ブラザー・ローレンスから学ぶもの ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける 坂 達 也 2015年11月24日
ブラザー・ローレンスから学ぶもの
ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける
坂 達 也
昨夜、リック・ジョイナー師のサイトで彼が書いているブラザー・ローレンスの紹介記事を読んで、久し振りに私が最初にブラザー・ローレンスの珠玉のような本に接した頃を思い出しました。ブラザー・ローレンスについて、多くの方は既によくご存知とは思いますが、先ずは、ジョイナー師が書いている彼の略歴をご紹介します。
「ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれました。貧しい環境で育った彼は軍隊に入らざるを得なくなりました。そして戦地でのある冬の寒い日、葉が落ちて裸になった木を見ているうちに、彼は著しい救いの体験をしたのです。彼はその時、葉が落ちて死んでいるような木と同じ状態にある自分を感じながらも、神が彼のために生きる希望を用意しておられるのを感じ始めていました。すると突然、神の誠実さと愛が彼のたましいに洪水のように溢れました。彼はその経験は、どこにでもある自分の目の前の現実に、突如として超自然としか思えないような「明晰な思い」が飛び込んで来た、と言いました。
戦地で負傷したローレンスは、除隊後にパリにある修道院で働き始めました。教育を受けていない彼は、そこで調理場の下働きという最もありふれた下等の仕事に就きました。そこで彼は、人生で苦難の道を歩まねば神の恵みにはあずかれないという当時の宗教社会の通念に影響され、人生の失敗者である自分は、世の中の下積みの苦労をしなければならないと思い込んでいたからです。
しかし彼が経験した超自然的な「明晰な啓示」を通して、いつしか彼は、どんなつまらない仕事をしていても、そこに主の栄光を見つけて主をひたすら礼拝することにこそ、主の御国で約束されている最も平安と喜びに満ちた生き方の一つがあることを発見したのです。
しかし「継続的な神の臨在」を経験するに至る迄には、彼は非常に困難で長期に渡る、徒労で報われない献身の毎日を通らねばなりませんでした。しかしその努力が報われる日が遂にやって来たのです。彼はどのようなつまらない仕事をしていても、それに神聖さを見つけ、神に栄光を返すどんな王よりも楽しい毎日を過ごせるようになりました。
そのような彼の平安と喜びに満ちた人生の生き様が、多くの人たちを惹き付け始めました。彼の死後(1691)に、彼が書いた多くの書簡からまとめたものをビューフォーのヨセフと呼ばれる一人の神父が編纂し、それが The Practice of the Presence of God として後日出版されるに至り、以降この本が多くの人に読まれるようになったのです。」
以上の略歴を紹介した後、ジョイナー師はブラザー・ローレンスの経験した貴重な知恵の幾つかに触れておりますので、私はその内の二、三をご紹介したいと思います。
最初にブラザー・ローレンスが云った言葉としてーこれは特に有名な言葉ですがー彼は数人の人が調理場で戦争のように忙しく立ち働いている環境に自分がいる時であっても、それは彼が静かに主の前にひざまずいて祈っている時と全く変わらずに、同じであると言っていることです。その理由を彼は、自分が神をしっかり保有し、あるいは神に保有されているからであると言います。ここで彼は possess という言葉を使っており、その意味は「完全に神に所有されている状態」を指しています。
これこそ主キリストと私たちの関係ー主が私たちの内におられ、私たちも完全に主の内にいる状態ーすなわち、「私たちは完全に主の持ち物」であることを表していないでしょうか。私たちは聖書にそう書かれていますから、そのことを理屈では分かっていても、それが現実にそうなれるという事実をブラザー・ローレンスが証明してくれているのです。
次に彼が云っていることは「主の臨在を感じない、主が隠れておられるような『乾いた状態』にいる時にこそ、私たちは主に対して真に忠実であることを学ぶことが出来るーそのような時にこそ主は私たちの主への愛をテストされ、又私たちが主に対してどれ程の堅い決意 determination をするか、あるいは、主にどこ迄自分を明け渡すこと surrender が出来るかを試すよい機会となる。」と云っています。
又主は、「私たちが主のためにどんなよい仕事をしたかーそれはその仕事の大きさではなく、むしろどれ程愛をもってその仕事をしたかーということに関心を持たれる。」とも云っています。
最後に「主といつも語り合う習慣を身につけるためには、自分が常に神のご臨在と共にいるかどうかを気遣っていることが絶対に必要である。」と彼は主張して止みません。そして、彼が主の助けを必要な時、彼は必ず主にお願いします。彼の経験では、神が助けて下さらなかったことは一度もなかったと言います。
昔オレゴンの教会にいた時に、希望する人には全員にこのブラザー・ローレンスの The Practice of the Presence of God という小冊子を教会が無料で配布したことを私は憶えています。クリスチャンにとってこの本は、それ程重要な手引書の一つであって、私たちは、少なくとも一年に一度位は読み返すと大変恵まれる必読書であると思います。
実は私は今朝思い立って自分がどういう人間であるのかを確認する思いで、ロマ書6:3−6を読んでみました。「3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテズマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテズマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテズマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストとの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
私たちはキリストを信じてバプテズマを受けた時、新しく「霊の人間」に生まれ変わったことを本当にいつも自覚して生活しているでしょうか。それを忘れて、いつまでも肉のままの人間で生きてはいないでしょうか。
ブラザー・ローレンスは、そのことを私にいつも改めて思い出させてくれる人です。(終り)