礼拝している人を測れ フランシス・フランジペン 2015年7月13日
礼拝している人を測れ
フランシス・フランジペン
黙示録11:1、2「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。『立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。』」
この箇所が究極的に意味していることは他にもあるかもしれませんが、神の御霊が礼拝する者を測っておられると言っているのは確かです。天に宝を持ち、神殿の内庭に住む者たちを御霊は注意深く調べておられるのです
考えてみて下さい。恐れ、プレッシャー、トラウマに満ちているこの世界において私たちの唯一の避け所は神の生ける臨在の中です。私たちは、単に「神についての宗教」を受け入れて、それが即ち神の臨在の中に生きることであるなどと思ってはなりません。
私たちが本当に神の臨在の中に住もうと思うならば、他の何にも増して、ある一つの事が大切です。即ち、私たちが真の神の礼拝者になることです。
真の礼拝
イエスは「真の礼拝者」とは、父なる神を「霊とまことによって」礼拝する者であると教えられました。言葉を変えれば、真の礼拝者の神への礼拝は、困難な状況の中にあっても全くそれに左右されずに溢れ流れ出るということです。実際、御父はご自分をそのように礼拝する者たちを今地上に捜し求めておられるのです。
神の優先順序をよく考えてみてください。神は私たちが奇蹟を起こす者とか、偉大な使徒や預言者になることを求めてはおられないのです。
私たちがリーダーとしての技術を磨くとか、教会運営をうまくすることではなく、もっとそれ以上のものを求めておられます。主は何を求めておられるのでしょうか?
主は本当に心から主を求め礼拝する者たちを求めておられるのです。
神を心から礼拝するという意味の「真の礼拝」は私たちを真のクリスチャンにしてくれます。
もし私たちが神への礼拝を真のものとするならば、私たちの聖書研究や祈りや様々な奉仕など、何であってもそれらは真のものとなります。実際、礼拝する心は、他の霊的活動を正しいものとし、実を結ばせます。御ことばを学ぶ前に先ず心から神を礼拝するならば、御ことばは私たちの魂にもっと深く浸透するでしょう。そして私たちの実はもっと甘くもっと確立したものとなるでしょう。もし私たちが祈りの言葉を口に出す前に、神を礼拝し誉め称えるならば、私たちのとりなしは、心からの信頼と期待にふくらむ信仰の翼に乗って天に昇って行くことでしょう。
真の礼拝は、私たちの霊的活動がただの日課とか宗教、又プライドになってしまうことから私たちを救ってくれます。真の礼拝は自分のことを完全に忘れて、神の深みへと私たちを連れていってくれます。実際、礼拝は変革された人生の証しです。外面的には喜びの涙であったり、驚嘆の沈黙で表されるでしょう。又、神への絶えざる感謝が流れ出たり、また夜には歌が与えられたりするでしょう。表現はどうであれ、真の礼拝は神への真摯な愛慕、崇拝です。
しかし、もしも「礼拝」が自分とは無関係なことのように思えたり、ただ機械的になっていたり、言葉を空しく感じるのであれば、それは私たちが「外の庭」での礼拝にとどまっているからです。おわかりでしょうか。私たちが神に近づけば近づくほど、私たちはもっと変革されるのです。そして私たちの変革が大きいほど、私たちはもっと完全に主を礼拝できるようになるのです。
祈り「主よ、どうか私の人生の中に深く立ち入り、私を変革してくだるというあなたの約束を成就してください。私の唇に賛美をつくり、あなたを霊とまことをもって心から礼拝できるように助けてください。」(終り)
フランシス・フランジペン師の著書 「I Will Be Found by You 私たちは主によって見いだされる」より