大統領選挙の最大の特徴は、予想に反して勝ったトランプ大統領に投票した人を、彼の対抗者に投票した人が、これ程敵意をもって激しく非難の感情を表したしたことは、南北戦争以来なかったのではないかと思います。
しかも、それに近い対立感情がクリスチャンとその教会内でも起こったのです。特にクリスチャンの中で影響力の強い、人望のあるビル・ジョンソン師は多くの人から師が誰を選ぶかを執拗に聞かれました。しかし、師はかたくなに選挙が終わる迄その問いに答えず、投票が終わった翌日に初めて下記の文面を発表したのです。これを発表した後で、師は「クリントン氏」という具体的に名前を挙げたことを非常に悔やんでおられたといわれます。】
私は今回の選挙で「もしあなたがトランプ氏に投票するというならば、聖書をよく調べてみてください。それが聖書的に正しくないことがわかるでしょうから。」と多くの人から言われました。そこで私が聖書を調べたところ、 以下のことがわかりました。
1.殺人及び堕胎は悪いことであることがわかりました。クリントン氏は赤ちゃんが生まれる直前まで堕胎を許すと言っています。「赤ちゃん、baby」という言葉を「胎児fetus」と言い換えても現実は変りません。それは赤ちゃんです。女性は自分の身体に起こることを決める権利があります。しかし私たちが持つ権利はすべて、他人の権利を侵害する時点でなくなります。堕胎はお腹の赤ちゃんの権利の侵害です。また、私たちが持つ権威の聖書的な主要目的の一つは、「声を持たない者の代弁者となること」だということもわかりました。お腹の赤ちゃんは「声を持たない者」です。お腹の赤ちゃんたちは誰かが立ち上がって語ってくれるのを黙って待っているのです。クリントン氏はそのことを拒否しました。
2.政府が持つ主要な責任の一つは、国民を守ることだとわかりました。クリントン氏は、ベンガジにおいて私たちの国を代表する人たちが救助を求めていたにもかかわらずそれを退けました。そしてユーチューブのヴィデオに責任があると、それが真実ではないと知りながら、偽って責任転嫁をしたのです。
3.海外から来る人たちに憐れみを持つことは重要ですが、まず自国民の安全を守る責任が第一であることがわかりました。国境が閉ざされていないことは、その責任を果たさないことであり、アメリカに住む人々の安全を守るために毎日危険を侵して犯罪を取り締まっている警官たちに、過酷な任務を負わせることになっていることがわかりました。それと同時に不法入国者に対しても可能な場合は憐れみをもってよい対処法を考える必要が大いにあることもわかりました。
その一方、国の指導者たちに「どの法律は守り、どの法律は無視してよい」という選択権などあるのでしょうか。もしあるというのならば、政府関係者は自分を法律よりも上に置いているのです。「不法移民」はその言葉の通り不法なのです。もし悪い法律ならば変えねばなりません。
4.「正直さ」は神の御国の中心的価値であるにもかかわらず、クリントン氏は何十万という機密文書を含むEメールを削除し、しかもそれに関して議会で虚偽の証言をし、証拠隠滅を図ったことは、この御国の価値を犯したものであることがわかりました。機密文書がそれを見るべき立場にない人の手に渡り、国家の安全を脅かしていたことがわかりました。
5.神は私たちが働くことによって裕福になるための技能を与えておられることが分かりました。しかし政府が働かない人にお金をただで与えることは、他人に依存する生活を生みだし、そのような福祉政策は逆に彼らや政府のために危険であることがわかりました。クリントン氏が信じるリベラルな政策は、彼らが唱える問題解決の方法とはならず、実際にはかえって問題を生み出すことになりました。
私はまた、多くの場合、政府による福祉システムは一見人々を助けるように見せかけますが、実際は人々にとって本当に必要な「労働によって得られる自己価値感」を奪っていることがわかりました。
政府は、社会のシステムからくる貧困のサイクルを破らねばなりません。そのために働いて所得が得られる充分な職場をすべての人種のすべての家庭に与える責任があります。それが神の御こころです。その職場提供に問題があるなら、その問題にお金を使うべきです。しかし福祉と言う名でただ(応急処置的な)お金を投げ与えるだけでは問題の根本的な解決にはなりません。
6.人々自身が憐れみをもって他人を助けることが今切実に必要とされています。困窮している人に手を差し伸べることは、すべての(隣人と)社会自体に与えられた栄誉ある責任です。
しかしこれに反して、最近の社会主義的な考えによって書き換えられた「家族」の定義は、不道徳であり、実際に神によって呪われていることがわかりました。悲劇的なことにこれがクリントン氏立候補の中心的立場であり、価値観です。
7.社会主義(ソーシャリズム)は、イエスとその教えに反することがわかりました。主は貧しい者に与える大切さを強調されました。しかし一方で、主が「1タラントを持つ者から取り上げて、一番多く持つ者に与えなさい」と言われたとき、主が社会主義者ではないことがわかります。
社会主義は、国家の支配と力によって、人々から個人として持つべきアイデンティティーと自由を奪います。クリントン氏が中心となっているリベラルな政策は、このテーマを誇り高く推奨します。政府が富裕層から取り上げて貧乏な人に与えるならば、自分の憐れみによって貧困問題の解決の一旦を担う時に得られる自己評価感(と責任感)を富裕層から奪うことになります。政府があなたからお金を取り上げて貧しい人に与えることを、私は「憐れみ」とは呼びません。私が自ら進んで与える時に、初めて憐れみとなるのです。
8.私は、誰かを「人種差別者(レイシスト)だ」と告発することは、アメリカ人が皆立ち止まり、自分が人種問題を更に大きくしているのではなく本当に解決の一旦を担っているかどうかを考えねばならない深刻なことであるとわかりました。トランプ氏の周りのスタッフや彼の会社で働いている人たちを見たとき、少数民族(マイノリティー)の人達が彼に非常に感謝し喜んで働いているのが分かりました。又、トランプ氏が人種差別者であるという告発は、人々の恐れを煽るためのサタンの罠であり、人々の決断プロセスを操縦しようとするものです。
私はサタン自身が「告発者」と呼ばれているのがわかりました。そして善良な人々が、自分の判断が間違っているにもかかわらず、誰かの悪いイメージを創ることが人々のためになっていると思い違いをするという罠に往々にして陥っていることがわかりました。トランプ氏はクリントン氏の競争相手になるまで人種差別者と呼ばれたことは一度もありません。
9.イスラエルを祝福するものは主に祝福されることがわかりました。そして今までのリベラルな政策が、アメリカにとって重要な同盟国であるイスラエルとの何十年にも渡る友好関係に危機をもたらしたことがわかりました。
10.「政治的正しさ(political correctness)ー真の正しさではなく、その時の世間的に人気のある考えに同調する言動)」は目新しいことではなく、イエスご自身もそのようなチャレンジを受けられたことがわかりました。主は人々の意見によって統治されることを拒否されました。人を恐れること(それが「政治的正しさ」の到着点です)は、自分自身で思考する自由を奪う故に、神の鼻にとって悪臭であることがわかりました。
11.神が一つひとつの国にユニークな価値を置いておられることがわかりました。そしてグローバリゼイションへの動きは、現代のバベルの塔に他ならないことがわかりました。それは同一化によって一致をもたらそうとする人間の努力であり、個人や国家の多様性を喜ぶ自由をなくすものです。
12.女性を性的に卑しめるような話をすことは間違いであることがわかりました。それは人を所有物のように扱うことだからです。それは言い訳することのできないことですが、赦されないことではありません。私はまた、赦しを求めた人を赦すことは大切であることがわかりました。
トランプ氏は10年前の自分の間違いを認めて公に謝罪しました。彼の罪を裁く人たちが、自分の罪を告白したときに裁かれないようにと私は願います。ある人が実際どのような人かを見るために、私はその人の子どもたちを見ます。トランプ氏の子どもたちは父親を敬愛し彼と共に優秀な働きをしています。これを読む方も皆、そのようであることを私は願います。
選挙というものは何であっても大変ですが、今回ほど大変だったものは無かったように思います。どの候補者に投票するか、しないかには正当な理由があります。残念ながらビリー・グラハムやマザー・テレサは立候補していませんでした。ですから限られた中で最善をつくすことが私たちの責任です。そして私は良心をもって投票しました。選挙の結果は神からのものだと私は信じます。それと同時に、私の愛する多くの人たちは、私のような見方をすることができないこともわかりました。
いずれにせよ、 神と人々に対する私の愛には変わりがありません。そしてクリントン大統領、ブッシュ大統領、オバマ大統領のためにしたと同じように、私はトランプ大統領とその家族のために主の守りがあることを祈ります。そして彼が殆ど不可能に近い問題解決のために偉大な知恵を受け、神や人々の助言に耳を傾けるようにと祈ります。彼が神と人からの愛を更に受けるように祈ります。
この選挙結果で落胆している人たちに神が平安と約束で満ちた希望を与えてくださるようにと祈ります。最後に私たちがすべて夢を実現できる人生を送り、健康と人生のすべての領域において祝福されるようにと祈ります。(終り)