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Walk With God Ministries

08 8月

隠された宝と二倍の取り分      キャシー・ペルトン        2016年8月8日


隠された宝と二倍の取り分

 

キャシー・ペルトン

 

信仰とは見えないものを信じて望むことです。私たちは主から「約束」や「指示」を聞いたとき、それが必ず起こるという目に見える保証がなくても、その約束の中を歩みはじめます。保証は主のことばの中にあります。それは主が忠実な方でありご自分のことばを必ず守る方だからです。

神からの約束や指示を聞いたときそれが実際どのように可能になるのか、どのように起るのかが全くわからない時に、私たち家族が信仰で一歩を踏み出した多くの人生の旅についてある友人に話す機会が最近ありました。主の忠実さを証明する多くの体験を思い出しながら話している間中、私は 隠された宝が今にも与えられようとしているヴィジョンを見ていました。

 

信仰で踏み出す

 

私たち家族に主が「今日から6週間後に違う国に引っ越すように」と言われた時のことを私は友人に話しました。私たちはその8ヶ月前に新築の家を購入したばかりでしたのでローンの支払いもあり、子どもも4人いるのに、どうしてそのような事を主が言われるのか、本当に主の御声であったのかと悩み苦しみました。多くの祈りと多くの確証を得て、私たちは「それは確かに主からの指示である」と結論づけました。私たちは家を売りに出し国外に移住する準備を始めました。

出発の日になりましたが、まだ家は売れておらず、経済的なサポートも殆どなく、ビサも取得できておらず、ただ行き先までの旅費があっただけでした。目に見えない約束を信じる信仰だけで私たちは新しい国へと出発したのです。

「私たちは信仰に満ち満ちて恐れはなかった」と申し上げたいところですが、正直なところ私たちは怯えていました。以前一度だけこれと同じ位未知の世界へ踏み出したことがありましたが、それはまだ私たち夫婦に子どもがいない時でした。私たちは4人の子どもたちを眺めながら「私たちが確かに神の御声を正しく聞いたのでありますように」と祈りました!それから新しい国で暮らした何年かを通して、私たちは神が常に隠された宝を私たちのために用意していてくださることを学んだのです。それは住居、人脈 、人間関係、物資、収入という形で現れました。

私たちに必要なものが何処から来るのかわかっていたことは一度も無かったように思いますが、それはいつも来たのです。私たちが予想するような所からではなく、考えたこともない思いもよらない所や理解できない所から来ました。私たちはいつもびっくりし続けていました。主がお言葉をくださっていたのですから驚くべきではなかったのですが、でもやっぱりいつもびっくりしていました。

イザヤ45:3「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ。」

 

今も私たちは毎月の必要を目には見えないものを信じる信仰で与えられています。思いがけない必要が突然起こることがあります。その時は心を静めて「神は隠された宝を蓄えておられ、神のタイミングでそれを必ず与えてくださる」ことを思い起こすのです。これは定収入のある人にとっても同じだと思います。

 

生きたとりなし

 

私は「神が示される事のためにとりなす」という召しを受けている預言的な者ですが、キリストのからだの多くが経験していることを私も常に経験させられています。それはとりなし手に課せられた「重荷」ではなく、聖霊のパートナーとして共同作業をするという任務です。この任務は、敗北ではなく必ず勝利する方のパートナーになることですから大きな喜びを与えてくれます。

この2ヶ月、私は魂に大きな圧迫を感じる経験をしました。同時に私たち夫婦はお金が足らない、それもひどく足らないことに気がつきました。もう何年も見えるものではなく信仰で歩むことを学んできたので、私は平安と神のブレイクスルーの確証を信じてこの嵐を耐え忍ぶことを会得していました。

しかし今回気がついたのは、私がよく眠れなくなったことでした。パニック状態で目を覚ますようになりました。 神の慈しみを確信して平安に眠りにつくのですが、夜中に息苦しくなって起きるのです。怖い夢を見たのではありません。熟睡している時に魂に氷水をかけられたように感じて起きるのです。

 

これが何回か起きたとき、私は何が起っているのか、どうすればいいのかと主に訊ねました。主はこう答えてくださいました。「わたしの息子、娘の多くがパニックと絶望を味わっている。彼らに仕掛けられている悪魔の業を克服するために、あなたがわたしのパートナーになってくれるようにわたしは願っているのです。」

とりなし手たちはイエスのパートナーになるのです。イエスは人々のために既にすべてに勝利された方です。主とパートナーになるのは光栄なことですが、その任務をはっきり認識しないと非常な重荷になる可能性があります。主とパートナーになるという招きを理解するならば、あなたはあなた個人の戦いから目を移して、キリストのからだが約束された勝利を受け取るための戦いに焦点を合わせることができます。

自分はとりなしの任務をもって生活していると認識したので、私は忍耐して主が求めておられるとりなしをすることができました。今とりなしという特別の任務は多くの者に明らかにされ、 主のパートナーになることに同意した人達の祈りによって遂行されているのです。

 

私はこのことを二つの理由から皆様にお話しています。まず第一にパニックや絶望的な状況に直面しているすべての人が、イエスは自分の問題をすでに処理されておられ、解決が今来ようとしていることを改めて確認できるようにです。第二にとりなし手として召されている人たちが、自分が感じている重圧感、圧迫感は「自分の痛み」ではなく、苦しんでいる息子、娘たちのために主ご自身が感じておられる「主の痛み」であることを忘れないためです。

私たちが苦しみの中で主のパートナーとなるならば、 栄光の中でも又主のパートナーとなるのです。それは主の助けが必要である人達に解放が来るのを見るからです。

1ペテロ4:13「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」

 

感謝せよ!

 

もしあなたが今圧迫や重圧を受ける「任務」に直面しておられるなら、主はあなたを慰めたいと願っておられます。私があなた方のためにとりなしをしているときに 「感謝せよ!」という御ことばを聞きました。詩編107はこのように始まります。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

そして続けて、主が長い年月の間にご自分の子らにどれほど何度もいつくしみを施されたかを述べています。主による解放といつくしみの業を一つひとつ述べたあとに、必ず「主に感謝せよ」という宣言があります。

この詩編を読んでいるとき、私は主が主の民の賛美の上を手にかまをもって敏速に馬で駆ける姿を見ました。この幻は変化し始め、大いなる苦しみの中に閉じ込められた男女の幻に変わりました。彼らは助けを求めて叫んでいましたが、その叫びは突然主のいつくしみを感謝し宣言する叫びへと変りました。

彼らが感謝の宣言をしたとき人々の声の勢いは増し加わり、イエスが彼らの感謝の叫びの上を駆けめぐりました。主の手にある鎌が 突然素早く動き、人々の上に重くのしかかって 圧迫していたすべてのものを打ち壊して彼らを解放しました。

彼らは解放され感謝のいけにえの叫びを解き放ちましたが、その時彼らの身体は喜びの賛美で満たされました。そして彼らは主と共に馬に乗り、一緒にこの鎌を持って捕われ人(男や女、都市、国家)を解放するために出て行きました。解放された者たちは神の大いなる軍隊に参加するのです。

詩編107:21、22「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。」

 

私は聖霊が多くの人に「感謝のいけにえ」の叫びを解き放つようにと呼びかけているのを感じました。それは あなたや人類に対する主の慈しみへの感謝のいけにえの叫びや宣言、或いは行動かもしれません。それがあなたのブレイクスルーのための鍵となるでしょう! ただブレイクスルーを得るために賛美のいけにえを捧げるのではなく、主がそれにふさわしいお方であり、それが真実であるから捧げるのです。(終り)


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