WWGM

Walk With God Ministries

07 12月

神の一途な思い       グラハム・クック          2015年12月7日


神の一途な思い

グラハム・クック

 

神には二心はなく、御思いは常に一つであることをお話したいと思います。

 

ポイント#1

第一のポイントは、「神の私たちに対する思いは変ることがないと知るとき、私たちは一番変ることが出来る」ということです。私たちの多くは残念ながら、「宗教的組織、宗教的システム」の中で育ち、神には二極性があると教えられてしまいしました。宗教は「神は私たちを愛しておられると同時に、私たちに腹を立てておられる」と言うのです。「神は私たちの言動を見て、それが良くない時は私たちに背を向けられる」とずっと教えられてきたのです。もしあなたの教会がそのように教えているとしたら、それは宗教の霊であることを知ってください。これは西洋の教会の最大の問題の一つだと私は思います。それは間違った教義であり、よい教えではありません。しかし、うれしい事に今変化が起きています。すばらしい知恵と啓示の霊が今世界中を巡り始め働いていてくださいます。神は私たちを御国の真理へと目を覚まさせていてくださいます。

神がどのようなお方であるのか、又私たちはどのような者であり、どのような者ではないのか、に関する御国の真理があるのです。そして神の思いは常に全く一つであり常に同じであることをその真理は教えてくれます。神の私たちに対する思いは一つであり、それがすべてであるので、私たちはそれを完全に理解することができ確信が持てるのです。そして「私たちが神にあって何者であるか」「どのように神に結びつけばよいのか」も理解し確信することができるのです。

 

「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とヘブル13:8にありますね。マラキ3:6には「主であるわたしは変ることがない。」とあります。それは「あなたの主であるわたしは変ることがなく、あなたは変ることのないわたしと関係を持っている。」と言う事です。神は宇宙でただ一人、決して変ることのないお方です。ですからあなたは主との関係において、自分がどこに位置しているかが常に分かっているのです。あなたが最高であった日にも最悪であった日にも、主のあなたへの思いは全く変ることがありません。そして主はご自分がそのような方であることを喜んでおられるのです。

ヤコブは次にように言っています。「すべてのよい贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変りや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)神があなたに対する態度を変えてしまうということはありません。神は「わたしはこういう者です。いつも永遠にこういう者だとあなたは知るでしょう。そしてわたしがあなたに対してどういう者であるか、あなたは確信を持つことができるのです。あなたに対するわたしの思いが変ることは決してありません。」と言われるのです。

私たちが神のご性質を知るとき、神がどのように私たちと関わってくださるのかを知ることができます。神のご性質、ご性格が変ることがないので、神の約束、神の御ことばも同じように永遠に変らずに聖なるものです。民数記23:19、20には「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」と書かれています。イザヤは55:11には「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」とあります。

私たちに神が語られること、それは聖書の御ことばであったり預言を通しての御ことばであったりするわけですが、大切なポイントは、神は私たちに与えてくださった言葉を必ず成就させるということです。神の御ことばが私たちの毎日の生活や戦いの中で、完全に成就することです。それは神が偽りを言うことはないからであり、変ることのないお方だからです。神の御ことばは永遠なのです。

 

イザヤ45:23に「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることは正しく、とり消すことはできない。」とあります。神の誓いはあなたの性質に左右されるものではなく、神のご性質によって成り立っています。あなたがどのような者であるかによるのではなく、神がどのようなお方であるかによるのです。私たちが神の翼の影に身を寄せることができるのは、神がどういうお方かに全面的に拠り頼んでいるのです。あなたがすばらしいからではなく、神が驚くべきお方であるからなのです。そしてあなたがすばらしくなったのは、あなたが立派だったからではなく、神が驚くべきお方であり、神が変ることがないお方であり、神のご計画の中にあなたを入れてくださっているからです。

 

過去数年私が最も愛している神の約束があります。今私は命を脅かすような病を得ています。私は健康になろうとしている病人ではなく、病気を追い出そうとしている健康な人間です。神から私に与えられたこの約束は、私にとって聖なるものです。皆さんの中には同じような状況の方々がおられると思いますので、読んでみたいと思います。私に対する主から与えられた約束です。

イザヤ46:3「・・胎内にいる時からになわれており,生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

神にとっては約束がすべてです。ですから私たちにとっても約束がすべてです。神からの約束は往々にして生と死を分かつようなものです。変ることのない神の約束にあなたが立脚するとき、神がご自分の言葉に対して持っておられる確信があなたにも訪れます。

神は私たちをキリストの内に置かれ、神の慈しみのゆえに私たちが安全に保たれるようにされました。私たちの人生が揺れ動くとき、揺れ動かないのはイエスだけです。私たちが主を信頼する土台は主の御性質です。イエスは決して変ることのない良いお方です。そのお方が「わたしは決してあなたを離れない、見捨てない。」と約束されているのです。

そして主は私たちに啓示的な洞察を与えてくださいます。その啓示とは、神の変らない御こころ、変らない御ことばにより、あなたは絶対的な確信をもって、神があなたに対して持っておられる慈しみを信じられることです。それはどのような状況においてもそうであるのです。ですからあなたが今直面している「状況」よりも「神がどのようなお方であるか」の方が、あなたにとってもっと大切で重要なのです。

 

ポイント#2

第二のポイントは神は愛であられ、神は常に愛をもってあなたを思っておられるということです。神は御子の愛の中にあなたを入れてくださっています。神は変ることがない方ですから、それが変ることもありません。ですから神があなたをイエスの中に置かれたとき、それはあなたを変らない主の御性質の中に入れたのです。つまり、あなたの言葉や行動によって変ってしまうものはないということです。物事が私たちの言動によって左右されると考えるのは宗教の霊です。すべてのことは神によるのです。あなたが良い子だから神からご褒美を頂くのではありません。あなたがイエスの中にいるから、良い物を受け取るのです。

 

ローマ8:31に「では、これらのことからどう言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますね。だれも敵対できないということは、あなたも自分自身に対して敵対できないのです。皆さんの中にはそうしようとした人がいますよね。でもできません。それは神がそうさせないからです。神はあなたの味方なのですから、もう自分に敵対することもあきらめてください。

32節「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ここでいう「すべてのもの」とは自分にとって何でしょうか。あなたが今置かれている状況の中で必要としている「すべてのもの」とは何ですか?

神があなたをその状況の中に置かれた唯一の理由は、あなたにすべてのものを恵んでくださるためです。神は知恵をもってその状況をつくり出し(それは神の力で簡単に阻止もできたものなのですが)あなたに沢山の物をくださろうとしておられるのです。パウロが「すべてのもの」という言葉を用いたのは、私たちの人生で起るすべての状況に適応させるためです。人生で起るすべての状況の中で、あなたが主から何も受けない状況はないということです。それは神の御性質と相反することだからです。

33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」それはあたかも神が私の前に立って「グラハムを訴える者は、まずわたしと対峙せねばならない」と言っておられるようなものです。

34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」私たちを一番知っておられる方が私たちを一番愛してくださり、私たちのためにとりなしの祈りをしていてくださるのです。

35節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですが、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」勿論この質問に対する答えは「何もありません。」です。それはあなた自身をも含みますよ。自分の愚かさもキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

37節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

パウロは本当に真剣で大真面目ですね。「私たちをイエス・キリストにある神の愛から引き離すものは何もない」ことをはっきりと認識し、確信し、もう絶対に疑問を持たないことが、私たちにとって大変重要なのです。

 

神はあなたがどのような人間であるかを正確に知り、あなたがどう思っているか、感じているか正確に知っておられ、あなたのためにご自分はどのようにしたいかも完全に知り、そのご計画、目標から少しも逸れることはありません。そのご計画とはあなたを神の似姿とすることです。それは私たちも神のように変らないものとなることです。そうなるための過程で、まず私たちは神が自分にとって変ることのないお方であることを意識的にしっかりと認識せねばなりません。そして私たちは完全に1000%、リラックスし、神のご性質の中で安息するのです。その時自分の業績や善行に拠り頼むという意識は消えていきます。

勿論パーフォーマンス、業績、実績は大切です。スポーツマンに聞いてみたら分かります。歌手でも俳優でも、また実業界の人にとっても勿論大切です。しかし霊においては、自分の行ないは神がまずしてくださることの後に来るものなのです。神との関係が築かれた後の結果としてパーフォーマンスが生まれるのであり、関係を築くためにパーフォーマンスをするのではありません。神が自分にとってどういうお方であるかを知り、それに対する応答として私たちはパーフォーマンスするのです。クリスチャンにとってのパーフォーマンスとは、私たち一人一人のために神がしてくださることに応答するだけのことなのです。何かを得るためにするのではなく、神のすべてを受けて祝うことであるのです。私たちは神に愛される者として受け入れられていて、その結果として神の愛の中で圧倒的勝利者となることが出来るのです。(終り)


Post a Comment