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Walk With God Ministries

11 7月

痛みの祝福     ブライアン・ジョンソン            2016年7月11日


痛みの祝福

 

ブライアン・ジョンソン(ベテルチャーチ・ワーシップリ—ダー)

 

ダン・ポッター師の奥さんがワーシップについて教えに来てくださった時にこう言われました。

「『I will give you all my worship(主よ、私のすべてのワーシップをあなたに捧げます)』という歌がありますが、実際のところ『I will give you some of my worship(わたしのワーシップの一部をあなたに捧げます)』と歌うべきでしょうね。」

確かに私たちの日常のワーシップを表すには、その方が正確な言い方ではないでしょうか。100%のワーシップをしているとは言いがたいです。しかし、本当に徹底的に打ち砕かれた時、私たちは100%全面的に神の恵みだけで生かされていることがわかるのです。自分では何もできないことを知るのです。それは本当にパワフルな瞬間です。今日はその事をお話したいと思います。

 

今日教会のキャシーさんが私が小さかった頃のことを話してくれましたが、一つのことが私によい意味で衝撃を与えました。

「ブライアンが2歳の頃、 頭をドアにぶつけて転びました。でも彼は痛さを感じなかったかのように立ち上がり、親指をしゃぶりながらお気に入りのブランケットをもって歩いていきました。」

小さい時のことはあまり憶えていないのですが、その小さなブランケットは今でも持っています。もうかなりすり切れていますが、くまのプーさんの黄色いブランケットです。

でもこれを聞いた時、私はあることがわかったのです。人生の大部分、私は自分の「痛み」を丁度そのように処理してきたのです。「痛み」の対処法は人それぞれ違いますが、私は非常な痛みを感じたとき、それを心の奥にしまい込んで「私は大丈夫」と言ってきました。それは昔ながらのアメリカ男性の典型ですね、いつも「俺は大丈夫さ」と言うのです。しかし現実は大丈夫ではなくて、痛みを抑えてしまい込んでいたのです。痛みを感じたとき、それに対してどのように反応すればよいかも私はわからなかったのです。痛みをもっている本当の自分に面と向かうのを避けていたのです。そのように人生を過ごしていたのですが、2015年の7月に遂に行き詰まってしまいました。

 

私たちは何としてでも人生の痛みを出来るだけ経験しなくて済むように努めますが、痛みと決定的に直面した時、多くの場合、自分のデスティニーを発見するのです。すべての慰め、言い訳がなくなった時、あなたは痛みと向き合わねばなりません。」仕事を終えて家に帰ったとき、あなたは何をしますか? ビールを飲みますか、テレビでスポーツを見ますか? 沢山食べますか? そのようなことがすべて取り去られてもあなたは十分幸せで満足ですか? それらのことは別に罪ではありません。でも「スポーツを見る」ことも罪になり得るのです。それがあなたがきちんと向き合わねばならない問題から気を逸らし紛らわせるものになっているならばです。私は今までの人生、ずっとそのようにしてきました。アメリカの文化は、男ならタフであるべきであり、痛みを感じていることを認めてはいけないというのです。しかし私たちは神によって痛みを感じるように創られており、その痛みは父なる神のもとに置くべきなのです。イエスはすべての痛みを感じられましたが、それをすべて御父の足元に置かれました。そして次の働きへと出て行かれたのです。

 

ここに風船がありますが、これをあなたのこころだと考えてください。もし痛みや恐れ、他のあらゆる感情をこころに溜め込むと、風船は膨らんでいきます。私たちは御父の下にいき、それをすべて吐き出さねばなりません。しかし、そうしないでずっとそのまま溜め込んでいる人がいます。「私は大丈夫,私は大丈夫」と言い続けるのです。私がそうでした。自分のこころに何が起っているのかわからなかったのです。そして風船はどんどんと膨らんでいき、ある日突然破裂するのです。そしてそれは100倍もすさまじい破裂となります。許せない思いや、苦々しさ、痛みの重荷は自分では決して背負いきれないのです。世界中で一番強い人にも無理なのです。いつか破裂します。そして私にそれが起りました。

 

去年の7月のことです。CDの仕事が一段落したところでしたが、様々な問題を経験し大きなストレスを抱えていた時でした。息子と外でトカゲを取っていたのですが、 なんとなく変な感じが身体にしました。私はあまりエモーショナルではないのですが、なにかこころにおかしな感覚がありました。自分が自分でないような気持でした。それで息子と家に帰り妻に話ました。私は小さいとき時々パニック症状が起り、そのときはヨシャパテのように神をワーシップすることでアタックから解放されました。それでその時も私は外で一時間ほど歩きながらワーシップしました。しかしこの時はまったく様子が違っていました。自分は気が狂うに違いないという思いがあり、身体も震え胸が苦しく息ができませんでした。家にもどりワーシップ音楽をかけて何時間も歩き回りました。私はナーバスブレイクダウン(神経衰弱)を起こしていたのですが、自分では何なのかわかりませんでした。両親や友人達が駆けつけてくれました。

 

自分の意志ではどうにもならない、自分の力ではどうしてもそこから抜け出すことができない状態です。まったくコントロールがきかないのです。永遠に苦しみが続くように感じて死にたいと思うのです。心臓の鼓動が激しく「もう駄目だ、もう無理だ、これ以上無理だ。」と言っていたのを憶えています。救急車が到着し、私は酸素マスクをつけらえて病院に運ばれました。神だけにしか答えがないというような状況に追い込まれたときは、それは偉大なギフトだと思ってください。痛みがあまりにも深く、神だけが答えであると感じるとき、それはすばらしいギフトだと思ってください。どんな麻薬でもそのような痛みを無感覚にすることはできません。

 

「信仰とは、神さえいてくださればそれで十分であるという内なる確信である。」という言葉があります。聖書の中で救い主を求めた人はすべて、自分の必要を認識した人でした。金持ちでも貧乏人でも、パリサイ人でも異邦人でも、自分には救い主が必要だと心から知った人はイエスのもとに来ました。多くの人は自分の罪を知り自分が穢れているのでイエスの元に来て赦しを受けます。けれどもそれは第一段階にすぎません。次にあなたは走って主についていき、主を見上げねばなりません。その時にあなたは決定的に変えられるのです。あなたが主を見るからです。

 

ナーバスブレイクダウンの期間、私は多くの深い痛みを経験しました。私は震えていました。家の中で子どもたちが騒ぐ時に、いたたまれずに外に出ました。些細なことでも神経にさわり耐えることができませんでした。働くこともできませんでした。私に少しでもストレスを与えるようなことは誰も話せませんでした。庭の芝生がのびているのを見るだけでパニックの発作が起きました。ある時少しでも癒されるかと思い、妻とナパの方に出かけました。けれどもそれは地獄のような旅になりました。毎晩私の胸は死ぬほど苦しくなり発作が起りました。でもそれが私の人生の重要なターニングポイントだったと思います。帰り道の車の中で、私は呼吸が早くなりまた発作を起こしそうになっていた時、妻が人を赦すプロセスに導いてくれました。私の中にそのような必要があることを私は知りませんでした。車の中に神が共にいてくださるようでした。

 

長い苦しいドライブの後家に戻りました。私の苦しみ、痛みはますます激しく、「この苦しみを感じなくてすむならば何でもします」と私は泣いて叫んだことを憶えています。そしてその時、私は神と正しい関係に入ったのです。私は小さい時から神を信じていましたし、神から離れたこともありません、犯罪を犯したこともありません。これまでずっとクリスチャンで神を愛していました。でもこの時、神との関係が正しくなったのです。そして私は日夜、聖書を読み続けるようになりました。それから5ヶ月の間毎晩ワーシップソングを聞きました。それはすばらしい神との交わりであり、私は「癒されてもこのような主との交わりを失いたくはない」と思いました。私の親しい友人であるダーリン・チェックさんも癌と戦っていたときの神との親密な関係を失いたくないと言っていました。私はずっと教会で育ちましたし、神を知っていました。でもこのときの親密さは特別でした。

私は聖書を読み、特に福音書の中のイエスの人生を読みました。何か教会で話さねばならないからとか、何かを得ようとか、何か曲が与えられないかとかいう目的で読むのではなく、ただ主と共に時間を過ごし主を知り友情を深めたのです。あたかも一人孤島にいて唯主と交わるためだけに生きていたようでした。そのように打ち砕かれることのすばらしさはそこにあります。

 

イエスは重大な出来事の前には、必ず御父のところで時を過ごされました。そして力を得たのです。それが私たちが歩むべき人生のパターンです。祈りの課題とか嘆願を持たずに、ただ主のもとに行き親密な時を過ごすことがすばらしいのです。それを繰り返し行うことが大切です。御国のことは食べれば食べるほどもっと食べたくなります。あなたが本当に必死であれば、早朝に起きることもできるのです。

1サムエル30:6に「ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」とありますが、私たちも主から力を受けることを学ばないでクリスチャン生活を続けることはできません。

 

ジョージ・ミューラーはこう言っています。「毎日私がするべき偉大な仕事は、神のもとに行き、私の魂に喜びを受けることである。」

朝のデボーションは私が生きるために不可欠なものとなりました。人生で私が持っていたすべての疑問の答えは神との秘密の場所に隠されていました。私たちは啓示を受けよう、答えを得ようとしますが、その方法が間違っていると思います。それを得る唯一の道は神と親しい関係になることです。それを得るために近づくのではなく、神と友達となるために近づくのです。神の声を聞く人はそのような関係を持っている人達です。

 

聖書に関しても私はシンプルな事しかできませんでしたから、毎日一節だけ選んで、その日一日それを生活の中で実践するように務めました。幼稚園児がするようなことですが、実行すると非常にパワフルでした。皆さんにもお勧めしたいです。ずっと教会生活をしていると、聖書を読む時、そこから深い真理や新しい啓示を受け取りたいと思います。でも実際は家族に対して忍耐ができなかったりするわけです。

ペテロがイエスを否んだ前日に、自分は決してイエスを見捨てないと自信をもって断言したように、私たちも「自分は神をこころから情熱的に愛している!」と自信を持ちます。でも実際それは自分の情熱に確信を持っているのであって、その幻想にしがみついているだけなのです。自分が真に打ち砕かれて「恵みだけ」が自分を支えていることを本当に知らねばなりません。

 

人は自分の賜物や成功、功績で人々から称賛されたいと思います。私も「こんな歌を作った、こんなCDを出した」と思っていたのですが、突然私の風船は破裂したのです。人との会話もうまく出来ず、のびた芝生を見るだけでパニックを起こしたのです。神が喜ばれるのは神にだけ頼り切る信仰です。私たちの賜物、成功、功績はもともと神が与えてくださったものですから、神はすでにご存知です。神は私たちが完全に神に拠り頼むときに感動されるのです。

 

私の父(ビル・ジョンソン)はすばらしいです。病気になり手術を受け今回復していますが、彼は今まで自分が説教してきた真理を毎日生きています。どのような状況にあっても神に絶対的無限の信頼をよせているのです。そのようなシーズンの父を見られるのは本当にうれしいです。

 あなたは人の賛辞、又は批判で揺り動かされることなく、ただ神が永遠の価値観から見た評価だけをしっかりと心にとめて生活すればよいのです。人からの賛辞はうれしいことですが、それだけを拠り所にするならば、あなたは上がったり下がったりの情緒不安定な人生を送ることになります。神への確信は私たちにバックボーンを与えてくれます。すべての事は100%神の恵みであることを知り、神に100%信頼し、100%のワーシップを捧げて生きようではありませんか。(終り)


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