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Walk With God Ministries

30 1月

キリストにある自由     グラハム・クック              2017年1月30日


今は終末の時

 

訳者の前置き           坂 達也・柚実子

 

 二週間程前にマイクビクル師のメッセージ(上と下)を掲載しましたが、本当に今は世の終わりが迫って来ていることをひしひしと感じます。

 ビクル師は言われます。「終末には偽りの正義が起り、偽りの統一宗教の動きが起り、偽りの愛、偽りの恵みが説かれると聖書は明確に述べています。・・・(終末の)時代がいかに栄光に満ちているか、そして同時にいかに惑わしに満ちているか、いかにパワフルであると同時にいかに危険に満ちているか、、、このような時代に生きた世代は未だかつでありません。この時代にどのように生きればよいかを示唆できる世代はないのです。」

 

 私たちは、クリスチャンが今一番「惑わされていること」が何かと言えば、それはクリスチャンの「救い」そのものの意味を多くのクリスチャンが忘れているか、あるいは、教義だけは頭の知識として知ってはいても、心はそこになく全く「この世的に生きている」ーすなわち、キリストが私たちのために死なれた「十字架」の意味を霊的に認識して生きていないということではないかと思います。

 

 今のアメリカでは、私たちの教会も含め、多くの教会で「十字架」ということばすらあまり聞けなくなっております。

 それを感じている人たちは私たちだけではありません。最近、このことを特に憂い、十字架の意義を強調し、真のクリスチャンの生き方をくどい程丁寧に説明してくれている方にグラハム・クック師がおりますので、今回はそれを少し長いですが訳してお届けさせていただきます。本当に師は何回も何回も噛み砕いて、くりかえして言われていますが、それほど大切で、それ程重要であるとご了解いただき、ぜひ、ゆっくり最後迄お読みいただけますよう心からお願い申し上げます。

 そして私たちは、日本の教会での現況をも憂慮しております。どうぞ日本の様子を私たちにお分ちいただければ幸いです。お祈りしております。

 

キリストにある自由

 

グラハム・クック

 

 ローマ6章「4節 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。11節 このようにあなたがたも、自分の罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 私たちは現在から過去にむかって見ることもできるし、あるいは現在から未来に向かって見る力もあることを神は知っておられます。「現在から過去へ」という生き方は、過去に起こった事が現在の自分にもまだ影響を与えているということです。しかし十字架はこの「現在から過去へ」という生き方から私たちを解き放ち、「現在から未来へ」というライフスタイルを可能にしてくれるのです。

 それは十字架、即ち福音は私たちの「現在」を「神にある現在」に変えてくれるからです。「今の自分はすべて完成したわけではありませんが、完成に向かっているところです、今現在、私はすばらしい、そしてだんだんイエスに似ることによってもっとすばらしくなるのです」というのが現在から未来にむかって生きるライフスタイルの考え方です。

 まず1番目の鍵は、神から見て古いあなたは死んだことです。2番目の鍵は、ローマ6:6ですが、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」です。あなたの古い人は清めることができないほど堕落しているので十字架につけて殺すしかないのです。イエスは「あなたのために死んだdied for you」だけではなく、「あなたとして死んだ died as

you」なのです。ですからイエスが死んだ時、あなたも死んだのです。これは喩えとか象徴的な言葉ではなく、御父の心の中ではまさにそれが事実として起こったのです。御父がイエスが死ぬのを見たとき、神は私たちすべての者が十字架についているのを見られたのです。イエスが死んだとき、私たちもまた死にました。イエスが葬られたとき、私たちも葬られました。そしてイエスが死からよみがえられたとき、私たちも主と共に死からよみがえったのです。

 

黙示録13:8に「世の初めからほふられた子羊 the Lamb slain from the foundation of the world」という言葉があります。この意味は創世記!:1以前に天で次にような会話があったことを想像させます。最初のコミュにティーであった父、子、御霊が話しあって、自分たちに似せて人を造ろう、愛と平和と喜び、親切に満ち、自分たちのように楽しく笑うにしよう、と決めました。そして彼らとの交わりはすばらしものになるだろうと喜びました。次の日にまた話を続けて、「これらの人々はみな、自由意志を持っていなければならない、ロボットやクローン人間では本当に愛し合うことはできない、自由意志でわたしたちを選んでもらいたい。しかし自由意志でわたしたちを選ばない人たちはどうすればよいだろうか、わたしたちの存在さえも否定する人たちはどうすればいいだろうか、自分たちで宗教を造り上げてそれが本当の生き方だと言ったらどうしようか、そのような人がわたしたちと交わりを持つようにするにはどうすればいいだろうか。」

 そして最後にイエスが天のすべてのものを捨てて人として地に来て、罪の生け贄となることに決めました。イエスの贖いによってすべての人類は購われたのです。

次の会合で、実際にどのような過程で人々を変えていけばよいのかが話合われました。「古い生き方から新しい神にある生き方に人を変えるにはどうすればよいのか」を考え始めました。そしてそれが大変な仕事であることに気がついたのです。御父とイエスは聖霊にその仕事を引き受けてもらおうとしましたが、聖霊は「それはとてつもなく大変な仕事です。人々が良くなるように変えるなんて。3歩進んで2歩さがったり、2歩進んだかと思ったら5歩さがったり、、、。駄目ですね。とてもできません。考え直したほうがいいと思います。」そこでまた話合いました。

 そして御父が「人を良くしようとするのではなく、殺してしまって、新しく生まれ変わらせたらどうだろう。イエスが十字架で死ぬときに彼ら全員を十字架につけたらどうだろうか。イエスは彼らとして死に、彼らはイエスと共に死ぬようにして、イエスが葬られたるとき彼らも葬られ、イエスがよみがえるときに彼らもよみがえるようにして、それを『もう一度生まれる Born again』と呼ぼう。そのためにバプテスマという儀式をして人を水につけ、水から上がるときは新しい人となっていることにしよう。そして新しい人に本当の生き方を教えよう。イエスが彼らを死なせ、地獄に行ったときに彼らの罪を全部そこに置いてきて、新しい形でよみがえったとき、彼らはすべてイエスに似たよみがえりの姿となり、その時彼らは新しいものとなる。古い彼らはすでに死んでいる。彼らがもう罪に死んでいて新しい命に生きていると考えることを許可しよう。聖霊には『新しい人』を教える仕事をしてもらう。彼らが生まれ変わったときにイエスが彼らの中に入り、彼らはイエスの中に留まり、イエスに似た者となるように聖霊が彼らを教えることにしよう。」

 

御子と聖霊もそれはすばらしいと賛成しました。そして聖書を彼らに与えてよい聖句を教えました。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

 ですからもはや古い自分は死んでいなくなり、「新しい私」だけが生きているのです。古い自分がしていた生き方をすべて捨てて、全く新しい者として生きる生き方を学ぶのです。物の見方を変え、話し方を変え、行動を変えてイエスと全く同じ生き方を学ぶのです。そして「現在から未来へ」の人となるのです。

 

 ローマ6章には神が私たちのためにすでにしてくださっていることが確信をもって書かれています。

「自分に死ぬ」というのは私たちがすることではなく、イエスがしてくださったことです。「自分に死ぬ」ということはイエスのうちにあることの当然の結果です。私は神に生きているとき、自動的に罪に死んでいるのです。私が「新しい人」に生きるとき、「古い人」は死んだままになっています。ですから私たちの目標は単に「死んだふりをする」のではなく、「死にっぱなしになる」ことです。「自分はもはや罪に死んでいる」と考えることを神はあなたに許可されています。神が私をキリストにあって十字架につけられ殺したのであれば、私はもう自分を殺すことはできません。私はすでに死んだのですから、そのまま死んでいればいいーそれが私の仕事です。

 

神は私たちの古い人に関しての神の観点、神の思いの中に踏み込むことを許可してくださり、私たちが「キリストにあってどのような者であるか」の焦点をあてて生きるようにしてくださいます。即ち、自分は自分が考えるような者ではなく、自分とは、「神が私をどのような者であると考えておられる」その者であるということです。私はキリストにあって新しい人であり、すべて古いものは過ぎ去り、私はキリストにあって新しい者となった。(それ以外の考え方はないのです)

ローマ6:11にある「自分は罪に対しては死んだ者であるように思いなさい。」とは、神がすでにされたことを注意深く考えて、それが真実であると信じるということです。あなたは神があなたに関して信じているように自分を信じていますか?神があなたに「あなたは罪に対しては死んだ者と思っていい。」という、とてつもない許可を与えてくださったのですから,私たちは神と同じように考えてよいのです。

 そうすると神にはどのようなことが要求されるのでしょうか。聖書に書かれたこの事実に対して神はどのように対応されるのでしょうか。神は言葉にも行ないにも真実な方です。私たちがどのような者であるかに関して神には二心がないことを私たちは知らねばなりません。神は「あなたは死んでいる」と言われ、あなたが死ぬのを目撃されたのです。あなたのネガティブなものはすべて一切、十字架上のイエスに負わせたのです。イエスが死んだとき、あなたも死にました。ローマ6:10に「キリストが死なれたのはただ一度罪に対して死なれたのです。」とあります。一度ですべての(once for all) 罪は処理されたのです。ですからイエスはもう一度死ぬ必要は全くありません。そして神はあなたの罪に対してもう新たに何もする必要はないのです。神はもはやあなたの罪を気にも留めておられません。その代わりに義をあなたにもたらそうとしておられます。あなたの罪に焦点を当てるのではなく、あなたの聖さに焦点をあてておられます。あなたは罪に死んでいるので、義を求める自由があるのです。そして神はあなたに聖霊を与えて、聖くなる方法を教えてくださっています。聖霊が焦点を合わせているのは、キリストにある新しい人です。(くどいようですが、)ローマ6:6にあるように罪のからだは滅びてもうないのです。

ポイントは御父がイエスの贖いを100%信頼しているか、ということです。もし神が未だにあなたの人生の罪をどうにかしようとしておられるならば、それはイエスの贖いの業に確信を持っておられないということになります。もし神が未だにあなたの罪を取り扱っておられるならば、神はあなたを墓の中から生き返らせて古いあなたに戻していることになり、神は墓泥棒ということになります。御父がイエスの贖いの効果を100%信じて認めてないなどと考える人がいるでしょうか。ですから、もし私たちがまだ自分の罪を(うじうじと)取り扱っているとすれば、私たちがイエスの生け贄を信頼していないということであり、御父は分裂症だとみなすことになります。私たちのしていることは、御父とイエスがそのような方であると言っているようなものです。なぜならば、イエスは一度で完全に罪に死なれたのであり、私たちの罪は無くなったのです。神がまだ私たちの罪を取り扱っておられるならば、私たちは新しく造られたものではないということになります。しかし、聖書はそのようには教えていません。私たちは死んで、そのまま死んだままになっていて、新しい命に生きているのです。

 

神が私たちに「古いあなたは死んだと思ってもよろしい。」という許可を与えてくださっているのは、神も同じ真理のもとで行動しておられるということです。神の結論は、「自分の息子はすべての人類の罪をただ一度完全に背負って死んだのであり、だからあなたの罪は死に、あなたは神のいのちに生きている」ということです。即ち神があなたを御覧になるときは、あなたの中に一つも罪、間違いを見つけられないのです。あなたの中のすべての罪、間違いは、十字架上のイエスの上に置かれ、イエスは地獄に行ったときにそれらをすべて地獄に投げ捨ててきました。ですからあなたに関するすべて否定的なもの(罪、否定的な考え、否定的な感情、悲観的な考え等々)は、イエスの内に死んだのです。そうだとすれば、神があなたを見たときは、何が見えるのでしょうか。神があなたをイエスの内に置かれたのならば、「イエスの内にあるあなた」であり、また「あなたがこれからなろうとしている姿」です。これは逆説的なことですが、あなたは生きるために死んだのです。あなたは死んでいるけれどもイエスにあって完全に生きているのです。

ですからあなたは自分の言動を変えて新しい人になることはできません。イエスの内にある「既になった人」を発見して、その人のように行動するのです。もし私たちはただ自分の言動を変えようと頑張るのであれば、イエスは死ぬ必要は無かったのです。神はあなたを変えるのではなく、全く違うものに一変させたいーのです。そのやり方は「あなたのすべての悪いものを、すべて処理しました。あなたはキリストにある全く新しい人になりました。あなたがその人になる方法をわたしが教えてあげます。」と神は言われているのです。神があなたを見たとき、何も悪いところは見えません。ただあなたが今神を経験するときに欠けているところを見て、それを必ず与えると決意されたのです。ですから聖霊があなたの人生で巧くいっていない場所を指差されるときは、即ち、次に起こる奇跡の場所を指し示されているのです。責めも恥もありません。聖霊はうれしそうに来られて、その場所を指差されて、「さあ、次はここにしましょう。あなたのためにその場所にすばらしいことを用意していますよ。」と言われるのです。そしてギフトをもってこられます。その場所であなたが苦労するのではないのです。もうそこのあなたは死んでいるからです。ただ(既に死んで亡くなった古い部品のあとに)新しい部品に取り替える(入れてくださる)のです。あなたに何かを頑張ってほしいとは言われません。(信仰でそのように生きるのです)

 

エペソ4:21−24「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきでした。」

「古い人をよくしようと努力しなさい」とはどこにも書いてありません。「脱ぎ捨てなさい」と言われています。神があなたを見ておられるように自分を見て、神と共に働くのです。神は「わたしたち(神とあなた)は古い人を改良する仕事をしてはいませんよ。それは死んでいるのですから。もうあなたの名が書かれた墓石の下に埋まっているので、そのままにしておきなさい。こちらに「キリストにある新しいあなた」がいるーこれが本当のあなたです。わたしたちはこちらのあなた造ることに取りかかっています。新しい人を身につけて救いの達成にはげみなさい。」

 

女性の方が少し古いドレスを持っておられるとします。15年前に買ったものですが、まだぴったりでとても素敵なドレスです。あなたはずっとそのオーソドックなドレスが好きでした。するとある人が新しいデザインのすばらしいドレスをあなたにくれたとします。着てみるとご主人も見とれるようでした。さて、あなたは古い方のドレスと新しいドレスとどちらを選べばよいのか迷います。でも決まっていますね。あなたはあなたをびっくりするほどすばらしく見せる新しいドレスを選ぶのです。これが福音です。

男性の方に言います。あなたは20年前に買った車に乗っています。もう古くなり、車体にも傷やへっこみがあります。エンジンもスムーズには動きません。中も変な臭いが染み付いていて、恥ずかしいような車です。するとある人がフェラリを買ってくれます。真っ赤で格好がいいのです。あなたが家から出てくるとこの2台の車が停まっています。あなたはどうしますか。あなたはお金を払って、古い車を引き取ってもらうことでしょう。しばらくは新しい車のそばにたって道を通るひとに自慢することでしょう。運転するとスムーズで今までとは違って楽しい気分になります。あなたは違う乗り物に乗っているからです。「キリストの内にある」というのは、そういうことです。あなたは違う車に乗って、違う気分で今まで行ったことのない場所に行くのです。

 

イエスは罪のために十分に裁かれたと思いますか?もし十分でないのならば、ここにいる人で救われている人はいません。すべての裁きがイエスに負わされたのでなければ、私たちは決して自由になることはできませんし、救われることもないのです。御父はすべての罪への怒り、憤りの最後の一滴までイエスの上に注がれたと思いますか?そうならば、御父のうちにはもう何に対する憤りもないのであって当然です。ということは神はもう何に関しても怒ってはおられません。これは本当によく考えてみないといけないことですね。神がもし「もしもの時のために」怒りを少しでもとっておかれたとしたら、私たちと神との関係は100%確立しているとはいえません。御父はイエスをご自分から切りはなされ、すべての罪を負わされたのです。イエスは私たちのために滅ぼされたのです。イエスは始めて御父から切り離されました。それは私たちがもはや御父から切り離されることがないためです。私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを切り離すものは何もないのです。

 

 

古いものはすべて過ぎ去り、すべてが新しくなりました。私たちは古いものを改良するのではなくて、古いドレスや古い車のように捨てて、新しい栄光に満ちたものが来たのを見るのです。私たちは古いものから新しいものに移り変わるプロセスの中にいますが、取り扱うのは新しいものだけです。あなたが新しい人に焦点を合わせ、すべての状況はあなたが新しくなるために設けられたものだと知るのです。あなたがある状況の中に置かれたとき、今の自分はこれであり、将来の自分はこれであると見えるのです。それが「現在から未来へ」という生き方です。神は私がどのような者になるか、将来の私を知っておられます。ですから現在の自分から未来の自分との間に起こることはすべて私を将来の私にするために設けられるのであって、それは神によって予め決められている計画です。

 

 ですから何であれ、一つの状況とか環境(たとえ逆境のように思えても)に足を踏み入れた時には、それはまず第一に新しいあなたに関することなのです。私たちはその状況を神に不満として訴えるのではなくて、まず自分自身を神に捧げるのです。その状況はキリストにあるあなたがアップグレイドされるためのものです。ですからすべての状況はアイデンティティーに関することです。すべての状況、環境、困難、問題は、あなたがキリストに似た者となるためのもであるのです。

 私たちは神のもとに行き、この状況は神と私の関係において、どのような意味があるのですか、と問わねばなりません。これは私のアイデンティティーに関してどのような意味があるのですか、と。ですから問題が起こったときは、「ああ、私のアイデンティティーはアップグレイドされるんだ!」と思うのです。

 それがまず第一にすることです。「主よ、この問題の中であなたが私のためにどのような新しいお方になってくださるのか。今まで私が経験したことに中ではわからなかったあなたを教えてください。」と聞くのです。そのように考えるとあなたの前に状況、問題は全く違って見えてくるはずです。もしアイデンティティーのアップグレイドを目指さないならば、自動的にあなたは以前の古い人のアイデンティティーに戻るのです。そして不安になったりパニックに陥ったりします。それは過去の自分に戻り「現在から過去へという生き方」に戻ってしますのです。

 

学校の実験で一番好きだったのは、鉄くずをまいた紙の上に磁石を持ってくると、鉄くずが全部磁石に吸い付けられるというのがありました。

そのように「天のすべては私の中のイエスに吸い付けられている」のです。それはどういう意味でしょうか。これは新しいいのちの特権であり、それは神の祝福は私のうちにおられるイエスの故に私に吸い寄せられるということです。神の特別な恩顧、恵みはイエスの故に私に吸い寄せられます。私の中にイエスがおられるので私は祝福、特別の恵み、力を吸い寄せる磁石です。自分の故ではなく、イエスの故にです。御父は私たちをそのように驚くべきところに置いてくださいました。重要なのは、あなたが「自分は死んでいる」ことを本当に、本当に、分かることです。神は古いあなたのことを話したくもなく、取り扱いたくない、あなたとそれに関する会話もしたくないのです。あなたはそれに関して祈る必要もない、あなたはキリストにある新しい自分のことだけを考えればいいのです。

あなたにとって「全く新しくなる」とはどういうことかー今の瞬間からあなたの人生のすべてが新しくなるー神はあなたの中の新しいあなただけを取り扱われるーのです。私たちは「宗教」の中で古い自分で神との関係を築いて変っていこうとして来ました。罪悪感、自分は駄目だという思い、日によって神から離されていると感じたりします。私たちはいつも何かを謝ったり悔い改めたりしているのです。何かを悔い改めるならば、神は「もうそれは終ったよ」と言われるのです。悔い改めるならば、何かから悔い改めるのではなく、何かにむかって悔い改めてください。「神よ、私はキリストのようになる機会を与えられましたのに、それを用いませんでした。赦してください。」というようにです。古い自分を悔い改めるのではなく、新しい自分の姿に対して悔い改めるのです。

 

神があなたを見るときには、何も悪いところがないのです。神のところに行ったときの会話はすべて新しい人に関する話なのです。神は「あなたの古い人とはもう縁を切った。」と言われます。(終り)


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