神の御心とは ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン 2015年3月23日
神の御心とは
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン
御心はリストではない
神の意志、御心(the will of God)とは、神が望んでおられることです。あなたの人生に対して神が何を望んでおられかをはっきりと知り、神の願いを成就するのがあなたのつとめです。私たちは往々にして神の御心とは規則表だと思ってしまいます。「これこれをするように、これこれはしないように」というリストです。「主よ、あなたは私にこのことをして欲しいですか?して欲しくないですか? これは罪ですか? 罪ではないですか?」というような考え方です。
「してはいけないこと」に関しては、リストに書いてあることさえしなければいいだろうと私たちは考えてしまいます。しかし神の御心とは、最低ぎりぎりの許容範囲のことを言っているのではありません。私たちに対して神が願っておられることが御心です。「神よ、あなたは何を望んでおられるのですか?」と私たちは訊かねばなりません。
人の願いというものは常に同じではありません。もしあなたが私に「何を食べたいですか?」と訊いたとしたら、私の答えはその日によって違います。もし神の私たちに対する願いが「するべき事、してはいけない事」というリストになっていて、それさえ守っていれば自分は神の御心を毎日満たしているのだと考えるならば、それは間違いです。神はそのような規則表に収められるような方ではありません。毎日、今日神が願っておられることは何かを知る必要があります。ですから、もしあなたが神に仕える者となりたいのならば、神の願いを見出すように努めねばなりません。
あなたのまわりの人の「御心」
私たちが神の御こころを行なうことを阻止するものがあるとすれは、その第一として、私たちが神ではなく「自分に対する人々の希望」を行おうとするところにあります。即ち、仲間、妻、夫、親、牧師、友人たちの「御心」を行ってしまうのです。
あなたに対するある人の希望や願いが悪いものとは限りません。多くの場合、その人はあなたにすばらしいことをしてほしいと願うのです。あるいはその人があなたに望むことと、神があなたに望むこととが同一かもしれません。又ある時は、その人はあなたに「神の望むようにしてほしい」と言うかもしれません。
しかし、ポイントは何をするか、ということではなくあなたの心のあり方なのです。あなたはその人が望むからするのか、それとも神が望むからするのか、それが問題です。あなたの心の動機が重要なのです。もしあなたがある人の願いのゆえに何かをするならば、いつかあなたはその人を恨むようになります。いつかその人に腹を立てます。なぜならば、事がうまく行かなくなったとき、あなたは誰の責任だと言いますか? その人でしょう!
あなたはこう言うのです。
「あの人の言うことなど聞かなければよかった!」と。
あなたはその人の願いを実行するべきではなかったのです。あなたの神との歩みに対してその人には責任はありません。彼はあなたにただ提案したのです。あなたはその提案を携えて自分の祈りの場所に入り、神の御心を直接聞くべきだったのです。残念ながら多くのクリスチャンは、ある人の願いが神の御心であると取り違えて行動してしまっています。
牧師に言われたからという理由で奉仕をしているとしたら、あなたは神の御心からはずれています。牧師に従順であるために行動したのならば、あなたは神に対して従順ではありませんでした。その結果、あなたは燃え尽き、失望、落胆などを経験するかもしれないのです。
外面への希望と内面への希望
ある人のあなたへの希望は、常にあなたの外面的行動に関してです。その人はあなたの心に対しては権威を持ってはいないからです。あなたに何かの行動を取ってほしいというのがその人の願いであり思いです。しかし神の御心は、外面的な行動ではなく、あなたの内面の心に関することです。
又、あなたが神の御心を求めて祈っていると思っていても、実際はほとんどの場合、あなたは外側の行動について祈っています。
「ああ神様、この人とデイトするべきでしょうか。」
「ああ神様、どの教会に行くのをお望みでしょうか。」
「ああ神様、この人と結婚するべきでしょうか。」
「ああ神様、お金を何に投資したらいいでしょうか。」
しかし神様は、あなたが誰とデイトするかよりも、どのようにデイトをするかに関心があるのです。第一テサロニケ4:3、4に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたは不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち・・・」とある通りです。
又、1テサロニケ5:16−18にこう書かれています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(for this is the will of God in Christ Jesus concerning you.)」
あなたに対する神の御心を行ないたいですか?
では、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝してください。それこそが神の御心であるからです。
御心は私たちの思いから
神はあなたがどの職場にいるかよりも、どのように働いているかに関心を持たれています。どんな車を運転しているかよりも、あなたが運転しているときに何を考えているかに関心を持っておられます。義への道は外側のことにあるのではなく、あなたの思いのうちにあるのだからです。神の御心は私たちの思いから始まるのです。
私たちは状況によって霊的に左右されてはなりません。
私たちは仕事が見つかった、給料が上がった、と言って喜びます。しかし、聖書はいつも喜びなさいと言っています。それはあなたの状況がどうであれ喜ぶことを止めないということです。主にあっていつも喜ぶとは、あなたが主にある時は喜ぶ理由があるということです。サタンはあなたの喜びを奪うことによって、あなたを神の御心から引きずり出してしまうのです。
仕事が見つかったから喜ぶのではなく、あなたが主にあるから喜ぶのです。イエスはルカ10:20で「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるさるされていることを喜びなさい。」と言っておられます。それこそが大いなることです。イエスがあなたを愛しておられる、それこそが大いなること、絶えず喜ぶべきことなのです。
成長には順序がある
私が大学に入るとすぐにアドバイザーが、各学年の必須科目、卒業するための単位数などを教えてくれました。すべてに順序がありました。2年生の授業を取るためには一年の授業を取る事が必要でした。
入学してすぐに4年生の授業をとって学位を取りたいと言ったらどうでしょうか? それは無理です。各学年をスキップすることはできません。
それと同じように、霊の成長にも順序があります。真理はあなたの中で正しく整理されねば、あなたを真の自由に導くことはできません。正しい順序を踏まなければ、あなたは真理を知ってはいても自由にはなれないでしょう。神の御心に関しても、ほとんどのクリスチャンは1、2、3年を通りすぎて直ぐに学位をとろうとするのです。
箴言3:5、6を見てみましょう。
1年生「心を尽くして主に信頼せよ。」
2年生「自分の知識にたよってはならない。」
3年生「すべての道で主を認めよ。」
4年生「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(He will direct your paths)」
しかし、私たちはどうするでしょうか?
すぐに4年生になって「ああ主よ、私の行く道を示してください。」と言うのです。神は「しかし、あなたは私を信頼してはいない。」と言われます。でもあなたは「ああ主よ、道を示してください。」と言います。
神は「でもあなたは自分の知識にたよっている。」と言われるのです。
私たちが「ああ神よ、私の経済をどうすればよいか教えてください。仕事はどうすればいいでしょうか。この状況で何をすればよいかを教えてください。」と祈り始めるならば、私たちは一年生に戻らねばなりません。
神は「あなたは全く焦点がずれているよ。あなたはわたしを信頼していないから、何か悪いことが起こるとすぐにパニックになるんだよ。」と言われるのです。
神に「道を示してください」と頼む代わりに、どうすれば神を信頼できるのかをお聞きするべきです。
又、自分の悟りに頼らないとは、「主よ、私は理解ができません。しかし私は自分の悟りを知る必要はありません。私は理解できませんが、あなたが知っておられます。」と言うことです。
そうすれば、また、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝することが出来ます。そして私たちは主の御心の中にいることが出来るのです。たとえ何かに失敗したとしても、喜び、祈り、感謝することをやめないならば、私たちは神の御心の中にいるのです。(終り)