「黙示録」の時代が迫り来る リック・ジョイナー 2016年10月10日
「黙示録」の時代が迫り来る
リック・ジョイナー
ヨハネの黙示録は「イエス・キリストの黙示(啓示 revelation)」という言葉で始まっています。この書の中には、イエスの最も栄光ある姿と主の花嫁(教会)について、そしてこれから起ころうとする最後の時代の事が書かれています。その結末は 聖書で最も励まされる未来に関するメッセージであると思います。しかしこの書の中程には歴史上最も暗く、最も恐ろしい出来事がいくつか予示され、反キリストや不品行な教会について書かれています。しかしそれらのすべてが「イエス・キリストの啓示」であるのです。どうしてこのように邪悪なことが「イエス・キリストの啓示」に含まれているのでしょうか?
「罪の人 man of sin」とは人間の罪を人格化したものー即ちキリストを持たない状態の私たちの姿です。暗黒時代に教会が堕ちた深い暗やみは、もし私たちがキリストを離れて「今の邪悪な時代」の霊に加わるならば、私たちが皆陥る暗やみを意味します。これは教会がローマ帝国の国家宗教になった後に起りました。
これは 起こるべくして起こった堕落でした。
イエスは「最後のアダム」と呼ばれます。そしてイエスの花嫁は、最初のアダムの花嫁イブと同じように誘惑を受けねばならなかったのです。キリストの花嫁も同じように罪に堕ちましたが、最後のアダムであるイエスは堕ちませんでしたし、ご自分の花嫁に罪の宣告もなさいませんでした。イエスは花嫁を贖うためにご自分の命を捨てられたのです。また主は花嫁を回復させる力も持っておられました。今もそうされています。イエスの贖いの力は非常に偉大であり、最悪の淫婦をも、しみ一つない花嫁に回復させることができるのです。
教会は教会を滅ぼそうとするイザベルの霊に常に屈して来ました。イザベルは当時働いていたその教会を滅ぼす霊を人格化したものです。黙示録にも見られるように、主は彼女に「悔い改める時間」を与えます。それはこの霊から解放されるためには時間がかかるからです。そして教会は、この霊との戦いに前進はして来ましたが、今日未だこの霊から完全に解放されてはいません。
過去の時代において、イスラエルは約束の地に到着するまでに、約束されたものとは全く正反対の荒野を通っていかねばならなかったことを私たちは学びました。この試煉は人々の一番悪い部分を露呈しましたが、同時にある人々の一番良い部分が明らかになりました。第一コリント10章には「イスラエルが荒野で経験したことはすべて私たちへのメッセージである」と書かれています。「霊のイスラエル」である教会も又、キリストの再臨と地上での御国建設という約束の地にたどり着くまでには荒野を通らねばならないのです。
イスラエルは40年間荒野をさまよいましたが、教会は今まで2千年ほどもこの荒野にいます。イスラエルのように、この間に教会の最も悪い部分が表面化して、人間の罪が人格化したものが主の宮に座ることさえありました。そして主の宮はそれが主であると思ったのです。もう一度同じ事が起るのかどうかはまだわかりませんが、歴史の中ではヨハネが予見した通りのことが起りましたし、初代教父の多くはそれが起こることを理解していました。
中世の教会がした出来事の多くは、キリストのご性質とは全く正反対のことでした。教会がそれをはっきりと認めるまでは、それが即ち私たちの仕えるキリストのご性質であると世界は認識し続けることでしょう。そして人々はイエスとその(真の)教会を拒絶し続けるでしょう。「歴史を知らない者はそれを必ず繰り返す」という原則を、教会はまさしく証明して来たのです。一つ前の世代が陥った霊的罠と同じ罠に殆どの世代が陥っているからです。今こそそれを理解してこの繰り返しのサイクルを打ち破る時です。その時にこそ私たちはヨルダン川を渡って約束の地に入る用意が整うのです。
歴史上で教会がキリストの名によって行って来た事を調べるとき、私たちはあまりにも恐怖を抱き、その時代から存続して来た教会組織を非難するかもしれませんが、それは間違いです。これを行ったのは「彼ら」であるという視点ではなく、「私たち」であると考えることを是非お勧めいたします。主の恵みなしには私たちも彼らと同じなのです。
歴史が証明することは、このような啓示(黙示録)を受けて淫婦の教会を罪に定めようと立ち上がる人達も、やがては同じ罪に陥るように思えてなりません。私たちが教会の罪の深さを認めるとき、しかし、その罪よりも十字架による神の恵みの深さの方がより大きいことを知らねばなりません。恵みは罪の贖いだけではなく、完全に和解させ回復させます。私たちはこれらすべての歴史をキリストの贖いの目的を通して見なければならないと思います。
過去の世界の暗やみが深かったように、この終末の時代に起こる闇はもっと深いものになるでしょう。しかしどれほど闇が深くなろうとも神の恵みが届かないような暗やみはではないことを私たちは忘れてはなりません。神はすでに贖ってくださったのであり、和解させ回復させてくださるのです。主は邪悪な者たちを滅ぼすために十字架にかかられたのではなく、彼らを救うためにかかられたのです。主は復讐のために戻ってこられるのではなく、主の相続遺産である国々を受け取るために来られるのです。
世界が陥った悪を主が見られたとき、主はそれを罪に定めることはしませんでした。主はご自分の命を捨ててこの世を贖ってくださったのです。この「イエスの啓示」は、キリストというお方が私たちの内に、そして私たちを通して世界に知らされ啓示されるのが目的です。それが起るためには、私たちは最悪の罪人に対しても目を逸らさず、彼らが救われるために自分の命を喜んで捨てねばなりません。悪を見たときにはその中に捕われている人の救いを願わねばなりません。私たちは、教会の歴史をも含む−すべてのことを、罪定めするのではなく、贖いの立場から見なければなりません。最悪の出来事でも、悪に捕われた人よりも自分の方が良いと考えるのではなく、それは恵みがないときの自分の姿であると考えるべきなのです。そして恵みに感謝し、自分が受けたと同じ助けを人々に与えたいと願わねばなりません。私たちはこのような見方と考え方を充分時間を取って心に入れる必要があります。なぜなら、私たちがこれから先に進むにつれ、今迄の歴史上顕された悪の深い闇ーしかもその闇の多くは今の時代にもまだ残っているーその闇の中をこれから私たちが通されるという大きなチャレンジを受けるからです。しかし、この時代の終りには教会は完全に解放され、多く赦されたものは多く愛するようになるのです。今は最悪の暗やみにいる者たちであっても、その人たちは義において、愛し贖うことを学ばなかった者や愛の成長が止まった生ぬるい者を、素早く追い越すことができるのです。
私たちは主への初めの愛を取り戻し、主と主の民ヘの愛をこれからますます成長させると決意しようではありませんか。
私たちは悪を見逃したり言い逃れをしたりはできません。しかし、もし主の愛が私たちのうちにあるならば、私たちはすべての人を、たとえその人の過去や現在の状態がどのようであっても、愛と贖いをもって見ることができるでしょう。(終り)