預言の約束と祈りの関係 (その2) マイク・ビクル 2015年5月20日
預言の約束と祈りの関係 (その2)
マイク・ビクル
1982年9月に私はエジプトのカイロのホテルに泊まっていたのですが、夜一人で祈っていたときに経験したことをお話しいたします。その時私は27歳で、セントルイスで牧師をしていました。主が24/7の祈りに関して語ってくださる少し前のことです。
私はその夜非常に劇的な霊的経験をしました。勿論私の人生でボーンアゲインしたことが最大の経験でしたが、これはその次に重要な経験でした。私の内に主の御声をはっきりと聞きました。肉の耳で聞いたわけではありませんが、単なる印象とかではなく、非常に鮮明に聞いたのです。主はこう言われました。
「わたしは全地でキリスト教というものの理解と表現を一世代のうちに変える」
この言葉は私のうちに矢のようにささり、主ヘの畏れに私は打たれ、主の臨在がそこにあふれていました。
「キリスト教というものの理解」という言葉を聞いたとき、それはノンクリスチャンがキリスト教をどのように見ているのか、ということを指していることが私にはわかりました。使徒5:5には「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」と書かれています。すべての人が教会に働いている聖霊の力を恐れたのです。
使徒5:13には「ほかの人びとは、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人びとは彼らを尊敬していた。」とあります。それほどに教会は人びとから一目置かれていたのです。
今世界の中で教会は力を持っていませんし、尊ばれてもいません。国家に対しても、都市に対して、家族に対しても、ほとんど影響力がありません。主はノンクリスチャンたちの教会をそのように見る目を変えると言われているのです。人びとは再びキリストのからだの中に神のすばらしさと同時に恐るべき力を見るようになるのです。
次に「キリスト教の表現」とは、教会がイエスのリーダーシップのもとで共にその命をどのように表すかということです。神は私たちを劇的に変えてくださり、教会は神の愛と力において一致し、一世代のうちに聖い民とされます。キリストのからだが集まるとき、そこに新しい姿が表されるのです。それは私たちが今想像する以上のものでしょう。ただ礼拝に集まるときだけではなく、世の中で、クリスチャンが二人三人と集まるときに、主の臨在がそこに現れるのです。大きな競技場が聖会で一杯になる時が来ると私は信じます。ある人が説教をして沢山の人が救われるという集会も確かにすばらしいのですが、それだけではなく、集まったすべての人のただ中で神が働かれ、しるしと不思議と奇蹟が起るということがもうすぐ起こると私は信じています。
神はその時、キリストのからだのすべての人を用いられます。小さいレムナントの群れがあそこに一つ、ここに一つ、というのではありません。
何故か「レムナントとは、即ち私が属しているグループだ」とみんなが思っています。しかし、世界には数えきれないほどのミニストリーが主のために仕えています。それぞれ異なる働きですが、皆全身全霊で主に仕えているのです。
頻繁に「リバイバルはどこから始まるか」という話を耳にします。どこから始まってもいいではないですか! いずれ全地がおおわれるのですから!
普通そのような話をする人は、リバイバルは自分のグループから、自分の国から始まると言うのです。しかし神はキリストのからだを全部愛しておられます。
「あの群れはもう霊的に死んでいる」と非難する人もいます。確かに死んでいるところもあるかもしれません。しかし、その死んでいる祈り会に激しい聖霊の風が吹けば一夜にして変えられるのです。ですから私は誰をもリストから消したりはしません。何故ならば、リバイバルは「いかに人びとがすばらしいか」ということではなく、「いかに神がパワフルで偉大であるか」ということだからです。「どの教団が」とか「どの教派が」とかいう話はまったく聖霊の働きとは関係ありません。「私の街からリバイバルが始まります。」という人にむかって、私は「すばらしい!他の一万ほど場所でも起こりますよ。」と言うのです。
ヨエルの預言について
使徒行伝2:16−20でペテロはヨエルの預言を引用しています。
「これは預言者ヨエルによって語られたことばです。『終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしに霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」
ペンテコステの日に120人が集まっていたときに聖霊が下り、一瞬にしてこの小さな祈りのグループは変えられました。このあと3千人が救われ、その後も多くの人が教会に加えられました。
16節を見てみますと、ペテロは「これは預言者ヨエルによって語られた言葉です。」と言っています。実にこれは非常に重要なポイントであり、ペテロは今起っていることはヨエルが預言したことだ、と言っています。「主の日が来る前に」地上のすべてのクリスチャンの上に聖霊が注がれるのです。そして奇蹟が空中にも地にも毎日のように現れるのです。物事はだんだんに少しずつ起ることもありますが、また突然起ることもあります。
「すべての人に」というのはイスラエルにとっては、全く新しい考えです。ヨエルはBC600年くらいの預言者でしたが、聖霊がすべての人に注がれると言ったのです!当時預言の霊は王と預言者に注がれただけでした。そして2、3の例外を除いては、すべてユダヤ人の成人男子にだけ注がれました。しかしヨエルは子どもにも注がれると預言しました。当時のリーダーたちは「えっ、子どもにも?」と思ったことでしょう。そして女性にも注がれ、なんと異邦人にまで注がれるというのですから、彼らは心底から驚いたことでしょう。これは本当にとんでもない馬鹿げた話だったのです。聖霊が異邦人の女の子どもに注がれるなど、当時は全く考えられないことでした。ヨエルは「まあ、見ていてごらんなさい。」と思ったことでしょう。
ペテロはヨエルの預言を120人に起ったことに対して引用しています。しかしヨエルの預言はすべての人に対する預言です。「でもペテロさん、ヨエルはもっとすごいこと、全地のすべての人に聖霊が注がれることを預言しているのですよ。」と私は言いたいのです。ペテロはたったの120人にヨエルの預言を当てはめているのですが、でもそれは確かに預言の完全な成就の始まりだったのです。使徒行伝を読む時は、これが最高だと思わないでください。これは出発点、発射台、始まりです。私たちはペテロが見たものより、ずっとすばらしいことを見るようになるのです。
愛する皆さん、私たちはこの預言の約束を握りしめ、これを忍耐強い祈りに変えねばなりません。また国家に与えられた預言や、個人的な預言もそれを信じて祈り続け、実現に至らしめるのです。なぜならば預言は神からの招待状だからです。(終)