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Walk With God Ministries

14 12月

愛のバプテスマ     ポール•キース•デイビス     2015年12月14日


愛のバプテスマ

 

ポール•キース•デイビス

 

1996年に、私とボブ・ジョーンズ師が一緒にミニストリーをしている時に神が出会わせてくださった人のことをお話したいと思います。彼はエライジャ・マズワンガニという名で、南アフリカでミニストリーをしている黒人の方でした。その人は沢山の本を著しておりましたが、集会のあと私に一冊本をくださると言いました。彼がすばらしい神の人だということが分かっていたので、私はとても楽しみでした。彼は自分の本が25冊くらい入っている箱の中をいろいろと探していましたが、「あった、あった」と言って一つのパンフレットのように薄い本を私に渡してくれました。「これはあなたによいものだと思いますから、どうぞお受け取りください。」と彼は言いました。私は感謝をして鞄にいれました。

 

その本の題は「私が受けた愛のバプテスマ My Baptism of Love」でした。当時南アフリカでは人種差別が激しく、黒人の彼は酷い経験を沢山したそうです。彼がこの本で書いていることをお読みしたいと思います。(以下)

 

「私(マズワンガニ師)その夜、いつものようにデボーションを済ませたあと、一人で自分の部屋で寝ていました。突然、午前2時ごろでしたが、私は自分の内に麗しい音楽が涌き上がってくるのを聞き、また感じました。それはオーケストラが最大のクレッシェンドで演奏しているような響きでした。私の内なる音楽に、私のまわりの大勢の天使たちの歌声が加わりました。私の内の歌とまわりの天使たちの歌声には完全なハーモニーがありました。歌声と何種類もの楽器との響きは、最高に美しいばかりではなく、全く調和し完全でした。それは私の最も深い霊的、感情的な願望や飢え渇きを完全に満たすものでした。私は音楽によって天の領域に引き上げられて移されていくように感じました。歌の歌詞はこのようなものでした。『あなたの思いをイエスに話しなさい。主は友としてよく知られている方です。

Tell it to Jesus. He is a Friend who is well known.』誰かが音量をどんどんと高くしているようでした。

音量が最大になったとき、私は天使の歌声の大海原の中にいるようでした。圧倒されるような恍惚状態の中で、私は本当に美しいイエスの手を見ました。主の身体は見えませんでした。主の手はやさしく私の額に伸ばされました。主に触れられてベッドからおりると、私の口から勢いよく異言がほとばしりでました。私の賛美の歌や言葉は、天使の歌声と完全に調和していました。私の両手は天にむかって伸ばされ、2時から6時までそのままの姿勢で賛美し続けました。私の足も手も、少しも疲れませんでした。私は喜び、平安、幸福感で満たされ、すすり泣きました。

その時、私は『愛のバプテスマ』を受けたのです。そして私は神と新しい経験をしたことがはっきり分かりました。朝6時に家の戸を開けて外に出たのですが、その時私の目に入るものをすべて愛さずにはおられなかったのです。どんな人種の人も私は愛しました。人々が神の花束のように見えました。空も、草も、木も、車も、動物もすべて愛しました。今までの懐疑的な思いや批判的思い、疑いは消えていました。私は平安で一杯に満たされました。それはパウロが『人知を越えた神の平安』と呼んだものだと思います。生まれて初めて私は完全に自由だと感じました。

 

私が『愛』の新しい定義を与えられたのはその経験を通してだったと思います。それは『神の愛は自由である God’s love is freedom.』というものです。この栄光に満ちた超自然的な霊的経験の後、私の人生やミニストリーは以前とはまったく違うものとなりました。神は私に人々を理解し無条件で愛す、そして無条件で赦すというキャパシティー、許容力を与えてくださいました。この愛によって私はどんな状況の中にあっても人を赦すことができるようになりました。この経験によって私はすべての人を愛するようになりました。私は常に人々のことを考え人々の夢を見ます。私は世界中に旅をしますが、どこででも人々は私の中にある愛を感じてくれます。大抵の人と苦労しないですぐに仲良くなれます。それは神がすべての人を愛に応答するものとして造られたからです。言葉が通じなかったり文化習慣が違ったりしても、人間は自分が本当に愛されていときは分かるのです。」(以上)

 

私はこの小冊子を読んでとても感謝しました。私には「愛のバプテスマ」が必要だと彼は思ったのだと思います。皆さんの中にも愛に浸される経験が必要な方があると思います。私も神の栄光を少し経験したことがあります。私の兄弟が亡くなったすぐ後のことでした。私たちは一年半の間、彼の癒しのために断食をし、祈っていました。ですから彼が死んでしまったとき、私は少しばかり落胆し傷ついていました。その時、雲が私を包んだのです。そして何百万という楽器が奏でられるのが四方から聞こえて私を取り囲みました。ただ上から聞こえたというのではないのです。あたかも水の中にいて水が身体の触れている所すべてから音が聞こえるという感じでした。それは数分間続いてから消えていきました。その経験は私を確かに変えてくれました。

 

「キリストの花嫁」がみんな愛のバプテスマを受ける日がくることを私は望みます。それはどのような方法であるかはわかりません。主の御手に触れられるのか、栄光の雲に包まれるのか、あなたの部屋に光が差し込むのか、夢の中か、トランスの中か、祈りの中か、異言を話しているときか、それはわかりませんが、あなたが神の愛に覆われるときが来ることを願います。そして御父の愛が真にわかるようになるのです。どうか私たちが神に浸されて神が愛であることが本当にわかりますように。神が愛を持っておられるのではなく、神が愛なのです。

神は今、それを受け取る用意のある人に愛のバプテスマ与えてくださると信じます。

 

聖霊の賜物は勿論よいものであり、私も頂きたいと思っています。癒しのミニストリーなどもすばらしいです。しかし、もし私たちが愛のバプテスマを受けるならば、その他のものはもっと早く与えられるのではないかと思います。ウイリアム・ブラナンが自分の癒しのミニストリーについて語っています。

彼が人々のために祈る時に、その人の病とか、家族の問題とかを彼自身が身体の奥深いところで感じ、彼はその人に対する愛と憐れみに満たされるのでした。その時、奇蹟が起ったのです。主イエスも人々の苦しみを見られた時、愛と憐れみの故に癒されたのでした。もし私たちが癒しや解放、奇蹟などの力を求めているならば、それは愛と憐れみの中から生まれてくるのだと思います。

 

賜物を与えられるのはすばらしいことです。私もすべての賜物を受けたいと思います。しかし、賜物によって業をなすことと、主の臨在によって業をなすのとは違うのです。癒しの賜物を受けるよりも、癒し主ご自身が臨在してくださることを私は願います。知識の言葉を受け取りたいと思いますが、それだけではなく、知識の霊を受けたいと思います。知恵の言葉だけではなく、知恵の霊を受けたいと思います。奇蹟だけではなく、力の霊を受けたいと思います。なぜならそれらの霊は主ご自身だからです。主こそ御座の前におられる7つの霊(黙示1:4)です。ですから主がすべての源であられ、源がくればすべてのものがそれに伴うのです。それが王であり、キリストの花嫁が愛する方なのです。

 

私たちは異なる次元で業をするようになるのです。数は少ないですが、今までも先駆者たちがその次元でミニストリーをしてきました。キャサリン・クーマンやジョン・G・レイクなどは、栄光の領域で愛と憐れみをもってミニストリーをしたのです。私たちも主に「愛のバプテスマ」をくださるようにお願いしようではありませんか。(終り)


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