みずからへりくだる フランシス・フランジペイン 2015年10月13日
みずからへりくだる
フランシス・フランジペイン
キリストの謙遜について話したいと思います。これは非常に重要なことです。もしキリストに似る者に変わりたいならば、私たちを変えることができるのは神の恵みだけなのです。そして神が恵みをくださるのはへりくだった者にだけです。ですから私たちは恵みを受けて変わりたいのです。時として私たちは「ああ、神様、私をへりくだらせてください。ああ、神様、私を謙遜にしてください。」と祈ります。しかし「私を謙遜にしてください」と祈るの少々危険です。神は豊かに、望むところを越えて与える方ですから、あなたはどれほどへりくだらされるかわからないからです。
ネブカデネザル王のことを見てください。彼は「私がこのバビロンの栄華をつくった」と誇ったとき、すぐに天使がきて神が彼を7年の間へりくだらせる、牛のように草を食べる、と告げました。それでも王はまだへりくだりませんでした。ですから7年もの間、彼は野の獣とともに住み、牛のように草を食べました。その長い期間が終ったとき、王は天を見上げていと高き方をほめたたえました。王はついに「高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」と神を賛美し、あがめ、誉め称えるに至りました。
聖書の命令は「みずからへりくだりなさい。 Humble yourself」です。第二歴代誌7:14には「わたしを呼びもとめているわたしの民がみずからへりくだり」とありますし、ヤコブも「主の御まえでへりくだりなさい Humble yourself in the sight of the Lord」と言っています。私たちがするべきことはこれです。そうすれば神は私たちに恵みをくださり、私たちは変ることができるのです。
へりくだるということは、自分の中の欠けたところ、足りないところをはっきり見るということです。私たちの中で変らねばならないところを見るのです。私はキリストのように柔和な心を持ちたいと思います。イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。主は子どもを愛されました。「子どもがわたしのところにくるのを止めてはならない」と言われました。主は御国の中でもっとも偉大な方ですが、御自身も子どものようにみずからへりくだられ、私たちにもそうするようにと言われます。
神が今自分の中の何を変えようとしておられるかが分からない人は、あなたの伴侶に聞いてみてください。あなたの伴侶はあなたが変えねばならないことをチャンと知っていますよ。
私たちは自分が変らなければならない点をはっきりと認識せねばなりません。あなたの伴侶、友人、または真にオープンになって「ここを私は変える必要があると思います。」と話してください。正直に言ってください。
「私はもう他人のうわさをするのを止めたいです。」
「人を裁くのを止めたいです。」
「良くないテレビを見るのを止めたいです。」
「もっと寛大になりたいです。」
声に出して言ってください。
あなたが変えたいと思うことに関して、みずからへりくだってください。その時神が恵みをくださいます。
バプテスマのヨハネとイエスは、両方とも神の御国を宣言するために来ました。イエスは神の御子でしたが、自分が神の御子であると言ったのは、1、2回だけであり、ほとんどは自分のことを「人の子」と言われました。バプテスマのヨハネが来たとき、人々は「あなたはキリストですか?」と聞きましたが、彼は「違う」といいました。「あなたは預言者ですか?」という問いに対しても彼は「違う」と言いました。人々は「それではあなたは誰ですか?」と聞くと、「私は荒野で呼ばわる声です」と答えました。彼は実際自分が与えられている称号も使いませんでした。彼は預言者でしが、最も低い場所を選んだのです。アメリカでは人々は最高の場所を得ようとします。しかし私たちはみずからへりくだらねばなりません。そうすれば神が私たちを高くあげてくださるのです。
ですから、皆さん、ネブカデネザル王のように神の手でへりくだらされるのではなく、みずからへりくだろうではありませんか。
それは「自分は駄目な人間だ」と落ち込むのではなく、「私が変るべきところをお示しください。」と神に申し上げるのです。「あなたが私の心の中から掘り起こして取り去りたいものをどうかお示しください。」と祈ることです。
私の好きな聖句の一つにイザヤ66:2の「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」があります。男性でも女性でも老人でも若者でも、牧師でも牧師でなくても、天地を創られた天の神が目を留めてくださるのは、このような者だと言われるのです。私はこの聖句を洗面所の鏡に張って毎朝見ています。私は平均的普通の人間ですが、この聖句には天の神の目を引く方法が書かれています。神は「へりくだって心砕かれて、わたしが語るときにおののく者に目を留める」と言われるのです。
神に触れられた時、手や身体が震える人います。それも結構です。しかし、神は「わたしは心が震える人を求めている。わたしがささやく時、心をかたくなにせず、心砕かれておののく者をわたしは探している」といわれます。皆さん、なんという神からの招きでしょうか。
多くのミニストリーをする方たちが教会に来てあなたのために祈り、あなたは神の力を受けて倒れるかもしれません。しかし、私の皆さんへのゴールは、あなたが倒れることではなく、あなたが立つことです。あなたが様々な悪に立ち向って、ヴィジョンと勇気をもって堅く立つことです。いと高き方の前に立つことです。神の前でひざまずく者は、神の前に立つことができるのです。
みずからへりくだり、「イエスよ、恵みをお与えください。」と言おうではありませんか。
手を自分の心にあてて祈りましょう。
「主イエスよ、私たちはあなたに関する宗教を求めてはいません。あなたを求めています。私たちの心をあなたの思いで満たしてください。あなたの力で私たちの手を満たしてください。あなたの光の栄光のバプテスマを受けたいのです。私たちがこの世のことにあまりにも気を取られていることをどうかお赦しください。あなたが私たちを光の子と呼ばれたにもかかわらず、暗やみにひきずリ込まれたことをお赦しください。主よ、今晩、私たちはこころをへりくだらせます。どうか私たちのこころにお住まいください。私たちを通して生きてください。偽りのない愛で愛するようにしてください。あなたご自身を顕してください。イエスの御名によって祈ります。アーメン」(終り)