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09 5月

愛が何よりも大切なもの   リック・ジョイナー           2016年5月9日


 

愛は何よりも大切なもの

 

リック・ジョイナー

 

黙示録2:4、5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

 

主はエペソの教会が「初めの愛」を失ったことを叱責しておられます。私たちはクリスチャンとして、同じ過ちを犯さないように一番に気を付けねばなりません。私たちはあまりにも「主のための仕事」に熱中するあまり、本来の召しである主との関係を深めることを忘れてしまうのです。これはすべてのクリスチャンや教会、ムーブメントが必ず遭遇する最大の問題です。当初「初めの愛」は大きな恍惚感を与えるので、私たちがいつも主に夢中になっていることは簡単です。しかし少しずつ主に慣れ親しんでくると、初めの情熱を次第に失っていきます。

 

まず主と「恋に落ちる」情熱を経験し、その後クリスチャンとして成長し主との関係を深めている人も、当初のあのように激しい情熱を持ち続けることは実際可能なのだろうか、と訝しく思うのです。人間同士が互いに惹かれ始めるときには、脳内にエンドルフィンが分泌され激しい情熱を引き起こし、ドラッグのような恍惚感を与えることが科学的にわかっています。

しかし、脳内のエンドルフィンには限りがあるので、数ヶ月のうちに消費されてしまいます。するとドラッグが切れたときのように、私たちはどっと落ち込んでしまい、「ハネムーンは終った」とか、「恋から覚めた」とか思うのです。実際はエンドルフィンが無くなっただけのことであり、二人の関係をもっと深い成熟したものへと移行させていく時なのです。この移行過程を経験した人たちは皆、成熟した愛が当初の愛にまさるものであると言います。

 

「初めの愛」の情熱が無くなることは、人間関係においては事実です。しかしながら、主はエペソの教会が初めの愛を失ったことを叱責されています。主にあって私たちは、初めに持った主への情熱を持ち続けることが実際にできるのです。私たちが主に出会ったとき、即ちボーンアゲインしたとき、エンドルフィンは分泌されなかったかもしれません。しかしそれよりずっとすばらしいもの、即ち聖霊を受けたのです。聖霊によるバプテスマを受ける時の恍惚感はドラッグで感じるものよりはるかにまさっています。

そしてすばらしい事にそれはドラッグで引き起こされるような幻覚ではないのです。私たちは主の無限の力の実体と慈しみに触れ、またそれに触れられるのです。イザヤ9:7で言われているように「その主権は増し加わり、その平和は限りない」のです。

私たちは生ける水の涌き上がる涸れることのない井戸を内に持つであろうと、主は言われました。それはいつか涸れてしまうとか減少するものではなく、私たちの人生の中でますます増えていくものです。

残念ながら殆どのクリスチャンは命の川から離れてしまう時期があると思いますが、そうある必要はなのです。もし離れてしまったときは、そのことを認めて、急いで当初の主への情熱に戻らねばなりません。キリストにあってこの川は決して涸れることはないのです。戻るためには私たちが当初していたことをせねばなりません。即ち聖書を読み、学び、主を知り、主の道を捜し求めるのです。そして人々に主のことを語り、他のクリスチャンとの絆を保つことです。他のクリスチャンとの交わりを保つことは、第一ヨハネ1:7が言っているように、光の中に住む者にとって不可欠なことであり、私たちはそのように召されています。

 

愛は行ないか、感情か?あるいはどちらも

 

初めの愛を持ち続けることは非常に重要であるので、主はエペソの教会に「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とまで言われました。それは即ち、もう主の教会ではなくなることを意味しています。ですから私たちは何よりもまずこのことを正さねばなりません。第二コリント13:5でパウロはこのように勧めています。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。—あなたがたがそれに不適格であれば別です。」

 

人間としての私たちの第一の仕事は神を愛することです。私たちは幾つかのことに関して自分を吟味し評価するべきですが、先ず一番にするべき最も大切な吟味は、主に対する愛が成長しているかどうかです。私たちが本当に成功した人生を送っているかどうかを決める主要なものはこのポイントです。

人生の道は愛が増し加わっていく道であり、それはまず神への愛から始まります。 私たちの主への情熱が大きくならないと、人々に対する愛も減少していきます。外面的には変らず主のために一生懸命働き偉大な業を成し遂げるかもしれませんが、第一コリント13章が言うように、愛がなければそれは何の値うちもありません。愛が重要であるのです。

 

人間同士の情熱的な愛は、私たちと主との関係のタイプ、或いは型として用いられています。聖書ではこれをひな型とか影(ヘブル8:5参照)と呼び、実物の影のようなものだと言っています。ですから私たちの神への愛は、人に対して抱く愛よりももっと確かな実質のあるものであり得るのです。それではどうすればこのように情熱的で焼き尽くされるような主への愛を抱きつつ、かつ毎日きちんと生活し機能することが出来るのでしょうか?

 

主への熱い情熱を抱いて普通に生活することは、初めは困難でしょう。不可能ではありませんが、難しいです。情熱的な主への熱い愛に捕えられた人たちのことを「あまりにも天国のことだけ考えていて、地上では役に立たない者」と人々は言ったのだと思います。確かにそのような人たちもいたと思いますが、もしそうだとすれば、彼らは人生のよい方を選んだのです。主はマリヤとマルタの両方を愛されたことを忘れてはなりません。「よい方」を持つためにマルタはもっとマリヤのようにならねばなりませんでした。しかしマリヤもマルタから学ぶ必要がありました。(勿論それはマルタの取った態度のことではありません。)私たちはマリヤとマルタのどちらかではなく、両方から学ぶ必要があるのです。

 

ヤコブ2:26に「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とありますが、行ないのない愛が死んでいることも真理です。家に帰ってきた夫が、家の中がメチャクチャで子どもは食事も与えられず世話もされていないのを見たらどう思うでしょうか?

夫が妻に「一体どうしたのか?」と聞くと、妻が「あなた(夫)への愛で一杯でただ座ってあなたのことを考えているだけで何もできなかったのです。」と答えたとしたら、どうでしょうか?

同じように夫が妻を愛するあまりただ座って妻のことを考えていたので、仕事ができず家族を養うことができないとすれば、どうでしょうか?

 

ハイディ・ベイカー師が言うように「愛は何かの形をとる」のです。まことの愛は行動を起こさせます。このことを考えてみてください。愛を命令することができるでしょうか?誰かに私を愛するように命令できるでしょうか? 神は私たちが神を愛するように命じられました。どうすれば出来るのでしょうか?

愛はただ感情だけではありませんが、確かに感情でもあります。妻や夫に「あなたを信仰で愛しています。」と言われてうれしいでしょうか?

 

主にあって私たちが成長するとき、私たちは感情と共に愛の行ないの訓練においても成長するのです。なぜならば愛は感情であると共に行ないでもあるからです。もし神が私たちに「わたしを愛しなさい」と命令されたとすれば、私たちは素直に神に従うことから始めねばなりません。もしそうするならば、感情はそれに伴ってきます。また他の人達は感情から始めて、その後に愛の行ないの訓練を学ばねばならないかもしれません。両方とも私たちの人生で第一に追求すべきことです。

主の愛のうちに歩むことが最高の人生であり、それ以外のすべての情熱やドラッグは偽物です。それよりも他にもっとよいことなどあるでしょうか?主にとっては私たちが何をするかよりも、どのような者になるかの方がより大切なのです。人間として私たちが持つ最高の目的は神を愛することです。私たちがこの目的を成し遂げて召された目的を達成するのはただ愛によってだけです。愛がなくてはすべての事は何の値うちもありません。愛が何よりも大切なのです。(終り)


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