教会を建て上げ治める(そのニ) リック・ジョイナー 2015年6月15日
教会を建て上げ治める(そのニ)
リック・ジョイナー
長老は判断し裁く者
長老は、また裁判官でもありました。これは非常に大切なことです。第一コリント6:5でパウロは「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」と嘆いています。今日キリストのからだの中で、このように恥が多いのは、これが第一の原因だと思います。教会で正義が行われていないのです。小さなもめ事でも誰もそれを裁いて仲裁しないのです。
私はある大きなクリスチャンのムーブメントのただ中で起きていた不正を裁くようにと、そのリーダーに言ったことがあります。すると彼は「そのようなことをすれば私たちは訴えられるから、それはできません。」と答えました。彼は天の法廷よりもこの世の法廷を恐れていたのです。権威をもってその状況に正義をもたらすことができなかったのです。
皆さん、神の御国とは何でしょうか。
義と公正(righteousness and justice)です。詩編89:14には「義と公正は、あなたの王座の基。」とあります。しかし教会は義の分野においても十分ではありませんが、公正に関してはほとんど何もしていない状態です。
新約の時代、長老はすべて裁判をしました。私たちは義と公正を打ち立てねば御国を来たらすことはできません。人々が訴え出ることができるシステムがなければなりません。マタイ18:15−17を実際に行えるシステムです。これは絶対に教会が放っておいてはいけない問題です。
もし牧師が長老を任命するならば、その人にはっきりした任務と権威の門を与えるべきです。それは教会にとって大きな恵みを解き放つことになります。
長老は争いを裁くだけではありませんでした。土地の売買とか結婚や離婚とかを取り扱ったのです。今クリスチャンは公正を得るために何処に行っているのでしょうか。パウロは「小さな争いも裁けないあなたが御使いをも裁けると思うのですか」と叱責しています。神は正義と公正を非常に重く見ておられます。ご自分の子どもたちが公正に取り扱われているかどうかは、神にとって重大な関心事です。皆さんも親として、もし自分の子どもが不正に取り扱われたり誤解されたりしていたらどう思いますか?
私はオーソドックス・ユダヤ教のラビの友人を持っています。彼はラビになるために何年もの学びが必要でしたが、それに加えて人々のために裁判ができるようになるために更に8年間の学びが必要でした。彼らは8年間に何を学ぶと思いますか?
それは主を畏れることです。そしてついに任命される時の誓いは、聖書の中にある「公正を行わない者の上にくだるすべての呪い」を暗唱することであり、そのような者にその呪いが下るようにと祈ることです。彼らはそのくらい正義、公正であることに真剣であり、それは神がそういうお方であるからなのです。
離婚について
オーソドックス・ユダヤ教の中での離婚率は非常に低く、6%です。彼らは離婚を認めています。しかしあるカップルを結婚させたラビは、もしその結婚が破綻するとそれは彼の記録に残り、大きな汚点になるのです。そのラビは破綻をきたすようなものを認めてしまった、というわけです。ですから、結婚が破綻しないように結婚の前に非常に厳しい学びをさせます。契約を破ったときに降り掛かる呪いも学ばせます。二人がしようとしている結婚ということがどれほど重大な契約かを学のです。
そして結婚するのですが、勿論、夫婦間の問題にぶつかります。それは誰でも、どの結婚でもそうです。離婚は不法ではありません。モーセも認めています。離婚をしたいカップルは自分たちを結婚させたラビのところに行かねばなりません。ラビは「わかりました。」と言って、彼らと契約破棄をした時に降り掛かるのろいを勉強するのです。その結果としてほとんどの場合、「離婚はやめます。」ということになるのです。これは知恵だと私は思います。
結婚に問題が生じたとき、彼らが教会から逃げるのではなく、教会に助けを求めに来れるようにせねばなりません。教会を離れているクリスチャンの多くは離婚をした人たちです。彼らは教会には受け入れられないと考えています。
マタイ5:31、32を私はギリシャ語で詳しく調べました。ここで使われている言葉は、「離婚 divorce」ではなく「追い出す sent
away」です。当時のパリサイ人は律法で決められていたにもかかわらず、離婚状を渡さずに妻を追い出していたのです。モーセは妻を出すときは離婚状を渡すように、そうすれば彼女は再婚が出来ると言っています。イエスは当時パリサイ人がしていたこと、即ち離婚状を渡さずに妻を追い出していたことをこの箇所で裁いておられるのです。
ある教派では離婚経験のある人がミニストリーをすることを認めていません。私は主にお聞きしました。すると主は「わたしもしたことで人を罪に定めてはいけません。わたしも離婚しています。」と言われました。エレミヤ3:8で、主はイスラエルに離婚状を渡しています。主はやがて再婚されると思いますが、現在は離婚されているのです。
安易に外側から人を裁かない
私たちは公正を常に求めます。しかし、外側から裁く人たちが正しく裁くことはほとんどありません。問題の状況をすべて把握したならば、彼らも違う結論に達することでしょう。しかし彼らはほんの少しの情報だけで大声で人を裁いてしまいます。そのような裁きをした人たちに、やがて神からの裁きがあることを私は見てきました。神が罪人に対してどれほどの恵みをくださるかを、私たちは決して忘れてはなりません。そして神が自分を義しいとする者に対してどれほど厳しいかを忘れてはなりません。私たちは自分を義人とするよりは、人に恵みを与えるものになるべきです。
しかし真の恵みは、罪を見たときに無視したり妥協したりすることではありません。罪を見たらそれは罪だと認めねばなりません。罪を見たならば、それを放置するのではなく、マタイ18:15−17を実行しなければなりません。神は悔い改めた罪は赦してくださいますが、弁解は赦してくださいません。
正しい公正は人を解放するのです。罪を犯した人はそれを告発され悔い改めなければ解放されません。義と公正が教会のうちに正しく回復されることを祈ります。(終り)