愛を求める神 マイク・ビクル 2016年4月8日
愛を求める神
マイク・ビクル
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という命令が申命記6章の最初に出てきます。この書はおよそ3500年前、モーセの時代に書かれています。ここで神は聖書の中で初めて「わたしは人々が心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてわたしを愛することを欲する。」と言われたのです。これはまさに驚くべき言葉です。神は人々に服従を求める王ではないのです。神は仕える天使を大勢持っておられました。神は命令に従うだけのしもべをもっと大勢欲しいとは思われなかったのです。神はご自分の愛を受け取りそれに愛をもって応答する家族を求めておられたのです。
神が人にこのような命令を出すことに、私たちは少し戸惑います。歴史上の神々の中で、人々に自分を愛するようにと命じた神が他にいたでしょうか?
自分に従うことは命令したでしょう。しかし愛することを命令するとは、非常に興味深いことだと思いませんか。この命令はイスラエルが最初に受け取った、モーセのミニストリーの始めの出来事でしたが、40年後の彼のミニストリーの最後においても、神は申命記30章でもう一度同じ事を言われました。しかし言い方を少し変えておられます。それは命令ではなく、預言になっているのです。ここでは「神を愛しなさい」というだけではなく「人々は実際に神を愛するようになる」という神の預言になっています。預言は神の宣言ですから、必ず成就します。ですから神がこれを成就させると決意されていることがこれでわかります。30章は主が終りの日に帰ってこられる時のことが書かれていることは明瞭です。国々に追い散らされていたイスラエルが神の約束を思い出し再び集められる時、神は6節に書かれていることをされるのです。
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨て、あなたが心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
神は「わたしはあなたの心に超自然的に働きかけ、あなた自身が持っていなかった大きな愛を与え、その愛であなたがわたしを愛するようにする。」と言われたのです。神のことばは地に落ちることはありません。何という驚くべき言葉でしょうか。注意深く読めば、このマタイ22章は主が十字架にかかる前に公の場所でイスラエル全体にむかって語った最後の言葉であることがわかります。
そのマタイ22章は結婚の披露宴の喩え話から始まります。イエスは「神は息子のために結婚を計画しています。わたしがその息子です。」と話され、最後に申命記6:5と30:6から「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」が大切な第一のいましめであると言われました。これがイスラエルに対する最後の勧めであリ預言であったのです。
イエスは御父に「あなたが申命記でモーセを通して言われたことを、最後にもう一度わたしに言わせてください。父よ、あなたがコミットしておられる最終的な結果、神の民が最終的に辿りつくところ、即ち心を尽くして神を愛するという域に達すること、それをイスラエルに対して宣言させてください。」と懇願したのではないかと私は思うのです。
イエスは「心を尽くして神を愛せよ」が最も大切な第一の戒めであると言われました。これはモーセも知らなかったことです。
マタイ5:19に「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、もっとも小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」とあります。偉大な者とは、戒めを守り、それを守るように教える者であるのです。現代は、自分自身は戒めを守っていても若者たちにそれを教えるのを躊躇する時代です。それは聖書の戒めが現在の社会で行われていることとあまりにもかけ離れているように思えるからです。しかし神は「それを守り、また守るように教える者」が天の御国で偉大な者であるとはっきり言われています。偉大というのは、この世で偉大と言われることではありません。神はあなたが人生で何を選ぶかを見て「あなたは偉大だ」と言われるのです。あなたは弟子を一人も持たず、影響力もなく、認められず、お金もないかもしれません。しかし、申し上げますが、もしあなたが戒めを守るならば偉大なのです。あなたが影響を与えられるのはたった二人だけかもしれません。でも主は「わたしがあなたに頼んだのはそれですよ。あなたは自分でも守り、人にもそう教えたのです。それで十分、それでいいのです。」と言われるのです。あなたの人生で何を選びとっていくかは、神にとって一大関心事なのです。
神が私たちに望まれる第一のことは愛が増し加わることです。ボブ・ジョーンズ師が一度死んで主の前に立ったとき訊かれたのは「あなたは愛することを学びましたか?」という質問だけでした。ボブはその後40年間、そのメッセージをいたる所で、何度も人々に語りました。神が私たちに求める「偉大さ」というのは、すべての人に可能です。あなたの賜物とか、影響力とか、教育とか、機会とかとは全く関係ありません。たとえ一生牢獄にいたとしても、あなたが心を尽くして神を愛することを選びとるならば、主の御前であなたは偉大な人であるのです。
私の兄弟は高校生のとき、フットボールの試合中に首の骨を折り、数年前亡くなるまでの33年間、全身麻痺の身体ですごしました。彼は熱心なクリスチャンで、私たちは非常に仲良しで、よく話をしました。彼は肩も指も動かすことができませんでしたが、私は彼にこう言ったのです。「私たちが神からそれぞれに与えられた課題を果たせば主は喜ばれます。神はあなたに本を書けとは言われませんでした。あなたが置かれたこの状態で心を尽くして神を愛するならば、あなたの人生は誰の人生よりも偉大です。今置かれている状態で神の御こころを100%行うならばあなたは偉大なのです。」彼は私の言葉を受け入れ信じました。「そうだ。人に較べれば私には何かをする機会はないかもしれないが、偉大な人生になる可能性はあるのだね。」と彼は言いました。
「最も大切で一番の戒め」という意味はいろいろあると思いますが、まず、それは一番神の心を喜ばせる事であると言えます。神の心に影響を与えることができるとは、すばらしい事ですね。神は王とか創造主とかだけではなく、私たちの父であるのです。御父は私たち息子や娘との愛の相互関係を非常に喜ばれるます。私たちも自分の子どもとの愛の関係は、ビジネスやミニストリーが大きくなるときの喜びとは全く違う喜びを感じます。神もそれと同じように、ご自分の息子、娘が神を愛するときに非常に喜ばれるのです。
二番目に、この戒めは私たちに大きな影響を与えます。どのような業が出来たとしても、神を愛することほどその人にとって大切でその人を変えるものはありません。これこそ私たちの最大の夢であり目標であるべきです。聖霊による恵みによって私たちはこの道を歩むことが可能です。私には家族やミニストリーに関する夢や目標があり、勿論それは重要なことですが、私はある日、これらを第一とせずに神を愛することを第一として生きるとはっきり決意しました。
あなたの一番の夢や目標はなんでしょうか。その答えを出す鍵がこれです。あなたは主といろいろな事を話すと思いますが、何を一番よく話しますか?私は以前はミニストリーのことを一番沢山主に話ました。主は「わたしはあなたのミニストーのことをこれからも話して欲しいけれど、それは私たちの会話の中で二番目のことにしてほしい。」と言われました。それから私はすばらしい女性と出会い結婚し、息子が二人、義理の娘が二人、孫が5人できました。主は「わたしはあなたの家族のことを聞きたい。でもそれはニ番目にしてほしい。」と言われ「他のどのような事に関するよりも、わたしのことを一番沢山話してほしい。」と主は言われたのです。
イエスが「第一で、最も大切な戒め」と言われた言葉が私を捕え、私は20代のある時からずっと神を愛すること、主のことを祈りの時に主に話すことを第一としたのです。そして何かすばらしい変化が起ると期待しました。でも別に何も感じませんでした。退屈さを感じました。主から何かすばらしい事を言われることもありませんでした。「聖書の中に一杯書いてあることだから、黙ってわたしを愛せばいいのだよ。」と言われているようでした。私は一年に2、3回ほど焦点からずれて、他のことを主に話す方が多くなってしまいました。すると主は私に注意してくださるのです。いろいろな事に気が奪われて、第一のことを第一としなくなっていることに私は気付かされるのでした。その時に起っている状況に振り回されて、そのことばかり主に話していたのでした。主にそのことを示される度に私はまた第一のことを第一とするようにしました。
イエスは「〜を尽くして」という言葉を4回用いておられます。「心を尽くして」「思いを尽くして」「知性を尽くして 」「力を尽くして」です。(マルコ12:30)これを一つずつ考えてみましょう。
心を尽くして:これは中途半端な気持ではなく100%ということです。熱心に主に従い、熱心に主を求めるということです。多くのクリスチャンが抜け道を探しているのです。聖書を学ぶ時でも100%探求しないのです。確かに肉的なクリスチャンが歴史を通して存在していましたし、彼らも救われてはいたでしょう。でもイエスは私たちが主との関係を築くとき、「どれだけ少しの努力でできるか」と考えて欲しくないのです。私は多くの情熱に燃えていたクリスチャンが、数年後にはすっかり冷めてしまうのを見てきました。彼らは思っていたようなブレークスルーが起らないとか、こんなに大変だとは思わなかったとか、もっと油注ぎを貰えるかと思った、とか言います。しかし主は「最後まで心を尽くしてわたしがあなたのために計画していることを見てほしい」と言われるのです。自分の築き上げた現時点のミニストリーに満足して主を追い求める心をなくすことを主は悲しまれます。主との関係を最低限度のメインテナンスで続けて行くことを、主はとても悲しまれます。
私たちは皆、自分の人生が「楽で、幸せで、友達が沢山いて、お金があって、人気がある」ことを望みます。そうでしょう?私は今でもそう思います。でもある時、私はこれらのことを第二とはしても、第一としなくなったのです。神は言われます。「わたしを愛することを第一とするとき、あなたは苦労しチャレンジを受けるでしょう。しかしあなたのためのわたしの目標を知るならば、わたしがあなたの人生を導いていることがわかり絶望することはないでしょう。わたしはあなたが愛において成長するような場所へ導いているのです。天国の通貨は愛です。あなたが目的地に到達した時には、あなたはわたしが導いてきたことを喜ぶでしょう。わたしはあなたが愛に成長するようにしたのです。」
私は今でも「楽で、幸せ」という道を望みはしますが、神を愛する道の素晴らしさを知っているので、それが誘惑とはなりません。神は私の人生が神の目に「偉大」となることを願っておられるのです。目的地に到達したとき、私は「主よ、ありがとうございます。感謝します。あなたは私が駄々をこねたとき私を甘やかさなかったことを感謝します。」と言うでしょう。主は「困難な時もあったが、あなたは愛に成長しましたね。あなたはわたしをもっと愛するようになりましたね。」と言われるのです。
知性を尽くして:あなたがあなたの知性の中に何を入れるかは、神にとって重要なことです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書研究の時に神を愛せばよいと思うのですが、神はそれは違うといわれます。いつも自分の頭の中に何を入れるかが大切なのです。あなたの頭の中にあるのは、いつでも神への愛であるべきです。神への愛を妨害するものを見聞きせず、神への愛を成長させるものを見るのです。
力を尽くして:力とは時間、お金、エネルギー、言葉、影響力などです。これらを神のために使うことは、神を愛することです。ヘブル6:10「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」あなたが人々を助けるとき、神への愛を表しています。家庭でも近所でも仕事場でもあなたが周りの人々にすることは、神はご自分のこととして感じ喜ばれます。
思いを尽くして:これが4つの内で一番チャレンジだと思います。思いを尽くして神を愛するとは、意図的に自分のアイデンティティーを正しい位置に直すことです。即ち、この世が認めてくれることにではなく、神との関係のうちに自分のアイデンティティーを定めることです。自分が「成功している」とはどういう状態のことかを定義するのが自分のアイデンティティーです。「あなたは自分が人間としてどういうときに価値があると思いますか?どういう時に成功していると思いますか」と訊かれたとします。その答えがあなたのアイデンティティーを定義しているのです。大抵の場合、自分が達成したことに対して人々が「すごい!」と言うことがアイデンティティーになっています。運動選手が何か記録を破ったとか、バレーダンサーが踊るとき、歌手が歌う時、ビジネスマンの事業が成功したとき、親が神を愛する子どもを育てあげたとき、人々は「すごい!」と称賛します。そう言われた時、私たちはとてもうれしいのです。しかし、人々に「すごい!」と言ってもらうことに自分の価値を見出しているなら、それを意図的にシフトさせねばならないと神は言われます。
ビジネスであれミニストリーであれ、あなたの仕事をリーダーが認め誉めてくれるならば、それは良いことであり成功です。しかし神はそれを第一の成功ではなく、第二としなさい、と言われます。もし神が私を愛し、私が神を愛するならば、私はすでに成功しているのです。これはリアルであり奥深いものです。そして神が私たちに望むことはこれです。例えば私が一生懸命努力したにもかかわらず、人々の協力が得られず成果があがらないばかりでなく、経済的にも困窮し人々から悪く言われたとします。その時、神は「息子よ、あなたが辛く苦しんでいるのはわかるけれど、あなたの思いを意識的にわたしがあなたについて言っていることに一致させなさい。わたしがあなたのために投資していることに一致させなさい。
家族、教会、仕事で巧くいかないで痛むときこそ、あなたがわたしへの語りかけ方をシフトするべき時です。わたしがあなたを愛していることを知っていると言いなさい。」と言われます。
創世記一章の世界を創造された偉大な神が私を追い求めておられるのです。なぜそのような事をされるのでしょうか?歴史上最も偉大な方があなたを求めておられるのです。もしあなたの人生で起る様々な失望、問題という嵐の中に生きるならば、あなたの神への愛は小さくなってしまいます。神は「もし本当にわたしを愛するならば、わたしと一致することによって嵐を静めなさい。わたしが対処するから。」と言われます。この神との一致へのシフトは意図的にしか起りません。圧倒されるような問題がのしかかった時、主は「マイク、さあ今わたしを愛しなさい。」と言われます。「『賛美』以上のもの、『感謝』以上のもの、今あなたの思いでわたしを愛して欲しいのです。」と主は言われます。
痛みがあるとき、それを認識し、それを第二とし、「あなたの人生はわたしの目には偉大です」と言われる神を思いを尽くして愛するのです。
この世での成功を目指して生きるとき、私たちはバーンアウトー燃え尽きてしまいます。でも成功を出発点とする時、私たちは力を得ます。多くの場合バーンアウトは、間違った霊で頑張るときに起ります。何か問題が起ったとき、私たちは神が自分を愛していてくださり、私が神を愛しているから私たちはすでに成功しているという現実に立ち帰るとき、私たちは問題に対して全く異なる視点で立ち向うことができるのです。(終り)