とりなし手とはどのような人か ジュディー・サリバン
とりなし手とはどのような人か
ジュディー・サリバン
祈る人ととりなし手の違いは何でしょうか? 殆どのクリスチャンは祈りますが、すべての人がとりなし手ではありません。とりなしとは神とのコミュニケーションの手段であり、その点は祈りと似ていますが、祈りよりずっと深みへと入っていくものです。普通人々が祈るのは非常に個人的な事柄が中心となりますが、とりなしは自分では祈ることができない人達のために祈ります。辞書によると「とりなし intercede」の意味は「和解させる意図でグループ間に介入する 仲裁する」とあります。とりなし手は人のために神の介入を願って「破れ口」に立つ者です。アブラハムがソドムを滅ぼさないようにと神に嘆願したとき、彼はとりなし手の役目を果たしていました。(創世記18:16−33)イスラエル人が金の子牛を造り拝んだときモーセはとりなし手として彼らを殺さないようにと神に嘆願しました。(出エジプト32)ご自分のいのちをすてて人類が神と和解するための道を備えられたイエスは、究極のとりなし手でした。
とりなし手とは、裁かれるのが妥当である時に神の憐れみを乞う者のことです。彼らは第二歴代誌7:14の「わたしの名を呼び求めているわたしの民が自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」という神の呼びかけに応答したのです。
自分の事ではない
真のとりなし手は自分本位ではない者であり、彼らの最高の目的は自分がとりなしている人のために命を捨てることです。熱心な祈りをもってある人やある場所と、それらに害を加えるものの間に立つのです。とりなしている相手と一つになり、彼らのために願い求め、嘆願し、彼らを苦しめている問題と戦うのです。憐れみや赦しを受ける権利のない人達のために願い求めます。とりなし手たちの祈りは霊的空気を変え、一日を制し、天を揺り動かし、悪霊を追い散らします。とりなし手はこれは自分の事ではなく、主の事であり、人類に対する主の愛、そして主の贖いのご計画に関することであることを理解し悟っています。
とりなし手は秘密の祈りの場で破れ口に立つ隠された者たちであり、他人のために悔い改め、主のご介入を叫び求める者たちです。彼らが公の場で祈るとき、その祈りは豊かでいと高き神の秘密の場所でじっと待ち望んだ者だけが持つ権威があります。真心を尽くして主を喜ばせ主に仕えることが彼らの焦点です。彼らは油断せず目を覚ましています。私たちの真の敵は人ではなく、悪魔がほえたける獅子のように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っているのを知っているからです。(1ペテロ5:8)虜になっている人たちを解放し、彼らが主のすべての慈しみを味わうことができるようにすることに、とりなし手は情熱を持っているのです。
イエスは人類が神と和解するための道を作るためにご自分の命を捨てられた究極のとりなし手でした。とりなし手に関するステレオタイプや空騒ぎを通りすぎるならば、これが本当に尊い召しであることがわかります。主に自分は何であるのかを尋ねてみてください。あなたが隠された者の一人、世界級のとりなし手になりつつあるかどうかを訊ねてみてください。
自分の目的を知る
今日「自分が何者であるか」発見するための多くの本や教えがあります。リック・ウオレンの「人生を導く五つの目的」やランス・ウオルナウの七つの山に関する教えはよい資料です。どの山のために自分が召されているかを理解し、自分はなぜ造られたのか、短い人生で何をするべきかを理解するのは、実に教会の覚醒となりました。目標を定めない人生は無謀であり無意味です。聖書にも「Where there is no vision, the people perish.ヴィジョンが無ければ、民は滅びる。」(箴言29:18)とあります。
とりなし手として自分が主にあって何者であるかを知ることが、自分の役割を果たすための鍵となります。自分の役割を悟ったならば、私たちの祈りは新しいレベルの権威を持ち、すべてのことが可能になるでしょう。あなたがその人のために祈っている人が、自分が真に何者であるかがわかり始めるならば、どんなにすばらしいことが起るか想像してみてください。
個性、性格を越えたもの
普通言われていることに反して、私たちの人生に対する神の召しが私たちの性格と一致することは極めて稀です。ダビデは子どもの時に油注がれた王でしたが、家族の中では最もそれにふさわしくない者でした。モーセは神に選ばれた解放者でしたが、言葉を明瞭に話すことができませんでした。ギデオンは酒ぶねの中に隠れていたときに「勇士」と呼びかけられました。シモンは岩とはほど遠いものでしたが、イエスは彼を岩という意味のペテロと呼ばれました。主が召されたときに彼らのアイデンティティーは明らかではありませんでした。彼らはみんな「勇気のテスト」に落ちていたことでしょう。彼らを勇敢にしたのは油注ぎだったからです。
イエスの母であるマリアも普通の若い女性でした。彼女の未来のプランは、多分私が彼女と同じくらいの時に持っていたものとさほど変らなかったでしょう。しかし彼女が神と出会った時、すべてが変わりました。「あなたは歴史上もっとも重要な母親になる」とマリアに告げた時、天使ガブリエルは彼女に性格テストを受けるようにとは言いませんでした。マリアは多分そのように高い召しが要求するプロファイルには今日の基準からいえば適合していなかったことでしょう。私たちがなるべきために生まれた者となるためには、神との出会いが必要なのです。
プロセスを大切にする
自分が何者であるかを悟ったとき、まだそこに到達する途上であっても、私たちの確信は大きくなります。まだ世界級のとりなし手ではないかもしれませんが、多くの先達と同じように、神は「無いものを有るもののようにお呼びになる方」であるのです。(ローマ4:17)
私たちはいろいろなことの総合的組み合わせによって知られ確認されます。外面的には歩き方、話し方などの外観で知られます。内面的には個性や感情で知られます。私たちの文化習慣が私たちを形造る大きな役割を果たします。生まれ育った時代が影響を与えます。所属する教会が性格を形成する助けとなります。多くの点で親や兄弟姉妹に似てきます。私たちの人生の歴史のすべてが生き生きと役目を果たし霊的な遺産となります。
主が私たちを召されるとき、主は私たちの歴史を払拭はしません。そのすべてを用いられてキリストにある新しい者を造られます。私たちの今までの経験のすべては、私たちをキリストの似姿とし真の召しを引き出すために用いられます。私たちの今までのすべての間違いや犯したすべての罪は、主がご自分の性格を私たちの人生の中に育てるために用いられる苗床の土壌となります。
主の赦しの中で起こる奇蹟の一つは、私たちがどのような者として造られたのかを見出すことです。困難な人生の中で学んだことは私たちの霊的DNAに記録され、敵が攻撃したまさにその所でより大きな権威を私たちに与えてくれるのです。
あなたのアイデンティティーを守れ!
私たちのアイデンティティーは私たちの受けるべき遺産であり長子の権利です。エサウは少しの食物のために長子の権利を売りました。放蕩息子は一時の快楽のために遺産を浪費しました。もし長子の権利を売るならば、自分のアイデンティティーを他人にやってしまうのです。聖書は私たちが持っているものをしっかりと守って誰からも冠を取られないようにと警告しています。私たちの人生の一瞬たりとも無駄になることはありません。それはすべて私たちが何者であるかを形造る一部なのです。
私たちは、血縁、環境、文化の中から生まれたものです。もししっかりと聞くならば、主は私たちが何者であるかを教えてくださるでしょう。自分の真のアイデンティティーを悟り、自分の長子の権利を知るならば、正しい場所で正しいことをするように私たちは焦点を当て続けることができるでしょう。
神が任命するとりなし手の召しには肩書きとか学位は必要ではありません。この役目のために一番適切な個性とか性格のタイプもありません。試煉や厳しい苦難を通って燃え尽きた灰の山の中から、新しい種類のとりなし手たちが今現れてきていると思います。真の先駆者と同じように、私たちは困難を通して物事を学び、自らの失敗によって砕かれました。戦場で前線に立つことによって、自分の中には外の敵よりも偉大なお方が住んでおられることを学んだので、大いなる戦いが始まる時私たちは勇敢でいられるのです。
主は今主のとりなし手たちの目を覚まされています。今はわくわくして生きる時です。これは尊い召しです。あなたは今まで機会を逃し主の招きに応じなかったかもしれませんが、神は二回目のチャンスを与えてくださる方です。主は今やり直しのボタンを押しておられます。今日私たちは勇敢に私たちの召しへと踏み出していくすばらしいチャンスがあるのです!(終り)