クリスチャンに与えられている権威 ベンジャミン・イスラエル• ロビンソン 2015年6月1日
クリスチャンに与えられている権威
ベンジャミン・イスラエル• ロビンソン
マタイ28:16−20
「しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってパプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたと共にいます。』」
弟子たちはイエスを礼拝した
イエスは復活後40日間、御国に関することを弟子達に教えられました。この箇所では弟子たちがイエスを見たときに彼らは「礼拝した worshiped Him」と書かれています。これは非常にすごいことが起ったのです。弟子たちはこれ以前に主を「礼拝 worship」したことはありませんでした。ナザレのイエスに対してこの行為がなされたことはそれまでなかったのです。盲目のバルテマイをイエスが癒されたとき、彼らは誉め称えました。主が悪霊を追い出し、病人を癒されたとき、又水の上を歩かれたときも彼らは主を礼拝はしませんでした。主が嵐を静められた時、彼らの口から出た言葉は「いったい、この方はどういう方なのだろう。」というものでした。彼らは神学的にイエスはどういう方なのだろうかと思い巡らしたのです。
しかし、この山で復活の主に会ったとき、彼らは「礼拝」したのです。それは彼らが主の生きた臨在に触れたということです。主の臨在に触れ主の栄光を見たとき、彼らは反射的に礼拝したのです。「自分たちは何をしているのか」「どういう意味があるのか」と考える前に、彼らは主の前に反射的にひれ伏したのです。
この後弟子たちは、ここで自分たちがしたことをずっと思い巡らすことになりました。新約聖書はこの経験を一つの原点としているのです。私たちが主を礼拝するのは、神学的な結論からではありません。私たちは聖書研究をした結果、「それでは主を礼拝しよう」と思うのではありません。礼拝は反射的に起ることです。もし主が今この部屋に入って来られるならば、たとえ無神論者であったとしても主を礼拝することでしょう。主の臨在にふれた時、反射的に私たちは礼拝するのです。
この山で弟子たちは復活の主の栄光に圧倒され、思わず地にひれ伏しました。しかし「ある者は疑った。」とあります。それはある者たちは立ち止まり、これは神学的にはどういう事なのか、と考えたのです。「もし父なる神が神であるならば、そしてイエスも神であるならば、イエスは父なる神なのか、それならば御座には誰がおられるのか、それとも神が一人以上いるのか。神はお一人のはずだが、、、」と。しかし他の者たちはそのように神学を考える余裕もなく、ただ主の栄光に出会い礼拝することしかできなかったのです。後になって彼らはこのことを思い巡らし、そこから三位一体の教義が生まれたのではないでしょうか。
礼拝の意味
「礼拝 worship」と訳されている言葉は、ギリシャ語では2つあります。ローマ12:1に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とありますが、ここの「礼拝」にはロトレイヤという語が用いられています。これは奉仕、祭司の務め、主に捧げた人生、私たちが生きた供え物として主に仕えることであり、即ちそれが礼拝、ロトレイヤなのです。
もう一つの源語はプロスクネイヨで、これはヨハネ4:23−24でイエスが言っている言葉です。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ここで言う礼拝とは神の御前にひれ伏し拝むことです。霊とまことによって心のうちから神を崇めひれ伏すことです。御父はこのような礼拝者を求めていると主は言われます。
マタイ28:17の「礼拝」はこのプロスクネイヨです。「そして、イエスにお会いしたとき、彼らはプロスクネイヨした」のです。彼らは地にひれ伏し、全面的な崇拝、服従、忠誠を表したのです。
復活の主の権威
イエスは弟子のその姿を見て、先ず「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と言われました。権威とは力を行使する権利です。もしあなたがすごいスピードの出る車に乗っていたとしても、制限速度以上で走ることは法律上できません。イエスは力(デュナミス)を持っておられましたが、今までは「いっさいの権威」は与えられていなかったのです。
人として地上で歩かれた時のイエスを見ると、常に神の力に満ちておられましたが、そのミニストリーは幾つかの点において力の行使を制限されていました。主は父のなさることを見てそれだけをされました。マタイ10章では弟子たちに汚れた霊を制する権威をお授けになりましたが、「異邦人の道に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と言われました。イエスの3年半のミニストリーはほとんどガリラヤ地方に限られていました。イエスの権威は地理的にも制限されていたのです。
しかしながら、復活の主は「天でも地でもいっさいの権威がわたしには与えられている」と言われたのです。主は「わたしの力を行使するための権威の制限はすべて取り払われた」と宣言されたのです。車の制限速度は取り払われたので、主は全速力で全世界に力を表すことができるのです。弟子が主と会ったとき、それは今までとは違う権威に満ちた主であり、彼らはその顕在にふれて即座にひれ伏したのです。
私たちの使命
つぎに主は「それゆえ、あなたがたは出て行って」と言われましたが、「それゆえ」とは、前述したことを理由として次のことをしなさい、という意味です。「行きなさい」というイエスの命令は、「わたしには天でも地でもいっさいの権威が与えられています」という事実により、「それゆえ」あなたがたは出て行きなさいということです。そしてそれはイスラエルだけではなく、「あらゆる国の人々を弟子とするため」なのです。イエスは弟子たちにご自分の権威を与え、ご自分の代理人として送り出しておられるのです。
創世記1:28で神はアダムとイブに「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と言われましたが、イエスは「すべての国々に出て行って人々を弟子とせよ。」と言われます。アダムとイブは肉の子どもを生み地を治めましたが、私たちに与えられた仕事はすべての国々に出て行って霊の子どもである弟子を生み出すことであり、これはすべてのクリスチャンに与えられた命令です。
牧師、伝道者、使徒、預言者、教師とかだけではなく、すべてのクリスチャンがこの命令を受けているのです。
私たちの多くは、イエスの大宣教命令が自分に与えられたものであると自覚していません。その理由は大宣教命令を次の4つに限定し非常に狭義に解釈しているからです。
1.路傍伝道をする
2.牧師になる
3.宣教師になる
4.教会の伝道活動を助ける
勿論、これらは非常に重要な働きであり、もっと多くの人がこのような働きをしてほしいと思います。
自分が置かれている場所での伝道
しかし、これらをしていないと自分は大宣教命令を実行できないと思う必要はありません。まずこの命令は自分にも与えられていることを信じ、自分の今置かれている場所で何ができるかを主にお聞きするのです。あなたにしか出来ない伝道の仕方、伝道の場があるのです。あなたの仕事の場がそのまま伝道の場です。牧師が行く事ができない場所も沢山ありますし、出会えない人も沢山いるではありませんか。
ここに座っているジェイソンはモデルの仕事をしていますが、先月ニューヨークの大きなショーに出演しました。その時一緒に働いていた女性のモデルと話をしていたのですが、聖霊の助けにより彼女に預言をしたところ、彼女は涙を流しイエスを主と受け入れたのです。そこにワーシップ音楽が流れていたわけでもなく、彼がトラクトを持っていたわけでもありません。彼はただ神に福音を伝える機会を与えてくださいと祈り、神が扉を開いてくださったのです。それは無理やりな形式的なものではなく、神の御手の中で自然に起ったことです。ハレルヤ!!
19節の「それゆえ、あなたがたは行って、」という「go」というギリシャ語は、行き続ける、という意味です。あなたは行き、行き続け、行き続けながら、即ち日常生活をしながら、その時、その場所で大宣教命令を果たしていくことができるのです。あなたがどのような仕事をしていたとしても、それは出来るのです。
弟子の作り方
イエスはここで弟子を作る方法も言われています。
ステップ1:父、子、聖霊の御名においてバプテスマを授ける。このバプテスマということばは原語バプテゾの音訳ですが、「浸す」という意味です。そしてそれはただ水の中に入れるということではありません。「御名」とは父、子、聖霊の存在そのもの、臨在です。人々を救いに導きたいならば、まず神の臨在に触れさせねばなりません。ジェイソンは神の臨在を持ち運び、女性のモデルはそれに触れたのです。
ステップ2:すべてのことを守るように教える。私たちはステップ1を抜かしてステップ2をしてしまう間違いを犯しがちです。タバコを吸うな、酒を飲むな、というだけで、もしイエスの臨在を与えないならば、ただの宗教です。私たちがイエスという真珠を与えるならば、彼らはすべての持ち物を売リ払ってその畑を買うでしょう。
私たち一人ひとりがこの大宣教命令を受け取り、自分の持ち場で実行していく権威を頂いていることを忘れないようにしようではありませんか。(終)