暗礁に乗り上げるかに見えるトランプ大統領(一) 坂 達 也 2017年2月15日
暗礁に乗り上げるかに見えるトランプ大統領(一)
坂 達 也
今アメリカはトランプ大統領の行政が始まって未だ三週間が経ったばかりですが、早くもその行手を遮るかのような、少なくとも二つの大きな難艱が立ちふさがるという緊急事態に発展しております。
その一つはトランプ大統領がモスレム7カ国からの移民を一時的に中止するというエグゼクティブ・オーダー(大統領命令)を発令したのに対し、シアトルの一地方裁判官がそれを中止させ、その上、管轄のサンフランシスコにある連邦巡回裁判所がその中止に同意するという事態が起こったことです。
ご存知の通り、アメリカ国憲法 Constitution では厳格な「三権分立制度」が規定されております。三権とは、国民を代表する立法府としての連邦議会 Congress と、行政府とその長としての大統領、それに司法国家として独立した司法府(連邦最高裁判所とその下部組織)です。国民は連邦議会議員と大統領を選挙で選出し、司法裁判官は立法府連邦議会が任命権をもっています。
大統領は外国との交渉において、あるいは国の安全が問われるような事態においては、大統領権限で緊急な軍の発動(最終的には連邦議会の承認が必要)とか外国からの移民を一時的にストップすることが出来ることが明確に規定されており、今迄でもオバマ大統領を含む多くの大統領が移民を一時的に差し止めた例が幾例もあります。従って今回の一地方巡回裁判所が大統領発令を阻止する権限は全くない、すなわち裁判官としては越権行為を行ったと考えられます。
それがなぜこのような事態になったかといえば、一つの理由は裁判官が、入国する移民のビサには各種の種類があり、その広い範囲のすべての移民をストップしなくてもよいのではないかという判断により「物言いを」つけたからであると憶測されています。しかしその裏には、今はトランプ大統領のすることなすことすべてに反感を持つ多数の国民がおり、多くのリベラルなメディアがそれに火を付け、加えてestabulishment といわれる国会議員(特に民主党)自体もその風潮に不和雷同していること明白な事実としてあります。
言ってみれば、この10年間程世界中で流行した言葉に politically correct 「政治的に正しい」という言葉がありますが、まさにその風潮に裁判官までが乗った現象であると受け取れます。
三権分立制度は国の政治が健全に運営されるために必要な制度ですが、歴史上最も古くから「民主主義共和国」として栄え世界に模範を示して来た立法国アメリカにおいてすら、法が正しく施行されているかどうかをチェックする「厳然たる裁判官」自体が「政治的に正しい」ことになびき、合法的な大統領命令にすら反対するという、まさに「お前もか」という由々しき事態になってしまっています。
大統領命令が却下されたことで現実にテロの画策者たちがアメリカに流入するのを防ぐことができないという、国家として最も危険な状態にあります。それを大統領は憂えて、ただちに次の手段としての緊急対策を講ずると言ってから既に5日程経っていますが、未だに代案が出されていません。
そんな中で、上記に加え、もう一つの大きな事件が起こったのです。それは最近議会で承認されたばかりのフリン国家安全保障担当の米大統領補佐官(閣僚級)が13日、突然辞任した事件です。この事件の内容については日本の新聞で既に報道されていますので、ここでは省かせていただきます。
しかしお伝えしておかなければならないことは、この事件を機に「待ってました」とばかりに、劣勢になりかかっていたリベラルの「メディヤ」と「民主党」が一斉に大攻勢に出て来て、アメリカは今や蜂の巣を突っついたような、一見収拾ががつかないように見える混乱状態にあることです。
聖書が伝える終末の兆候そのものになって来た
イエスの弟子たちが「世の終わりが来る前兆」を訊ねたとき(マタイ24:3)イエスは多くの具体的な兆しを4−12節で示しましたが、その最後の12節で「不法 Lawlessness がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる。」と答えられ、その直後に「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に述べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終りの日が来ます。」と述べられました。
憲法を尊重する立法民主主義共和国であるアメリカが、特にオバマ政権になって大統領自身が憲法違反とか越権行為を平気で犯したことがきっかけとなり、今回の司法官の越権行為という法を無視する「不法」に繫がってはびこり、それが急速に国民全体に「愛が冷える」ことに発展しつつあると私には思えます。
それに関して、パウロが、1コリント13章の冒頭で「愛がないなら・・・どうなるか」についての警告が思い起こされます。
異言でいくら話しても「愛がないなら」やかましいどらに過ぎない、
あらゆる奥義、知識、たとえ山をも動かす信仰があっても「愛がないなら」何の値打ちもない、
どんなに慈善行為をしても「愛がないなら」何の役にも立たない、
愛は寛容(忍耐)親切、ねたまず、自慢せず、礼儀に反せず、自分の利益を
求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず真理を喜ぶ、
すべてを我慢し、信じ、期待し、耐え忍ぶ。(以上、筆者が聖書を要約して書く)
この「愛がない」傾向は今のアメリカで顕著に見られます。しかし、それ以上に世界にも急速に広がりつつあるように見受けられますがいかがでしょうか。
クリスチャンは政治に関係してよいのか
ここで一つ申し上げたいことは、私たちクリスチャンが「一国の政治のことに首をつっこんでとやかく言うのはおかしい」という批判がよく聞かれることです。クリスチャンは聖書の話をしていればよい、という人がもし日本にもいるとすれば、それは「宗教の霊」に完全にやられている人としか言えないと私には思えてなりません。そのような方は、今アメリカのみならず世界で起こっていることが「聖書的でない」とでも言われるのでしょうか。私たちクリスチャンは主である王の「御国の民」であり「この地に御国を来たらす」目的で主に仕えているとすれば、それは広義の意味で、政治活動そのものではないのでしょうか。
アメリカにはリック・ジョイナー師に代表されるような「国のために立てられた神の使徒」が存在し、預言的に主からの意向を受けて、それを国民と世界に伝え、主のご計画を実行するのを助けることに命がけで仕える「御国の使徒職」がいることを既に私は機会がある毎にお伝えして来ました。そのリック師はよく人から「あなたはいつ福音にもどるのか、なぜ政治のことにこれ程までに関わるのか」と聞かれるそうですが、師は明確に神からそのような召しを受けているからやっているまでで、神からの命令が変われば、喜んで牧師の召しに返ると言っています。
そしてこのところ連日フェイス・ブックで、国の一大事に関することやクリスチャンとして彼が憂うことを心から叫んでいます。その一大事とは、上記の二つに加えることになりますが、今アメリカで最も必要なことの一つが、昨年急死した最高裁判事アントニオ・スカリヤ氏の後を継ぐ判事に、聖書的に正しい立場を厳守する人(スカリオ氏はそうであった)を緊急に選ばねばならないことです。
なぜならリベラルと保守派の判事が現在4人対4人で拮抗しているからです。その人選のためにトランプ大統領はニール・ゴーサッチという人を既に指名し、これから上院での審査に入るところです。これに対し、共和党は大統領選にも出馬していた最も保守的なクルーズ氏を含むほとんどの議員がこのゴーサッチ氏を「これ以上よい候補者はいない」と称える中で、実はリック・ジョイナー師は、このゴーサッチ氏に一抹の懸念を持っていることを始めから語っておりました。その主な理由は彼が所属しているキリスト教会がリベラルな教会であるからと私は理解していますが、このゴーサッチ氏が、今回の移民を一時中止するリベラルな裁判官の判決をトランプ大統領が批判したことに対して不満の意を漏らしたのです。
大統領が持つ正統な権限により大統領が移民に関する行政発令をしたことを一裁判官が却下するという越権行為に対して、抗議の意味で、正当な異議・不満を大統領が表明したことに対し、最高裁判事の候補者たる人が、気軽に大統領を批判するようなコメントをしたこと自体が最高裁判事がすべきことではないと、ゴーサッチ氏の「軽率な政治的発言」を憂えたのです。
事実この大統領命令を却下した9th 巡回裁判所は、過去において、その判決の80%が上告された際にひっくり返されたというお粗末な記録を持つ全くリベラルな裁判所であることが今回分かりました。
すなわち、アメリカという国のお目付役である司法機関が、法が正しく施行されたかどうかよりも、自分たちの「政治的に正しい」私的な意見を優先するという、極端にリベラルになりさがってしまっていることが今回露見されたとリック師は言うのです。
このような事実を今回目の当たりに見て、私は主が「不法 Lawlessness がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる。」といわれる終末の最後の時代に入っていることを今回ひしひしと感じている次第です。事実アメリカの社会は今どんどん「愛は冷たくなる」一方に進んでいるように見えます。(続く)