愛する人のためのとりなし トッド・ベントリー 2015年4月20日
愛する人のためのとりなし
トッド・ベントリー
産みの苦しみ
イザヤ66:7−9「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起る前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起すと同時に子らを産んだのだ。『わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか。』と主は仰せられる。『わたしは産ませるものなのに、胎を閉ざすだろうか。』とあなたの神は仰せられる。」
魂の産みの苦しみとは、情熱的な深いとりなしの祈りであり、それによって失われている人たちが福音に耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れる決断をする霊的空気を作り出す事ができます。
人びとの目をくらませ圧迫する敵の力を実際にはねのけ、福音が彼らの心にしみ込むようにできるのです。効果的な魂の獲得は、このように重荷を負って苦しむ涙の祈りなくしては決して達成できません。
「魂を勝ち取るのは私たちの義務であり務めであるのだから」という理由では、私たちは深いとりなしへとは導かれません。しかし「聖霊よ、来てください。どうか主の御心と同じ重荷を与えてください。神の願いを私たちの内に入れてください!聖霊よ、あなたが魂の救いのために砕かれたように私たちをも砕いてください。私たちが魂のために産みの苦しみをするように助けてください。」と叫ぶことはできるのです。
私たちは魂のために神と格闘する者でなければなりません。ヤコブのように「主なる神よ、私はあなたを離しません。あなたが私を祝福してくださるまで私はあなたと格闘します。私に人びとの魂を与えて祝福してください。失われ滅びていく世界が救われ、癒され、解放されますように。私はあなたと格闘します。私の家族が救われるまで。」と言うのです。
使徒パウロは産みの苦しみについてこう言っています。
ガラテヤ4:19「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
パウロはすでに彼らの魂の救いのために産みの苦しみをしましたが、又更に彼らの中にキリストが形造られるように産みの苦しみをしたのです。
パウロがエペソ人への手紙を書いたとき、 彼は深い祈りの心を持っていたことがわかります。エペソ3:14「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」
パウロは常に「産み出すこと」をし続けました。彼はそのような霊の領域を知っており、神の御心にどのよう触れ、神が望んでおられる誕生をどのように産み出すかを知っていたのです。私たちにもこの姿勢が必要です!
私たちが文字通り神の御思いに圧倒されるような「火」と「油の注ぎ」が与えられることを、私は信じています。私たちを主の前で泣き伏させ叫ばせる恵みが私たちのために用意されているのです。聖霊による魂の救いのために産みの苦しみができる恵みが私たちのためにあるのです。
神は私たちをなまぬるい、居心地の良い状態から連れ出し、聖霊により街に出て行き、失われた魂に福音を語らせることができるのです。そうして私たちは伝道へという熱い思いにゆり動かされるでしょう。
産みの苦しみのとりなしによって魂の救いを見るための重要な鍵の一つは、私たちが神の燃える愛に触れ、神の御思いによって砕かれ、とりなしの重荷を与えられることです。私たちは本当に自分を愛するように隣人を愛す必要があります。(マタイ19:19)しかし、第一にすべきことは何でしょうか?
それはまず神を愛することです。(マルコ12:30)それが私たちへの最大の召しです。即ちイエス・キリストを知ること。そしてイエスとの交わりにより私たちは愛の心を持ち、失われた魂に対する愛と憐れみに突き動かされてその救い見るに至るのです。
そうであれば私たちは単に責任とか義務とかで働きはしないでしょう。イエスが「これはわたしの仕事だから」と言って人びとにミニストリーをされたことは一度もありませんでした。人びとへの大きな愛の故に主は人びとに手を差し伸べられたのです。
家族の救いとリバイバルの約束
使徒16:31「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』といった。」
出エジプト12:3「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。」
一頭の羊が家族全員の解放に十分だったのです。
このような産みの苦しみの祈りの戦いがサタンの力を打ち砕くことができます。
次に、縛り、そして解き放つミニストリー(the ministry of binding and loosing) により、人びとを盲目にして福音を拒ませている惑わしの力を押しのける助けが出来ます。サタンが不信者の心と思いをどのように縛っているかを次の箇所から見てみましょう。
第二コリント4:3−4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人びとのばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」
エペソ2:2「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
あなたの家族をキリストの下に来させないようにとの指令を受けて働いている悪霊の力があり、又、あなたの家族が真理を見ないようにしている力があるのです。私たちが彼らのために祈るのはこのためです。これはただ神に「どうかジミーやスーを救ってください」とお願いするのではなく、私たちがサタンの力に対する権威を行使し、彼らの名前を呼んで呼び出すのです。私たちは霊において敵の要塞に対して権威を持ち、獄の戸を開けて捕われ人を解放しなければなりません。
イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・・」
この聖書箇所で、神は「わたし」という言葉を何度も使っています。主の霊は「わたし」の上にあり、それは捕われ人を釈放し囚人を釈放するためなのです。神が私たちに「掴め」と言われたものを、神に願い続けるのを止めるべき時があると思います。神が与える魂の収穫を阻止している敵がいることを、はっきり認識すべき時があるのです。
私たちは霊において立ち上がり、「ジョーよ、スーよ、私はあなた達をイエスの御名において解放する。暗やみにいる者たちよ、出て来なさい。ジョーを縛っているサタンよ、お前に命ずる、彼を解き放って彼の霊の目が見えるようにせよ。私は霊でジョーを掴み彼の霊の目を開く。ラザロよ、出て来なさい!」と言わねばなりません。私たちが権威を持ち、失われた魂に対する神の御思いを心に抱き、涙を流して産みの苦しみをして祈りの戦いをする時に、私たちは大いなる収穫を見ることができるのです。
リバイバルの鍵
私たちはリバイバルをもたらした力強い伝道集会のことを度々考えます。例えばビリー・グルハム伝道集会のことを考えてみてください。長年にわたって何十万何百万もの人びとが彼や又その他の伝道集会でイエス・キリストを信じる決心をしました。
しかし、人びとがあまり知らないことですが、多くの場合、伝道集会をする都市で開くときには、少なくとも一人か二人のとりなし手がその街に前もって遣わされます。彼らは部屋に閉じ籠って日夜深いとりなしをします。そのような魂を産み出す苦しみをすることによって、霊的領域で魂を解放し収穫を産み出すのです。
言葉を代えれば、彼らは先ず密やかに霊的領域で魂を勝ち取る戦いに勝利するのです。そして次に伝道集会において、目に見える形で勝利が起きます。それは人びとがイエス・キリストを信じる決断ができるように解放されたからです!
彼らの祈りはリバイバル集会で聖霊の火を大きく燃え上がらせます。
中国のリバイバルの鍵
以前私は中国の教会のビデオを見たのですが、クリスチャンたちが地下教会で午前4時に集まっていました。彼らは友人や家族が救われるために激しい産みの苦しみの祈りをしていたのです。その光景は本当に驚きでした。 彼らは神のヴイジョンと御思いに浸され、激しく深い産みの苦しみの祈りに入っていました。魂を産み出すプロセスは燃えつくすような情熱です。彼らは失われた魂に対する大きな重荷を霊的に孕んでいたので、そのようなとりなしの祈りに入っていたのです。
彼らの身体は震え、涙が頬を伝っていました。それは魂の救いのための産みの苦しみでした。中国のクリスチャンがそのようなとりなしの祈りをするのは、彼らの心に魂の救いのための熱いヴィジョンが燃えているからだということは明らかです。それこそが毎日2万5千人が救われている理由であったのです!
あなたは見るものを手にいれる
「心の目を開いてください」という歌は中国地下教会のクリスチャンにとっては現実です。彼らはまず自分の心の目で収穫を見、そして今リバイバルが起っているのです。皆さんはうらやましいという思いに駆られませんか?私はうらやましいです。中国が偉大な収穫を産み出しているように、もし私たちがそのための代価を喜んで支払うならば、ここ北米でもそれは起るります。
救われていない人と一つになる
救われていない人に対する神の本当の御思いについて、もう一つのことがあります。イエスが最も偉大なとりなし手となり、最も偉大な祭司となり、そして永遠にとりなしの働きをするためには、(ヘブル4:14、5:1−10)主は私たちがどのような状態なのかを理解し、その私たちと一つにならねばなりませんでした。ですから、主は天の栄光を捨て人間の肉体をとった神となりました。何という変り方でしょうか!
天の栄光と力を捨て、神の子として地上に下りて来られました。私たちと同じ肉体をとり、私たちと同じように試みに会いました。しかし、罪を犯しませんでした。(ヘブル4:15)主はその時、そして今も、私たちがどのような苦しみを通っているかを知っておられます。
主は私たちの人間的な状態と一つになり、私たちがどれほど惨めで助けを必要としているかを御覧になりました。実にイエスは私たちと一つになられたので、私たちの大祭司、とりなし手となることができたのです。(ヘブル4:13−16、5:1−10参照)
従って私たちも救われていない人たちと一つになる必要があります。以前自分が盲目で暗やみの中を歩んでいた人生が、どのようなものであったかを思い出す必要があるのかもしれません。そうすれば、失われた魂がイエス・キリストを見出すのがどれほど急を要する事であるかを感じ、彼らの救いのための情熱をもっと持てるでしょう。神は私たちが人びとの救われるのを強く望む熱い心で心動かされるのを願っておられます。
私たちが聖霊によって導かれると、失われた人たちの苦しみと実際に一つとなり、私たちの心や感情までも引き込まれるようになります。そうなる時に、私たちは魂の救いのために産みの苦しみを耐え忍び、更に深いとりなしへと進んで行けるのです。
あなたは無名のヒーローです
産みの苦しみの働きはもっと広い範囲でも行われています。歴史に残るリバイバルの中には、失われた魂のために人びとが産みの苦しみへと動かされた故に起ったものが多くあります。
ジョナサン・エドワーズが「神の怒りの手にある罪人」という有名な説教をしたとき、神の御霊が力強く注がれました。神があまりにも大きい聖さと力を顕されたので、長老たちは教会の柱にしがみついて「主よ、お救いください。地獄にすべり落ちそうです。」と叫んだ程でした。
この話を聞いて私たちは、彼の偉大な説教に焦点をあて、それが聖霊の偉大な力であると考えがちです。しかしこの聖霊の偉大な動きのための道備えをしたのは「とりなしの祈り」だったのです!
その教会の全員が前日の夜通し熱心な祈りをしていました。私たちが歴史を見るときに、神の人たちが祈りによって人びとの魂を救いに導いたことがわかります。今も無名のヒーロー達が人に知られることなく魂の救いのために産みの苦しみをしていることを私は知っています。
真剣に失われた魂のために祈っているほとんどの人たちは、人に認められることや見返りを求めてそうしているのではありません。しかし、主はその人たちのために、天に永遠の報いを用意しておられることは確かであると、私は申し上げたいのです。(マタイ6:6)(終り)