アメリカのクリスチャンの政治家から学べること 坂 達 也
アメリカのクリスチャンの政治家から学べること
坂 達 也
先週から今週に掛けて、今アメリカでは大統領選挙の山場の一つである、二つの政党がそれぞれ大統領候補を最終的に選ぶ党大会が行われています。そこで先週行われた共和党の大会で起こったことの一つをお伝えしたいと思います。
ご存知の通り、共和党はドナルド・トランプ氏を最終候補として選びました。しかしそこに至る迄、特に初日にトランプに反対する人たちが会場の内外で相当激しいデモを行い、不穏な空気に充たされましたが、幸い大事に至らずに無事終了しました。
トランプ反対派の主流は、既に選挙から降りた二番手のテッド・クルーズ候補を押す人たちでした。全体の票数から見てクルーズに勝ち目がないことは明らかでした。通常党大会では、既に確定がほぼ決まっている presanptive 候補者が、大会で演説する顔ぶれを選ぶことと共に、その内容をチェックすることができます。大概の場合は、自分をサポートする人だけが演説するように選びますが、トランプは、クルーズが彼に反対の態度を崩さないことが分かっていても、彼が壇上から演説する事を許しました。それは二つに割れかけた党を最終的に一致させることが今は最も重要な時であり、トランプがクルーズに握手の手を差し出したのですが、クルーズはそれを受けなかったのです。誰の目にも彼がいかにトランプからひどいことを言われたかをよく知っております。しかしクリスチャンであれば、いつまでも根に持たず相手を赦し、この際は特に党の一致のため、クルーズがトランプに投票すると言うか、あるいは自分を押している人々をなだめ、反対をこれ以上しないように呼び掛けることが期待されましたが、残念ながらそれは実現しませんでした。今回の選挙では候補者が保守的クリスチャンであるかどうかが大いに問われました。そして、クルーズこそがその保守的候補に最もふさわしいと言われていただけに、会場は大きな失望の色が隠せず、多くのクリスチャンからこれで将来クルーズが大統領になる可能性ー政治生命は終わったとまで批判されました。
今は世界中で非常識な迄の考えられないような悪行が氾濫しています。それを見て嘆き憤り、批判することは誰でも出来ます。しかし、そこでクリスチャンと未信者との差が出てくるとすれば、クリスチャンは相手が非行を犯せば犯す程その人のために祈り、とりなすはずであることが聖書に書かれていることです。そのことをフランジペン師が非常にタイムリーに説いていますのでご高覧下さい。
あなたはどのような者になりつつあるか − クリスチャンのパリサイ人になってはならない
フランシス・フランジペイン
ルカは12使徒の名前を列挙していますが、イスカリオテのユダに関して、6:16で「後に裏切り者となったイスカリオテ・ユダ」(新共同訳)と言っていることが私は意味深いと思います。
まず一つの質問をさせてください。 これは真面目な問いであり、あなたが自分に問う最も重要な質問かもしれません。あなたは今どのような者に「なりつつありますか becoming 」? イスカリオテ・ユダは「裏切り者となった」使徒でした。彼は他の使徒と同じように「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出して(マタイ10:8)」主に大いに用いられていました。彼はイエスと個人的に共に歩む興奮と喜びと力を味わい、奇蹟、しるし、不思議を多く見たのです。
しかしユダには重大な性格の欠点、即ち道徳的弱さがありました。神に重用されていたにもかかわらず、ユダは「盗人であった(ヨハネ12:6)」と書かれています。彼はお金を収納する箱からお金をくすねていたのです。私たちはしばしば「主はそれが何であってもその罪を指摘し問いただされるに違いない」と考え勝ちです。しかし私たちが繰り返し犯す罪に対して何も言わずに沈黙されることによって、主はご自分の叱責を表される場合があるのです。ユダは自分がしていることが悪いことを知っていましたが、イエスはそれに関して直接咎められませんでしたので、彼は自分の罪の重大さを過小評価していたのです。彼は「お金をくすねることが本当に悪いのならば、神は私に奇蹟など起こさせるはずはない」という理屈をつけていたのかもしれません。
少しのパン種が粉全体を何と大きくふくらますことでしょうか! 私たちがあまり注意を払わない比較的小さな罪が、私たちの人生を破壊する大きな罪になっていくのです。聖書は、ユダは裏切り者になった(became a traitor)と言っています。彼はイエスに忠実に仕えて働く者として出発しましたが、金銭のことで嘘をつき始め、遂には堕落し暗やみとなった心を内に秘めるようになったのです。ユダは裏切り者になった盗人であり、最後には自分で命を断ちました。罪に対する彼の妥協は次第にエスカレートし、遂には彼を破滅させたのです。
今日クリスチャンが世の中を見ると、そこには不正、不道徳、腐敗を見ます。これらを見て私たちが怒るのは自然であるばかりでなく、正当なことです。これらの罪を見て怒らないことなどありえるでしょうか。多く場合、 世界に起こっている事件、人間の言動を見る時、実際そこに地獄そのものを私たちは見るのです。
私たちがこの世の邪悪さを見て悲しむことを神は知っておられるので、御言葉は「怒っても、罪を犯してはなりません。(エペソ4:26)」と教えています。どの時点で怒りが罪へと堕ちていくのかを私たちははっきり見極めねばなりません。パウロは続けて、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と言っています。私たちが本当に間違っていることに対して怒ることは正しいことであり道理に適っています。しかし私たちの怒りの表現は、それに留まらずもっと高潔で、物事を贖っていく態度でなされねばなりません。
それは受け身で無関心な態度をとることではなく、積極的なとりなしへと立ち上がることです。私たちは不義に対しても同じ感情を持ちますが、「父よ、彼らをお赦しください。」という「憐れみの祈り」を祈ることを学ぶのです。
ステパノが石で打たれ死ぬときに、イエスを見上げて「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。(使徒7:60)」と祈ったことを思い出します。私たちが不正に直面したとき、神がイエスの新たな啓示を私たちに与えてくださり、それによって私たちが裁きを願うのではなく憐れみを祈ることができるようにして下さいます。ステパノの「憐れみを願う祈り」によって神の恵みが解き放たれました。その恵みがサウロに流れることによって、サウロもイエスを見ることができたのです。お分かりでしょうか、もし自分が感じる怒りをきちんと対処しないならば、そしてもし不正に対して憐れみととりなしで応答しないならば、自分が決して意図しなかった何者かになっていくのをやがて見ることになるでしょう。もう一度言わせてください。ユダは裏切り者になったのです。
ユダは奇蹟を行う使徒から裏表のある二重生活をする者に「突然変異」したのです。私たちの怒りは、もし放っておけば同じことをします。自分が絶対なるつもりもなかった者に退化していくのです。即ち「クリスチャンのパリサイ人」になっていくのです。
パウロは「日が暮れるまで怒っていてはいけない」と警告しました。それはあたかも問題解決には長くても24時間しかないと言っているようです。(しかしそのような解釈をしてはならないのです。むしろ、日暮れ迄にはその怒りを赦し心からのとりなしの祈りに変えねばならないという意味です。)私も人生の中で私の怒りが取り去られてとりなしへと変革されるのに、何ヶ月も格闘したことを認めます。ですから皆さんも心から苦々しさが取り去られ、とりなしのための力が与えられるまで格闘し続けてください。
今日のアメリカには怒り憤慨しているクリスチャンが有り余っています。どうすればよいでしょうか? 私たちは憤りをとりなしへと転換させねばなりません。心に苦しみを感じたときは、それを私たちの益となるように用いねばなりません。即ちキリストと一つになって贖いの祈りをし、本当に迫害する者のために祈ることです。
感謝なことにイエスは十字架からパリサイ人を見下ろして「あなたたちは基本から学ぶ必要がある。」と批判はされませんでした。そうではなく、主は「父よ、彼らをお赦しください。」と言われたのです。驚くべきことに「彼らは何をしているのかわからないのです。」と言われ、彼らの罪をかばわれたのです。
教会の中に浸透しているクリスチャンの憤りは、天からのものではありません。あなたの怒りをほんの小さな罪として決して片付けないでください。それはモーセが約束の地に入る資格を無くしたのです! 物事の正否に関する憤りよりももっと重要なことがかかっているのです。 聖書的に正しい私たちクリスチャンが、道徳的に間違っている人々とどのように関わっていくかを世の人々はじっと見ています。私たちの言葉が救い主イエスのものか、それともパリサイ人のものかをじっと見ているのです。
しかし、この世が私たちをどのように見ているかということよりも更に重要なことがあります。それはキリストがどのように私たちを見ておられるかということです。主は私たちの心に何が起っているかを見ておられます。主は一人ひとりにシンプルな質問をされます。「あなたは自分がどのような者になりつつあるかわかっていますか?」(終り)