主の任命 ベンジャミン・イスラエル • ロビンソン 2015年5月4日
主の任命
ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン
仕えることの大切さ
多くの人が「自分には神からの特別な召しがあるから、神がそのための扉を開けてくださるまでは、何もしなくてよい。」と言います。それは世界的な預言者になるとか使徒になることかもしれませんが、何であれ、彼らは「小さな働き、奉仕は私にはできません」と言うのです。けれども、あなたが人に仕えることを始めない限り、神があなたをどのように召されるのか、どのようなデスティニーに導かれるのか分からないのです。人に仕え奉仕するプロセスにおいてそれは示されるからです。
モーセがそのよい例です。彼のデスティニーはイスラエルをエジプトから導き出すことでした。しかし彼はしゅうとのイテロから羊を飼うようにと言われました。モーセはそれに従い、誠実に仕えていた時に「燃える柴」の経験をしたのです。そして彼はイスラエルの解放者、偉大な預言者となりました。仕えていくことを通して、私たちは神からの自分への職務を見出します。これはダビデの人生でも明らかに見ることができます。
サムエルの油注ぎ
1サムエル16章を見ると、サムエルは一人で部屋の中で泣いていました。それは、彼がイスラエルの王として油注いだサウルが過ちを犯し、サウルにもイスラエルにももう希望がないように彼には思われたからです。サムエルは、サウルの失敗を嘆いていただけではなく、それは取りも直さず自分のミニストリーの失敗だったのです。このような事態を避けるために自分はどうすればよかったのだろうか、と考え、悔やみ、悲しんだのです。サムエルは多くの者の中からサウルを選び、ロバに関する預言を与え、油を注ぎ、イスラエルの前で彼を王にしたのです。ですからサムエルは責任を深く感じていました。
今サムエルは、一人で、神が一つ前の代にされたことが失敗したことを嘆き悲しんでいました。その時神が介入され、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。」と言われました。この言葉からサムエルがかなり長い間悲しんでいたことがわかります。彼は恐らく何日もサウルのことで泣き、もうすべて終ったと感じていたのでしょう。神は「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角の油を満たして行け。」と言われました。サムエルは恐らく「もう私は誰にも油を注がない。サウルに油を注いだが彼は失敗した。私には誰を選んだらよいのか分からない。」と思っていたことでしょう。
しかし神は「わたしが前の代でしたことでいつまで泣いているのか。わたしは次の代の上にすでに手を置いているのだ。」と言われたのです。神はすでにダビデを選んでおられました。サムエルがダビデに油を注ぐずっと前に、神はダビデを選び、任命し、油を注いでおられたことを私たちは知らねばなりません。サムエル、家族、イスラエル、そしてダビデ自身が知るずっと前に、神はダビデに油を注いでおられたのです。
サムエルが遣わされたのは、神が永遠の中で既に成就されたものを、歴史の中の今という時に現すためでした。「わたしがすでに成したことの証人となる特権をサムエル、あなたに与えるのです。」と神は言われています。これが任命式(オーディネイション、按手礼)の意味です。
心を見られる主
サムエルは角に油を満たしエッサイの町に出かけました。エッサイは7人の息子を連れてきましたが、一番末のダビデには羊の番をさせておきました。エッサイはダビデを評価していなかったからです。彼は人の目に立派に見える息子たちを連れてきました。神も同じように見られると思い違いをしていたからです。私たちは神の御前で喜ばれる者がどのような者かを知らないのです。
私たちが人を見るとき、その人の過去と現在しか見ることができません。しかし神は私たちを永遠の中で知っておられます。
エッサイの7人の息子たちがサムエルの前に一人ずつ立ちましたが、神は「この人ではない」と繰り返し言われ、神はサムエルに「外見で人を判断するのはやめなさい。」と言われ、サムエルはエッサイにダビデを連れて来させます。ダビデは羊を飼っていた牧場から来ましたから、多分羊のような臭いがし、顔に泥がつき、頭には小枝がついていたことでしょう。サムエルは「主よ、この者ではないですよね。ご冗談でしょう。」と思ったと思います。しかし神は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」と言われたのでした。
前もってデスティニーを知らされる意味
興味深いことは、イスラエルの王として油注がれたダビデが、又羊飼いの仕事に戻ったことです。私たちにとって一番辛いのは、神はかなり前もってデスティニーを与えられることです。
例えば、アブラハムにまだ子どもが一人もいないときに、「あなたは多くの国民の父となる」と言われたことです。あるいは、ヨセフは家族全員が自分を伏し拝んでいる夢を見たけれど、兄たちは彼をエジプトに奴隷として売る相談をしていたことです。又、バプテスマのヨハネが生まれたとき父親がすばらしい預言をしましたが、彼は30歳頃まで荒野で野蜜とイナゴを食べて暮らしたことです。
神は私たちにデスティニーを前もって与えることが大好きです。その理由はあなたが次のことを知るためです。即ち、「デスティニーは、あなたの努力で一段ずつ階段を登って獲得するものではない。又あなたが何らかの資格、学位を取って獲得するものでもない。それはただ神が神のパワーによって成されることである。」という真理です。
あなたが「自分は失敗した、もう駄目だ」と思う時、神はあなたの人生の中のサウルというかすを取り除いてダビデを就任させているかもしれないのです。あなたが失敗したと思うその時こそが、あなたが昇格する時かもしれません。あなたは失敗したのではありません。あなたは失敗出来ません。あなたのデスティニーが失われることは絶対にありません。神は決してあなたに与えたデスティニーを忘れてはおられません。
胎内の任命
ダビデは非常に多くの困難や敵のわなに直面しました。ダビデはイスラエルの王の油注ぎを受けましたが、家族はそれを信ぜず、彼を羊のところへと追いやりました。
サムエルが少年ダビデに油を注いでから、彼がユダの王に任命されるまでにほぼ10年が経っていました。神の油注ぎとサムエルの油注ぎとは異なり、またサムエルの油注ぎとイスラエルの油注ぎは異なっています。
神はエレミヤ1:5で「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」と言っておられます。神はダビデが母の胎内にいる時から任命していました。神の油注ぎは永遠のうちにあるのです。しかし、サムエルによる油注ぎは、神が地上でダビデの任命を現すのにふさわしいと思われたその時点で行われたのです。神は「さあ今、わたしは人びとに知らせよう。」と言われたのです。しかし、神が地上で任命を明らかにされるのは、これから起ることのしるしにすぎません。実際にはあなたはまた前と同じように羊を飼うのです。
あなたが現される日
2サムエル5:3で「イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンで主の前に、彼らとの契約を結び、彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。」とあります。全イスラエルがダビデを王に任命した日は、彼の王権が全面的に現される日となりました。彼はその日丁度30歳になりましたが、彼はその後33年間イスラエルを治めました。23歳から7年間ユダを治め、30歳から33年間全イスラエルを63歳になるまで治めたのです。
2サムエル2:4に「そこへユダの人びとがやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。」とあります。ユダの油注ぎとは、小さなグループの油注ぎということです。神はまだあなたを世界には現されていません。神はあなたを少人数の人にだけの秘密にしておられるのです。大部分の人は神の油があなたの人生に注がれたことを知りません。しかしあなたが全イスラエルによって油注がれる時、神がたれ幕をさっと開いてあなたを人びとに現わします。私たちは神の現れを祈りますが、神はあなたの現れを待っておられるます。実際、すべての被造物は神の子たちの現れを待ち望んでいます。
あなたの油注ぎは、サムエルの角の油に頼る必要はありません。サウルがあなたに好意を持っているかどうかも関係ないのです。あなたは今職場や家庭で悪く言われ、これからもよいことが起るとは思えないかもしれません。しかし神があなたを建て上げておられるところでは、必ずあなたを貶めようとする人がいるのです。神はあなたを現されるその日、その時を必ず備えていてくださいます。
その時まで神は、私たちが何をすることを望んでおられるのでしょうか。主はダビデに「羊の群れに戻りなさい。そしてハープを奏でて賛美をしなさい。」と言われました。私は時々「神様、今から霊的眠りに入りたいです。あなたがこの問題を解決してくださる用意ができた時に起こしてください。その時まで眠らせておいてください。」と主にお願いしたいと思いますが、神様のやり方はそうではありません。ダビデはどんな時も羊のところに行き、ハープを手にとって「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。・・・」と歌ったのです。
私は自分のデスティニーを成就するために生きているのではありません。私は私の主を礼拝するために生きているのです。私のデスティニーは主の御手の中にあります。主が私の内に置かれたものを現す日は、主の御手の中にあるのです。(終り)