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08 6月

教会を建て上げ治める リック・ジョイナー(その一)        2015年6月8日


教会を建て上げ治める(その一)

 

リック・ジョイナー

 

神の御国がやって来ようとしています。私たちはそのための準備をせねばなりません。王のために王道を備えるのです。イザヤ40章にあるように、山や丘を低くし、谷を埋め立てるのです。それは非常に困難な作業ですが、私たちは神のために最高の道を備えねばなりません。

 

コイノニアの必要

教会を表すギリシャ語は二つあります。

コイノニア(親密な交わり)とエクレシア(教会の組織)です。教会を建て上げるために、ほとんどの場合今まではエクレシアが用いられていましたが、それは間違いであったと私は考えます。初代教会を見てみますと、彼らはまずコイノニアを作り、そこからエクレシアが生まれてきています。もしコイノニアなしにエクレシアから始めると、そこからコイノニアを生み出すのは、不可能ではないかもしれませんがとても難しいと思います。その理由は、教会は組織ではなく家族として召されているからです。教会に組織、秩序は必要ですが、まず家族になっていなければそれらはうまくいきません。皆さんは自分の肉の兄弟や姉妹に本当に腹を立てたとしても、その人を家族から追い出すことはしませんね。クレイジーなおじさんがいたとしても、その人がおじさんでなくなることはありません。私は多くの教会やムーブメントを経験してきましたが、真にコイノニアとなっているところは2、3しかありませんでした。教会員の仲がいい所は勿論ありましたが、それは聖書がいうコイノニアにはほど遠いものでした。週に一回会って挨拶をするだけではコイノニアは生まれません。私たちは本当にその気になって意図的にコイノニアの交わりを作っていかねばなりません。

 

第一ヨハネ1:7に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とありますが、ここの「交わり」とはコイノニアであり、イエスの血によってきよめられるために必要な交わりです。

 

「ふたりでも三人でも」の解釈

マタイ18:20に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあります。私はずっと今までこの箇所を「もし,2、3人という少人数でもイエスの名で集まるならば、そこに主が来て下さる。」という様に解釈していました。でも主は「それは違う。」と言われたのです。そして「もし2、3人以上いるならば、わたしはそこにはいかない。

わたしは2人か3人以上はいらない。」と言われたのです。これは礼拝に集まる人数のことではありません。初めに2、3人以上いたならば主はそこにおられないというのです。

 

主はこの真理を私のミニストリーに関して言われたのです。私はとても応じきれないほど多くの都市から講演の依頼を受けます。それで私は「その都市にある半分以上の教会が集会に参加するならば」という条件を付けることにしていました。多くの教会の参加を条件としたのです。しかし主はそれに対して「あなたは間違っている。教会の一致はそのように生まれるのではない。先ず二つの教会がわたしの名において一緒に集まることが大切だ。」と言われたのです。二つの教会が一致して主の御顔をあおぎ主を求めるならば、そこに真の絆が生まれ、主が喜んで来て下さるのです。そして次の段階として3つ目の教会が加えられ、更に次々に教会が加えられていきます。その時に主を見失うことはありません。なぜならば、初めに二つの教会が主の臨在のうるわしさを経験したので、教会の数が増えてもその素晴らしさを絶対に失いたくないと決意するからです。

 

私たちモーニングスター・ミニストリーがある都市で教会を始めるときには、そこにあるすべての教会を尊重し、すべての教会と親しく交わりたいと思います。しかし、まず、一つの教会、或いは一つのミニストリーと主にあって交わり、主の臨在を迎えて絆を築くことから始めることが主の御心であると思います。

 

それでは教会内ではどうでしょうか。私は少人数のグループをもっと推進するべきだと思います。例えばとりなし手のグループにしても、何のためにとりなすかによって小さく分けることが出来ます。イスラエルのために祈るグループ、リバイバルのために祈るグループ、というようなしっかりとした目標を掲げるのです。人数が多いよりも、少人数で一致した方が強いのです。その時そこにはコイノニアが生まれることでしょう。そしてそこに主がおられます。

 

軍隊で一番小さなユニットはファイヤー・チームと呼ばれ、3人で構成されています。教会においてもファイヤー・チームを最初のユニットとし、それを組み立てていき、遂には大きな軍隊を形成することができるのです。

 

「小ささは次の大きさだ」という言葉は、このことに当てはまると思います。教会を始めるのに、3人いればよいのです。主がそこにおられるなら、それで十分です。あなたが対処できる範囲で少しずつ人数が増えていけばいいのです。人々は主の臨在に引寄せられて加えられていきます。

 

長老に関して

次にエクレシアについて話したいと思います。コイノニアを基礎としてエクレシアが形成されていくとき、そこに教会運営の知恵が必要となっていきます。

 

新約の教会運営はイスラエルが荒野のいた時、及び約束の地に入ってからの統治を型としています。

民数記11:16に「主はモーセに仰せられた。『イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばにたたせよ。..』」とあります。モーセは沢山の長老の中から70人の長老を選んだのです。歳を取っているから長老になるのではありません。

 

約束の地に入ってからの長老の仕事の一つは、町の門にすわって、人々を裁くことでした。町には門が幾つかあり、それぞれの門には役割がありました。その門に座る長老たちはその門の役目を果たしたのです。例えば商人の門がありました。商人たちはその門から出入りしました。その門の長老たちは、商人の出入りをチェックするだけではなく、商品の重さを計ったり品質を見分けたりする能力がありました。町に入れていい商品かどうかもチェックしたのです。そのような権威を与えられていたのです。又軍隊の門もありました。軍隊の位を見分け、敵か見方かを見分けたのです。

 

即ち、すべての長老には決められた役割、仕事がありました。全体的にすべてを管理するのではありませんでした。自分が権威を与えられた門以外のところでは、権威は与えられていませんでした。子どもへのミニストリーに関して全く知識のない長老が、そのミニストリーに対して物を言う権威を持つべきでしょうか。そうではないと私は思います。影響を与えることはできると思いますが、権威は与えられるべきではないと思います。経済やお金の運用に優れた人が教会の経済を任され長老になったとしましょう。けれども彼が何も知識のないワーシップに対して権威を持つべきでしょうか。教会の中の権威がはっきり区別されてないので、すべてが不透明になってしまっています。長老を任命する時は、何のための長老かを明確にし、その人の持つ権威の範囲を決めるべきです。

 

使徒バウロも自分の権威を越えたことはしないと言っています。彼は主から異邦人伝道の権威を与えられていましたが、ユダヤ人伝道の権威は与えられていませんでした。ですから彼がエルサレムを訪ねたとき、人々は彼を使徒として迎えましたが、彼はエルサレムの教会に対しての権威は持っていませんでした。

 

私がモーニングスター以外の教会やムーブメントに行くとき、私はゲストとして歓迎されます。しかし、私はそこにおいて、彼らが私に与えてくれない限り、使徒的な権威は持ちません。

もしも人々が自分に与えられている権威の範囲を守らなければ、キリストのからだは大きな問題にぶつかるでしょう。(続く)


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