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17 8月

悔いた心と神が求める聖さ     フランシス・フランジペイン     2015年8月17日


悔いた心と神が求める聖さ

 

フランシス・フランジペイン

 

今、多くの人がアメリカのために祈るようにと人々に呼びかけています。私はそれに加えて、悔い改めへの呼びかけをしたいと思います。実際に第2歴代誌7:14を見ると、そこには祈りだけではなく、へりくだり完全に悪から離れよとの招きがあります。私たちは悔いてへりくだった霊をもって神のみ顔を求めるべきです。

私たちのうちには生ぬるい妥協があまりにも多くあります。真に砕かれるためのブレークスルーが必要です。神が動かれる時が来ようとしています。しかし神がどれほど大きく、またどれほど深く働いてくださるかは、私たちがどれ程深く悔い改めているかによって決まるのです。

私たちが単に「罪を犯して悪かったです、ごめんなさい。」と言うだけで済ましてしまわないようにと、私はこれを書いています。私たちの人生に義の実がフルに実るまで、神のもとに何度でも悔い改める謙虚さへと、神は私たちを導きたいのです。

聖書にイエスがミニストリーを始められる前に「神から遣わされたヨハネという人が現れた。(ヨハネ1:6)」と書かれています。バプテスマのヨハネは神が遣わしたのです。ヨハネの悔い改めのバプテスマは、旧約をしめくくる最後の出来事ではなく、新しい契約の最初の出来事、開墾の鍬入れでした。ヨハネはイエスのミニストリーの先ぶれとして神から遣わされたのです。彼のユニークな役目は、イスラエルを悔い改めにしっかりと浸すことでした(使徒19:4)。彼はキリストに先立って行くようにと任命されたのです。彼の任務は「主の道を整え、用意すること」(マルコ1:1、2)でした。

クリスチャンは誰でも、生けるキリストが救い主であると示される前に多かれ少なかれ必ず悔い改めに導かれます。「整え、用意する」のが悔い改めの目的です。私たちはこれをよく理解する必要があります。即ち、ヨハネの悔い改めは、人々を悔いて悲しませるだけではなく、人を整えキリストを受け入れる用意をさせたのです。真の悔い改めとは、心の地面を掘り起こすことです。悔い改めは、神からの指示を受け取るために、又義の新しい苗を植えるために心という土を整えることであり、霊的成長を促す多くの事柄の中で最も重要で不可欠なものです。「心の思いや考え方を変えること(即ちそれが悔い改めの意味ですが)」は実際のところ時間がかかりますし、ほとんどの場合、あきらめないで忍耐を持って続けなければ出来ません。バプテスマのヨハネがユダヤ人に対して言ったことは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)でした。

悔い改めはその実が結ばれるまでは完了しないことを、はっきりと認識せねばなりません。

ヨハネは「低くされたことを喜べるまで、高慢を退けることを止めてはいけません。愛することがあなたにとって自然になるまで、自己中心を悔い改め続けなさい。あなたが100%聖くなるまで不純さを悲しみ続けなさい。」と言っているのです。ヨハネは、悔い改めの実が現れるまで悔い改め続けることを人々に要求したのです。もしあなたが聖くなりたいならば、聖くなるまであなたは悔い改め続けるのです。

 

使徒ヨハネは「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)と言っています。どうかあなたの罪から隠れないで、告白してください。神の恵みと御子イエスの十字架の御業は、どのような罪であっても、すべての罪を覆い赦すのに十分です。しかし、私たちは赦しを乞わねばならないのです。へりくだり、心から何度でも神に服さねばなりません。自分の罪を正直に告白してください。神はあなたをその罪からきよめてくださいます。

 

悔い改めを執拗にし続けてください。

 

神の憐れみは尽きないことを決して疑わないでください。あなたに罪を犯した人を赦すようにと神が命じられるならば(マタイ18:21−22)、それと同じ要求を神がご自身にされないことなどありません。あなたがもし一日に490回罪を犯すならば、そのつど、神に赦しを乞い願ってください。神はその罪をすべて赦し、またその罪の影響からあなたをきよめてくださいます。

 

私の人生の一時期、私は繰り返し何度も同じ問題につまづきました。深い悲しみと疑念をもって私は「主よ!あなたはいつまで私にがまんしてくださるのでしょうか?」と主に叫びました。一瞬の恵みと真理のひらめきのうちに、主は「わたしがあなたを完全にするときまでです。」と答えてくださいました。

 

聖書は「訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6:23)と言っています。これは正されることを否むのでなければ決して嫌なことではありません。叱責される道はいのちの道なのです!

イエスは「わたしは、愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示3:19)と言われました。私たちに悔い改めを説くのは、神の怒りではなく神の慈しみなのです。私たちは「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださること」(ピリピ1:6)を約束されているのです。私たちが主の似姿になることを望み続ける限り、主の叱責こそが主の臨在への扉になるのです。

 

しかしながら、もしあなたが悔い改めという言葉に怯むならば、それはあなたが変わりたくないからであり、あなたにはこのメッセージが必要です。「悔い改め」が荒布や涙の陰鬱なイメージを与えるものでなくなり、「矯正」が神の恵みへの喜びと賛美を喚起させるものとなったとき、あなたの霊は真に純粋になったと分かるのです。その時あなたは神が「聖いと呼ばれる道」を歩いているのです。(終り)


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